63話 丹羽長秀
讃岐に領国を持つ、丹羽長秀は二通の書状を前に暗鬱な表情を浮かべていた。
辺りに、人はいない。
……何という事だ。
彼を蝕む病は、既に片足を棺桶に引き摺り込んでいた。
素人の目から見ても体調が悪いのは分かる。
だが、長秀の顔が暗いのは病のせいだけではない。
……儂に、秀信様につくか信孝様につくか選べというのか。
二通の書状の中身は、安土方の盟主ともいえる織田信孝と織田信忠の嫡男である織田秀信――ただし、書状そのものは叔父の織田信雄が書いていたが――から送られてきたものである。
中身はどちらも似たり寄ったりである。
――こちらこそが、織田家の正当な後継者である。我が陣営に組せよ。さすれば、恩賞は望みのまま。敵対するのであれば、取り潰す。
長秀本人は、心情的に大坂方だ。
騙し討ちに近いやり方で信忠を屠り、後継者を自称した信孝に対して好感情を抱いてはいない。
むしろ、反感すら持っていた。
にも関わらず、長秀は揺れていた。
原因は、地理的な条件にあった。
長秀は、讃岐と若狭を所領としている。
若狭の方は、子の長重に与えて彼自身は讃岐の統治に専念し、今もこの讃岐の地にいた。
そして、安土方には土佐の長宗我部も組している。
これが大きな理由だった。
周りを見渡せば、伊予の福島正則や阿波の蜂須賀正勝、それに淡路の仙石秀久などは大坂方の羽柴秀吉の家臣達だが、彼らは兵の大半を引き連れて秀吉に同行している。唯一正勝のみは、今もなお阿波にいたが彼の軍勢の大半は子の家政が率いて朝鮮の地に渡海している。
ゆえに、周りを見渡しても味方といえる存在が長秀にはいないのだ。
自分の子である長重はというと、今は越前から安土方の柴田勝政率いる軍勢による侵攻を受けているらしくとてもこちらに兵を送る余裕はないようだった。
「御隠居様」
襖が開かれ、小姓が訊ねた。
それに気づいた、長秀が上体を起こす。
「何用じゃ?」
「蜂須賀様が御着きになりました」
「そうか。すぐに会う。着替えをする。布団も片付けてくれ」
「しかし……」
小姓が、不安そうな色を顔に浮かべる。
「儂の体の事なら、心配は無用じゃ。今は病魔も大人しい。それに、戦場にいくわけではない。ただ、蜂須賀殿と会うだけじゃ」
「……承知致しました」
不承不承、といった様子で小姓は頷き、長秀の着替えを手伝う。
もう、一人で着替える体力すら長秀から奪われかけていた。
やがて、蜂須賀正勝が現れた。
既に、彼も老人と言われる年齢に突入しており家督も朝鮮の地にいる家政に譲っている。
「おお、蜂須賀殿。久しいのう」
「お久しぶりでござる。壮健そうで何より」
ふふふ、と長秀は笑う。
「壮健なものか。体のあちこちが悲鳴をあげておる」
「ははっ、某も同様でござるよ。お互いに年には勝てませんな」
そう言って正勝も笑った。
やがて、どうという事もない雑談が交わされる。
そして、半刻ほど経った頃、正勝は切り出した。
「……ところで」
一瞬、間を置いてから正勝は話し始めた。
「丹羽殿は、此度の大乱についてどう考えているのでござるか?」
……来たか。
長秀は、内心でそう思った。
「どう、と言われましてものう」
長秀はそう言ってぼかす。
迂闊な事は言えないのだ。
「信孝様は、恐れながら大恩ある上様を弑逆した大罪人でござる。その信孝様を盟主と崇める安土方。上様の正当なる後継者である秀信様を後継者と崇める大坂方。 ……失礼ながら、どちらに大義があると思われる」
「……」
長秀は、すぐに唇を動かす事ができずにいた。
下手に回答してしまえば、大坂方として使役される事になるのではという強い不安があるのだ。
「丹羽殿。丹羽殿の御懸念は最も。下手に我らに組してしまえば、大坂方として安土方に兵を向けられると不安なのでござろう」
その通りだ、とはさすがに正直に言えない。
「……ところで」
ここで、不意に正勝は話題を変えた。
「名護屋城にいた長束殿ら、丹羽家の皆様方をお返しする。四国に渡る船の手配も済ませている」
長束正家は、兵站奉行として名護屋城にて任務に従事していた。
それ以外にも、現在家督を丹羽家の継いでいる丹羽長重は名護屋の地にはいなかったものの、丹羽家の家臣や兵の一部はまだ名護屋城に残っていたのだ。
「……何と、ですがよろしいのか?」
「何がですかな?」
「今は、わずかでも兵がいるでござろう」
「確かに。ですが、丹羽殿も下手をすれば安土方の長宗我部に領国を犯されかねない大事な時期。我らの都合だけを押し付けるわけにはいきませぬ」
「……それはありがたい」
名護屋城の奪還に、少しでも兵が必要であろうこの時に数こそ少ないものの丹羽家の兵を戻してくれたのはありがたい。
長秀は、秀吉に対する評価を少し上に修正する。
「……丹羽殿」
「何かな」
「丹羽殿の領国は、柴田殿と比べて少ないですな」
「何ですと?」
その言葉に、長秀はわずかばかりにむっとする。
確かに、出世街道を突っ走る羽柴秀吉や元筆頭家老の柴田勝家と比べると丹羽長秀の領地は小さい。
謀反を起こした明智光秀、失態を犯した滝川一益はともかく、長秀は大きな失態も犯さず謀反とも無縁だった。
織田五大老などとかつては称されていたものの、大きく秀吉や勝家とは大きく差をつけられていたのである。
「それがどうしたというのだ」
事実とはいえ、あまり言って欲しくない事だ。
「我が主は、それに憤っておられた。何故、丹羽殿の石高はそれほどまでに小さいのか。柴田など、今回の以前にも謀反を起こしている。にも関わらず、忠実に仕え続けた丹羽殿がこのような扱いでいいのか、と」
柴田勝家は、織田信長が家督を相続する際に織田信行を擁して反旗を翻した前科があるのだ。
「それゆえ、今回の大乱で丹羽殿が大坂方の勝利に貢献された暁には大きく加増したいと言っておられた」
「……」
ぴくり、と長秀の身体が反応する。
長秀も、戦国武将だ。石高の加増の話となれば、嫌でも反応せざるをえない。
「大坂方が勝利した暁には、丹羽殿に土佐と越前を加増すると言っておる」
「土佐と越前でござるか……」
長秀の言葉が思わず揺らぐ。
今の領土に土佐と越前を領国に加えれば、丹羽家はおよそ100万石の大大名にまでなる。
そうなれば、一躍大大名の地位を手に入れる事ができるのだ。
長秀は、自身の寿命が残り少ない事を察していた。
察していたからこそ、子の長重にできる限りのものを残してやりたいと考えていたのだ。
……あの苛烈な上様の元なら、長重は些末な失態で大減封を食らったやもしれんしのう。
最期に、丹羽家の基盤を盤石にしておきたいと考えていたのだ。
「うーむ……」
いつの間にやら、大坂方に加勢する前提の考えに変わっていた。
……多少の危険は冒しても、ここは大坂方に味方すべきか。
長秀は決断した。
「承知した。某は、秀信様の元で戦おうぞ」
「おおっ」
正勝は顔に喜色を浮かべる。
「さすがは、丹羽殿。我が主君も丹羽殿と共に戦える事を喜びますぞ」
「それは何より」
ふふ、と長秀は小さく笑う。
……最後の大仕事となるか。
今回の大乱の後、この世を去ったとしても十分なものを子に残してやろう。
長秀は、そう強く決断していたのだ。
こうして、この日の会談は終わった。
以降、丹羽長秀は大坂方に組する事を表明。
長秀の抱える軍勢は少なかったが、織田信長・信忠二代に重臣として仕えた丹羽家の名は大きかった。
丹羽長秀が大坂方に着いた事により、安土方に傾きかけていた大名達の心を再び大坂方に引き寄せたのである。




