72話 四国戦線
各地が膠着状態に陥っている中、最も状況が変化したのは四国だった。
蜂須賀正勝の説得により、丹羽長秀が兵を土佐の長宗我部元親のところへと動かしたのだ。
それには当然、大坂方に着く蜂須賀正勝の軍勢も加わる事になる。
が、蜂須賀軍の大半は子の家政が朝鮮に引き連れて行っており、正勝が動かせる兵はわずか数百ほど。
淡路の仙石秀久と、伊予の福島正則は大坂城にほとんどの兵を引き連れて籠っている。
長秀は、若狭も所領としているが若狭は本州の大坂を隔てた先だ。当然、使う事はできない。
つまり、実質的に讃岐の兵のみで戦う必要があった。
結局、土佐に侵攻する軍勢は3500ほどだった。
一方、長宗我部は5000ほどの兵を動員する。
だが、兵が集められたもののなかなか出陣命令がかからない。
それは、当主の長宗我部元親にあった。
元親は、対馬海峡の一戦で、織田信忠と共に嫡男・信親を失う羽目になった。溺愛する嫡男を失った元親は、すっかりと腑抜け状態となっており、かつて四国の覇者だった頃の精彩を欠いていた。
だが、いかに元親が腑抜けていようと、既に安土方として挙兵してしまっている。今さら矛を収めるわけにはいかない。
家臣団の必死に説得により、ようやく長宗我部軍が動いた。
既に土佐へと侵攻していた、丹羽・蜂須賀軍は土佐東部にある安芸城を包囲しており、これを後詰するべく進軍した長宗我部軍との間で合戦が始まった。
まずは、丹羽・蜂須賀軍の先陣である上田重安隊が、長宗我部軍の比江山親興隊とぶつかりあった。
当初、人数で勝る長宗我部軍が優位に立っていた。
だが、当主が腑抜け状態となっていた長宗我部軍とは対照的に、最期の戦場と定めた、丹羽長秀と蜂須賀正勝の執念は段違いだった。
凄まじい勢いで、長宗我部軍を押していく。
「……いかんな。これは」
長宗我部軍の本陣で、元親側近の久武親和がぼそりと言った。
長宗我部軍は、現時点で完全に押されている。
「御屋形様」
親和は、元親に話しかける。
「比江山殿の部隊が押されております。援軍を送ってはいかがでしょうか」
「……」
だが、元親は床几に腰を下ろしてこそいるものの無言のままだ。
「――御屋形様」
「……」
重ねて親和が言うが、元親はまるで反応しない。
「御屋形様っ!」
強い口調で言って、ようやく元親に反応があった。
「……ん?」
ぎょろり、と濁った瞳が親和に向けられる。
だが、そのどろんとした目は何も写していないように感じられた。
身体もただひすたらに、無気力な様子でだらりとしている。
……駄目だこれは。
親和は、内心で嘆息する。
嫡男・信親を、対馬海峡で失ってから彼はずっとこの様子なのだ。
すっかり、無気力な状態となっている。
家臣団決死の説得により、戦場にまで引っ張り出したものの、相変わらずな状態だった。
瞳には、四国統一を果たした全盛期の頃の気力がまるで感じられない。
ただひたすら、無気力な男がそこにいた。
「御屋形様、今は戦の最中でござるぞ!」
「戦、ん、戦か……」
むごむご、と意味不明の言葉を呟くと再び元親は黙り込んだ。
だが、だからといって何か策を考えているようには見えない。
「御屋形様っ!!」
先ほどよりもさらに強い調子で言うが、元親の反応は変わらなかった。
「しっかりしてくだされっ!」
親和が必死の説得を続ける中でも、戦局は動く。
凄まじい勢いの、丹羽・蜂須賀連合軍の猛攻により、数で勝るはずの長宗我部軍は押されていた。
少しずつ、戦線は後退せざるをえなくなる。
前線で戦う部隊からは、相次いで救援要請が届く。
だが、腑抜け状態となった元親では、まともな対策が打てずにいた。
「御屋形様……」
そんな様子を、親和は愕然とした様子で見ていた。
が、ここで長宗我部軍にさらなる凶報が届く。
「香川親和様、御討ち死に!」
「何じゃと!」
さすがに、本陣に衝撃が入る。
親和は、長宗我部元親の次男だ。
実の子の死に、さすがの腑抜け状態の元親も心が動いたかと思われた。
が、その報告を聞いても元親の身体はぴくりとも動かない。
相変わらず、焦点の定まらぬ目で床几に腰を下ろしているだけだ。
「御屋形様! 聞いているのですか、親和様が討ち死にしたのですぞ!」
「何を言っておる」
元親は、いっさい表情を変えないまま続ける。
「親和が死んだとしても、信親がいるではないか。儂の嫡男は信親じゃぞ」
「な、何を、言っておられるのですか。若殿は既に……」
「ところで、信親は今どこにいるのじゃ? すぐに呼んでまいれ」
「御屋形様……」
予想以上にひどい元親の様子に、親直は唖然とする。
本陣には、その後もさらなる悲報が飛び込んでくる。
「比江山親興殿、討ち死に!」
「福留儀重殿、討ち死に!」
「江村親俊殿、討ち死に!」
長宗我部をこれまで支えてきた、重臣達の戦死報告が相次いで届いてくる。
しかし、それでも元親の表情に変化はない。
「御屋形様、しっかりしてくだされ!」
「ん……」
元親はそう言うが、相変わらず目の焦点が定まっていない。
両手首はだらんと垂れ下がっている。
無理に采配を持たせようとしたが、むなしくそれは地に落ちた。
「御下知を! 今は、戦の最中でござるぞ!」
親直は、怒鳴るように言うが元親の様子は変わらない。
「戦じゃと? ……どこの軍勢とどこの軍勢がじゃ?」
「――っ!」
……駄目だこれは。
親直は、軽い眩暈を感じる。
周りの重臣達も動揺のようだった。
……長宗我部はもうおしまいなのか。
親直は、軽く唇をかむ。
……ならば。
親直は使い番を呼びよせると、
「……各部隊に、撤退の指示を」
と命じた。
「久武殿! それは……」
元親の側近の一人が、咎めるように言うがその相手をギロリと睨み、
「御屋形様は今、このような状態なのだぞ! まともに下知を待っていられる状態か!」
怒気すら孕んだ声だ。
事実、このままでは全滅しかねない勢いなのだ。
結局、側近達も久武の決断をこれ以上咎める事はできなかった。
各部隊に、撤退の指示が伝播していく。
が、既に各部隊は大きな被害を受けている。
撤退はなかなかうまくいかない。
「よし、押せ、押せーっ!」
丹羽長秀は、必死に指揮を執る。
既に身体は病によって浸食されているが、それを気にしている様子はまるでない。
蜂須賀正勝も同様である。
それに釣られたように、兵達も猛攻を続ける。
「やれ、やれーっ!」
丹羽軍の兵達が、声を張り上げ、長宗我部軍を押しまくる。
もはや、戦は丹羽・蜂須賀連合軍の優位に流れは傾いている。
となれば、手柄首は取り放題となるのだ。
逃亡する将の首を取る事は恥ではない。
合戦において、真っ向からの一騎打ちで敵の首を討ち取れる例は少ない。戦場で取られる大将首の大半は、戦場から離脱するところを狙われてのものなのだ。
長宗我部軍も、必死に粘るがそれもむなしい抵抗だった。
見る見る数を減らしていき、刀槍を捨てて、逃亡する兵も出始めた。
「不甲斐ない奴らめ!」
長宗我部の侍大将が怒り狂った様子で叱咤するも、聞く耳を持つ者は少なかった。ただ悲鳴をあげ、この場に倒れるか、逃走するかの二択を繰り返していた。
「好機ぞっ、一気に攻めよ!」
蜂須賀正勝の声が響く。
数こそ少ないものの、これを最後の戦場と決めた蜂須賀正勝の気迫も長秀に勝るとも劣らない。
こちらもまた、高い士気で長宗我部軍を押しまくった。
もはや、長宗我部軍の陣形は大きく崩れている。
軍としての形が崩壊しかかっている。
「いけ、いけーっ!」
長宗我部の家紋である、七つ酢漿草の旗が次々と倒れ、丹羽や蜂須賀の兵によって無様に蹂躙されていく。
「追え、追えーっ!」
丹羽軍や蜂須賀軍の兵達が叫ぶ。
だが、もはや長宗我部軍が崩壊した事を確信した長秀と正勝は攻撃中止命令を出した。
長宗我部軍は這う這うの体で逃げ出し、援軍の見込みがなくなった安芸城は、この日のうちに開城した。
長秀と正勝は、安芸城に入った。
無論、既に危険がない事は確認している。
「蜂須賀殿……やったな」
「はい、この戦は我らの完勝です」
両名の顔には笑みが浮かんでいる。
こうして、完膚亡きまでに長宗我部軍を打ち破った丹羽・蜂須賀軍だが安芸城を占拠したままその進軍が停止する。
蜂須賀正勝の患っていた病が悪化したのだ。
長秀も、正勝同様に病を患っている。
こちらも健康体とは言い難い。
もはや、完全に死に体となった長宗我部軍に反撃する余力もないと考えた丹羽・蜂須賀両家の重臣達はこの地で進軍を停止したのだった。
二人に病の治癒に専念して欲しいという思いからだった。
――だが、この直後だった。
蜂須賀正勝は、この地で没する事になる。
秀吉の参謀として、羽柴家を支え続けた重臣中の重臣の死だった。




