66話 関東戦線1
江戸城。
かつて、「掘立小屋同然」などと揶揄された小規模な館だったがある程度の増築工事が重ねられており、それなりに見栄えのするものにはなっていた。
だが、徳川家の関東奉行達にとってこの程度で終わらせる気はない。
いずれは、この城を日の本一の巨城にし、江戸の町も天下の中心にしようという野心があった。
だが、この戦に敗れればその夢も潰える事になる。
その為にも負ける事はできない、と奉行達の共通した思いがあった。
そんな中、江戸城の広間で軍議が始まった。
議長役を務めるのは、徳川家康の異父弟・松平康元である。
大久保忠世、忠隣ら親子、平岩親吉、といった徳川軍団の誇る三河武士達。
北条氏規、北条氏勝、といった北条旧臣もいる。
伊奈忠次、高力清長ら奉行衆の姿もある。
それよりも下座には、関東の小大名や武将達の姿がある。
その中に、池田輝政、真田信幸といった意外な面々の姿もある。
輝政の父である、恒興は岐阜城。兄の元助は松井田城に。
信幸の父である昌幸と弟の信繁は上田城にいる。
そんな中、彼らは大坂方としてこの場にいた。彼らの父達も戦国の世を生き抜いて来た武士達だ。
どちらが勝つか分からない、この日の本を二分した大戦にどちらが勝ってもいいように保険をかけてきたのだ。
「それでは、軍議を始める」
この軍議の口火を切ったのは、まだ声変わりもすませていない高い声だった。
声の主に、皆がいっせいに平伏する。
上座に座るのは、まだ10代前半といった外見の少年。
家康の三男・秀忠である。
唐入りが始まる直前に、名護屋城で元服したばかりであるが初陣はすませていない。しかも、まだ12歳だ。
若い、というよりも幼い、という表現の方が似合う。
強面の大人達を前に、顔には強い緊張の色もあった。
彼を、名目上であっても軍議に出席させたのは大久保親子の強い推挙があった。大久保忠世は、秀康ではなく秀忠こそが家康の跡継ぎに相応しいと考えており、拍をつけたがっていたのだ。
実質的に議長として、この場を仕切るのは康元だが名目上、この場の序列が誰よりも上なのはこの秀忠なのだ。
「絵図の用意を」
康元が言った。
同時に、秀忠は黙り込む。
まだ軍議に参加するのは早い、という自覚が秀忠にはあるのだ。
「忠世、現状の説明を」
はっ、と忠世が話し始める。
「上野の佐久間盛政が安土方として参戦しているため、上野のほぼ全域は敵地と化しています。安房の里見、常陸の佐竹は今のところ動向は不明ですが決して油断はできないでしょう」
さらに、と忠世は続ける。
「上野に、北条再興軍と称し、北条の旧臣が集っております。前当主の氏直が安土方に味方しておりますゆえ、相当な数がいるようです」
その言葉に、氏規は複雑そうな顔を浮かべる。
この場で、あからさまに氏規を批判する者はいないが、それでも居心地の悪さを感じていた。
「上野の佐久間盛政は、柴田勝家と共に現在は上方におり、上野にいる敵勢は北条再興軍のみ。しかし、上野に残った盛政の家臣達は全面的に北条再興軍を支援しているようです」
そして、と続ける。
「上総の恒興も岐阜におり、関東にいる池田軍をまとめているのは長男の元助」
今度は、輝政が複雑そうな顔を浮かべる番だった。
だが、忠世は構わずに続ける。
「ですが、池田勢の大半は岐阜におり、実質的に軍勢の中軸を担っているのは氏直であり氏邦や松田憲秀や大道寺政繁といった北条の旧臣達のようです。その数は、およそ3万ほど」
ざわり、と軽いざわめきが起こる。
尾張や信濃にいる兵は使えない今、3万という数字は決して侮れないのだ。
「それに対し、我らは佐竹や里見にも警戒する為の兵を残せば実際に動かせる兵はおよそ2万5000といったところ」
関東の徳川領や、信幸や輝政のように大坂方に着く事を表明している関東の小名達の人数を合計してもせいぜいがそれくらいなのだ。
「佐竹め、里見め……。日和見を決め込みおって……」
苦々しげに、親吉が言う。
「大方、安土方が優位に立った時に恩着せがましく安土方として挙兵する気なのであろうよ」
ふん、と忠次が吐き捨てた。
「全く。そんな事をして、御屋形様の心象を害するだけだというのに」
ちっ、と軽く舌打ちする声が聞こえる。
「しかし、奴らにも警戒の兵を残すとあると北条再興軍と対峙する為に仕える兵はさらに減じるな。佐竹は1万以上の軍勢をできるゆえ」
康元の顔に、暗いものが浮かぶ。
「ならば、伊達や最上に佐竹領を攻めさせてはどうですかな?」
親吉が提案する。
「伊達に最上にか……」
伊達政宗も最上義光も、既に大坂方につく事を表明している。
徳川家に彼らへの命令権があるわけではない。
あくまで、彼らの盟主は大坂にいる織田秀信である。
が、はるか遠方の地にいる秀信からの命令を受けてから動いていたのでは色々と遅すぎるのだ。
「いや、むしろ逆をした方がよかろう」
忠世が言った。
「逆、というと?」
「伊達殿に佐竹親子を説得させてはいかがか?」
「何ですと?」
軽く、場がざわめく。
「隠居したばかりの先代当主・義重の正室は、伊達家の先代当主・伊達輝宗の妹。そして、現当主の義宣は伊達政宗の従兄弟でござろう」
大陸出兵が始まる直前に、佐竹義重は隠居して家督を子の義宣に譲っていたのである。
「姻戚関係を利用して、伊達殿に説得を頼めと?」
「その通りでござる」
「伊達殿に頼んで見る価値はありますまい」
忠世の言葉だが、関東の事情に詳しい氏規が否定した。
「いえ、姻戚関係とはいえ伊達殿と佐竹は不仲でござる。無理ではないかと」
「某も無理だと思う。やはりここは、佐竹領に侵攻させるべきかと」
氏規に同意すると、親吉が強く言った。
「それは得策とはいえないのでは?」
異論を唱えたのは、高力清長である。
「そもそも、佐竹ははっきりと安土方に着くと決まったわけではなかろう」
「この時期に、兵を出さないというのは決まったも同然であろう。断固、攻めるべきだ」
親吉が強く反論する。
「今は日和見を貫いているとはいえ、佐竹親子の心は安土方だろう。我らに組するというのであれば、この江戸に参じてくるはずであろう」
「それは……」
清長は言葉を濁す。
実際のところ、佐竹はどちらかといえば安土方に揺れていた。
理由は明白である。
それは、恩賞として宛がうと約束した領地にあった。
もし、安土方が勝利した場合は常陸に加えて関東の徳川領から望みの国を二ヵ国を与えると言ってきていたのだ。
対して、大坂方が勝った場合は辺りの大半が徳川領である以上関東の加増は見込めない。
加増があっても、はるか遠方の地だろう。
「かといって、無理に佐竹領に侵攻してしまえば、その時こそ佐竹は安土方となろう。大坂方の領土に侵攻する事なく、自領に籠っているのははっきりと安土方に着く気がないからではないのか?」
清長の言葉に、親吉も反論する。
「そのように日和見を決め込む味方などいらぬわっ」
「しかし、佐竹の抱える兵は1万。味方に取り込めぬとしても、敵対されるとなると厄介な事に……」
「そうは言っても……」
家臣団が激しく議論を続ける。
上座の秀忠は、それをじっと聞いていた。
「うーむ……」
康元もこれまでの議論を黙って聞いていたが、なかなか結論は出ない。
「どうするべきかのう」
「やはり、佐竹は味方に取り込むべきでは?」
親吉が言った。
「現領の常陸に加え、下総辺りを恩賞としてくれてやると言えば乗ってこよう」
「下総一国か……」
うーむ、と康元が唸る。
「それくらい奮発すれば乗ってくるやもしれんな」
と、ここで。
「佐竹を味方に取り込むのか?」
不意に、ぽつりと呟かれた高い声に皆の視線がいっせいに動いた。
「若……」
声変わりすらまだすませていない少年に、驚いたように忠世は口を開く。
家康の後継者候補の筆頭・徳川秀忠である。
「佐竹を味方に取り込む気でおるのか?」
再度確認するように、秀忠は訊ねた。
「は、はい……」
まだ、10をわずかばかりに過ぎたばかりだというのに妙に落ち着きのあるその少年の言葉に忠世は思わず気圧される。
「佐竹を取り込みさえすれば、我らは北条再興軍との戦いにも集中できますゆえ」
「しかし、それではこの大乱が終決した後はどうなるのだ」
「は?」
秀忠の言葉に、思わず忠世は口をぽかんと開けてしまう。
「大乱が終決してしまった後、今の領土に加えて下総まで加増してしまえば佐竹は100万石近い大大名にまでなってしまうではないか」
じっと、少年の視線が忠世へと注がれる。
「忠世」
「は、はい」
「父上は、この江戸城こそを徳川家の本拠にと考えているのであろう」
「そ、その通りでございます」
「その江戸の近くに佐竹のような信頼できない輩が大大名として存在する事になるのだぞ」
「それは……」
忠世は言葉を濁した。
「若は佐竹を取り込むのは反対なのですか?」
傍らに控える、傍らで見ていた忠世の子・忠隣が訊ねた。
その言葉に秀忠はうむ、と小さく頷く。
「わたしは江戸城の城主だ。その近くに佐竹のような風見鶏に大大名としていてほしくない」
そのはっきりとした物言いに、居並ぶ武将達も思わず感心した。
……やはり、この御方こそ徳川家の後継者に相応しい。
忠隣は内心で家康の決断を賞賛した。
……この御方こそを次の後継者として敬っていこう。本多の親子は、秀康様を推しておるようだが、あのような粗忽な御仁では駄目だ。
「父上」
忠隣が、父・忠世に声をかける。
「やはり、佐竹には強気でいくべきでしょう」
「そうよな」
忠世も頷いている。
「では、伊達殿や最上殿に佐竹を攻めさせますか?」
「いや、伊達殿と最上殿には蒲生や木村と戦ってもらうべきであろう」
明智光秀の旧臣でもあり安土方として挙兵した、木村吉清はともかく蒲生氏郷は未だ中立だ。
が、いつ安土方に組してもおかしくない。
二人の石高の合計は、伊達・最上を上回るし、氏郷も信長にその才を見込まれた名将。吉清と連合されると厳しい相手となる。
「佐竹に関しては、我らだけで対処するべきだ」
「そうですな」
「うむ。その通りだ」
諸将も頷いている。
「大まかな方針は決まったな」
康元が、うむうむと頷きながら言った。
「我らは、北条再興軍を叩きのめす。佐竹がその邪魔をするというのであれば、そちらも叩く。蒲生・木村は伊達殿と最上殿に任す」
「それでは、父上からも御屋形様にそのように伝えてくださらぬか」
忠世は、家康から徳川四天王に次ぐ信頼を得ている。
ちなみに、酒井忠次が隠居して以降は本多忠勝、榊原康政、石川数正に、そして武田旧臣を取り込み小田原征伐でも武功を挙げた井伊直政が加わっての四人を徳川四天王と称するようになっていた。
かつての、北条家の本拠である小田原城を預かっているのもその信頼の証でもあった。
「分かった。儂からも、駿府の上様にこの軍議の内容は伝えておく」
この忠世の言葉に、敏感に反応した者は少なかった。
今この時点で、「上様」と称されるべき相手は大坂にいる織田秀信のはずだ。
――本来ならば。
だが、忠世は無意識のうちに秀信でなく駿府城にいる徳川家康の方を「上様」と呼んでしまっていた。
「では、軍議を終えるとするか」
「……そうだな」
康元もまた、それに気づいていたが深く突っ込む事はなかった。
「では、そういう事でよろしいですな、若」
康元が、秀忠の許可を求める。
この場の最高責任者は、あくまで秀忠なのだ。
康元も、家康の異父弟とはいえ家中での序列は秀忠の方が上だった。
「うむ、忠世の申す通りだ。上野まで進出し、安土方を叩き潰せ。佐竹も邪魔をするというのであれば叩きのめす」
その秀忠が頷く。
「では、その方針でいくとしよう」
秀忠の許可を得た、康元の言葉で軍議の場を締めくくった。




