65話 大坂戦線1
織田家本拠――大坂城。
九州から大返しをした羽柴秀吉が大坂城に入城してから、およそ二週間が経とうとしていた。
この日、軍議が開かれた。
織田秀信、織田信雄ら織田一族の姿もあるが実質的には羽柴軍首脳部が軍議を仕切っていた。
羽柴秀吉、浅野長政、黒田孝高、福島正則、仙石秀久、増田長盛らである。
京の都を脱した前田玄以の姿もある。
「お、おい。まだ大坂城を囲む敵はいなくならんのか」
上座から、不安げな声を出したのは織田秀信である。
声には、強い怯えの色が含まれている。
「秀信様。何度も、説明したではないですか」
答える秀吉は主君に対してとはいえ、わずかではあるが呆れの色が籠っていた。
大坂城内に敵勢の侵入を未だに許していない。
が、毎晩のように聞こえる大砲や威嚇の音に、秀信は眠れぬ日々を過ごしていた。
安土方の大砲では、どうやってもこの大坂城の天守にまで届く事はない。
そう何度説明しても、秀信は不安な表情を隠そうとはしないのだ。
毎日のように、重鎮達に喚き散らした。
「秀吉! わしは、お主が戻ってきたと聞いて即座に敵を蹴散らしてくれると期待していたのだぞっ。それが何だ、二週間もたつのに一向に包囲が解けんとはどういう事だっ」
「秀信様、なにとぞ冷静に」
「何を言うっ。わしは十分に冷静だっ」
「しかし秀信様。我らが連れてきた兵3万のうち、2万は擬兵でござる。実質、我らの軍勢は1万。大坂城に元々籠っていた軍勢は1万。合計しても2万にしかなりませぬ。それに対し、敵勢は7万ほどです。真正面から戦ったところで、到底勝ち目はないかと」
「そんな事は分かっておるわっ」
秀信は立ち上がる。
「だからこそ、その劣った人数で敵を追い払う策を立てよと言っておるのじゃっ」
そして、唾をとばして甲高い声で叫んだ。
「無茶な事を……」
ぼそり、と誰がつぶやいた。
その相手を秀信が睨みつける。
「――秀信様」
そんな中、窘めるように言ったのは叔父の織田信雄である。
「秀吉は、手持ちの兵を必至にやりくりして敵を凌いでおるのです。その言い方は、主君といえども如何なものかと」
「……」
なおも不満そうに、秀信は信雄や秀吉の方を見ていたがぷい、と不快そうに顔を逸らした。
……やれやれ。これでは先が思いやられる。
幼君といえども、あまりにも秀信に落ち着きがなかった。
これでは将来、どのような主君になるのだろうか。
羽柴家のみならず、織田家の幹部達も不安そうな顔をする中、秀吉が言った。
「まあ、皆様。朗報がござる」
「朗報、でござるか?」
信雄が怪訝そうに尋ねた。
「そうでござろう、前田殿」
秀吉の言葉に、皆の視線がいっせいに前田玄以に向けられる。
「うむ。今も、密かに朝廷に繋ぎを入れておるのだが」
玄以が切り出した。
「朝廷が、安土方に錦の御旗を与えるという件を渋りだした。信孝に官位を与えるという点も保留にした」
場が、軽くざわめく。
それは、まさに大坂方の諸将にとって朗報と言えた。
彼らは大なり小なり不安だったのだ。
自分達は、賊軍になるのではないか。
賊敵と呼ばれる羽目になるのではないかと。
朝廷が安土方に協力的と聞き、さらに不安を強くしていた。それだけに、今の玄以の言葉に安堵した。
「それはまことでござるか?」
「うむ。羽柴殿の大坂城到着を聞き、朝廷もそう簡単に我らが倒れんと思ったらしい。まあ、下手に安土方を官軍にして敗れてしまえばその時こそ朝廷の立場は危うくなるゆえな」
それに、と玄以は続ける。
「朝廷だけではない。公方様も、例の話を渋り出したらしい」
「ああ、信孝を公方様の養子にして将軍職を譲るという例の」
秀久が言った。
「相変わらず、緊急時の危機察知能力は異様なまでに高い御方よな」
秀吉が呆れ気味に言った。
義昭は、本当に追い詰められた状態での危険を察知する能力は驚異的に高い。でなければ、時の権力者・織田信長と何度も窮地に追いやりながらも生きながらえる事など不可能だ。
しかも、相手は一度恨みを買えば何十年経とうとも異様なまでに執着する執念深い信長が相手なのだ。
将軍職という特殊な地位にあったとはいえ、先々代将軍・義輝の例を見ればわかるように将軍職であっても安心できない時世なのである。
「下手に、信孝を将軍としてしまえば朝廷も公方様も我らの怒りを買うのは必定ですからな」
孝高が苦笑交じりに言った。
「ならば、儂が大坂城に急いで戻った事も無駄でなかったという事よのう」
はは、と秀吉が笑った。
それにつられるように羽柴軍達の間に、笑いが起きた。
だが、その朗らかな空気は長く続かなかった。
「……笑っている場合ではなかろう」
秀信である。
その顔は渋い。
不愉快、の文字が強く顔に浮かんでいる。
「これは秀信様、いかがしました」
「いかがしました、ではないっ! 一刻も早く謀反人である信孝を成敗する算段をせいっ!」
甲高い声で、秀信が怒鳴った。
「秀信様、落ち着いてくだされ」
信雄が宥めるように言った。
「落ち着いておられるかっ! お前達は信孝を討伐するためにここに集まったのであろうっ! ならば、とっととその策を立てぬかっ!」
喚き散らすようなその声に、秀吉たちは顔をしかめた。
……信秀公、信長公、信忠公と英傑を生んできた織田家といえどもさすがに四代続けて英傑が生まれる事がなかったか。まだ10そこそこで、未知数の部分も多いとはいえ、これでは先が思いやられるわ。
内心で秀吉は嘆息する。
……まあいい。秀信様が愚物であればその時は。
その時は。
……?
一瞬、そこで言葉に詰まった。
……その時は、儂は秀信様をどうするつもりなのであろうか。
ふと、ここで考え込む。
既に、秀吉は自らが新たな公儀体制の中心に立つ事を構想し始めていた。
だが、そうなった場合の秀信の処遇に関しては今のところ決まっていなかった。
……秀信様を。救いようがない愚物であったとしても信長公の嫡孫。無碍にすべきではないが。
無害であるならば、放っておいてもよかろう。
だが、本当に無害なのか。
秀信が愚物であっても、信長の孫で信忠の子という事実までは消せない。
……本当に良いのか。
内心で自問する。
……汚名を着る事になっても、屠るべきではないのか。
ここで、大坂城に入城した時の、まるで大坂城の主が入ったかのような反応を秀吉は思い出す。明らかに、秀信などよりも秀吉が大坂城の主である事を皆は望んでいる。
「おいっ、秀吉っ! 聞いておるのか!」
「……これは失礼を」
考えを引っ込めた秀吉は、おどけたような笑い顔を顔に浮かべる。
「まま、秀信様も落ち着いてくだされ。朝廷も謀反人共に勝ち目が乏しいと考えはじめておるのです。籠城し続けて、我が不利になる事はありませぬ。名護屋城の包囲軍と、朝鮮の遠征軍が後詰として駆けつけてくれば、完全に形勢は逆転します。そうなれば、我らの勝利は揺るぎないかと」
そう言って、秀吉は平伏した。
……まあ、この大坂城が落ちて儂の首が胴体から離れてしまえば全てが終いじゃ。織田家の未来も秀信様の未来も全てば無意味となる。
秀吉は心の中に浮かんだ、考えを一度は引っ込めた。
……名護屋と朝鮮の軍勢が後詰に戻れば、我らの勝利は揺るがん。それまで何が何でも大坂城を守り抜くっ!
そう固く秀吉は決意した。




