62話 信孝入京
――京の都。
長らく、日の本の中心として栄え続けた都だ。
かつて、足利将軍家も、三好長慶も、織田信長も。
天下を志したものはこの地との縁が深かった。
京の都から遠く離れた地の大名だった者達も、この京の都を無視する事はできず、絶えず動向を気にしていた。
それだけ、この地は日の本の歴史において重要な地であり続けたのだ。
そんな中、織田信孝は京の都に入った。
引き連れているのは柴田勝家、佐久間盛政、岡本良勝らである。総勢は、およそ5万。
信孝は、安土城を占拠した後、柴田勝家ら北陸の兵を安土にいれた。ただし、前田利家、金森長近ら一部の者は越後の上杉景勝の抑えとして残しての事である。
信孝は畿内の有力大名の兵と北陸勢を足した安土方の軍勢の一部を、東海道を西に進んでいる徳川家康と、尾張の織田信雄の抑えとして残し、自身は大坂を目指した。
だが、大坂城を攻める前に彼らは京の都に入った。
安土方は、朝廷ともつながりを持っていた。
朝廷の内部にも、朝廷をないがしろにする信忠らに反感を持つ者は決して少なくなかった。
朝廷も、安土方の決起を喜んだのである。
それ以外にも、安土方には強力な味方の当てがあった。
それは、征夷大将軍・足利義昭だった。
なお、肩書に「元」はつかない。
かつて、反信長連合の黒幕として君臨し続けた男だ。京から追放された後も毛利家の庇護を受け、反信長活動を続けてきたが毛利家が織田家に正式に従属してからは毛利家にいづらくなり、京で隠棲生活を送っていた。
その義昭と、安土方は密に繋ぎをとっていたのである。
実権を失ったとはいえ、彼は現職の将軍だ。彼の利用価値は十分にあった。
信孝は、かつて伊勢の名家・神戸家を乗っ取った時のように足利義昭の養子となる事により征夷大将軍の継承する気でいた。
そして、その話は既に通してあった。
義昭も、このまま隠棲生活を送り続けるくらいならば最後に一花咲かせたいと思っていたらしく、信孝の案を了承した。
ところが、だ。
朝廷も将軍もここにきて、安土方に組する事に尻ごみしはじめた。
「何故だ……」
二条城に入った信孝は、憮然とした様子で柴田勝家に言った。
勝家以外にも、滝川一益、佐久間盛政、高山重友、中川清秀、筒井順慶ら安土方を支える幹部達の姿がある。
彼ら以外に安土方に組した面々は、各地でそれぞれ決起していた。
「かねてからの手はず通り、信忠を屠り、安土城を乗っ取り、京の都も手に入れたっ。なのに、何故、朝廷は儂に組しない! 将軍もだっ」
ちなみに、京都所司代として京の都を守っていた前田玄以は手持ちの軍勢では10万を超えるともいわれる安土方の軍勢を支えきれないと判断。
大坂城へと逃れていた。
「錦の御旗さえあれば、今は日和見を決め込んでいる大名共もこぞって儂に組する。将軍の権威もあればなおさらだっ」
信孝は、凄まじい形相だった。
ろくに寝ていないのか、顔色は悪い。
対する勝家や一益らは――少なくとも表面上は――平静であり、さすがは歴戦の武士であり、戦乱の世を生き抜いてきた戦国武将だった。
「……はっ。どうやら、秀吉がこんなにも早く大坂城に戻るとは思っていなかった様子であり、朝廷にとってはいつぞやの悪夢が蘇っているのでしょう」
いつぞやの悪夢、とは本能寺の変だ。
かつて明智光秀は信長を討った後、即座に朝廷に銀500枚を献上するなどし、京の守護を約束。朝廷も帝に譲位を迫るようにまでなっていた信長よりも、謀反人であるはずの光秀の方に好意的な姿勢だった。
が、意外にも信忠は即座に体勢を立て直し、秀吉も備中高松から神速の大返しを行った事により、光秀の計画は瓦解した。
しかも、その黒幕ではないかと朝廷は疑いの目を向けられた。
それでも、状況証拠はどれだけあってもまだ勅令を出していなかったというのが大きかった。
その為、信忠らは朝廷にそれ以上の追及はできなかった。
しかし、ここで明確に信孝ら安土方を擁護する勅令を出してしまえば、今度も無事である保障はない。
信忠の仇である、安土方を擁護したとあっては、朝廷であってもただではすまない。
大坂方の中軸である、秀吉も家康も朝廷を利用しようという考えはあっても、ないがしろにしようとする気はない。だが、それでも信忠の敵討ちを大義名分としている以上、その安土方を公然と擁護した朝廷に何の咎めもなしというわけにはいかなくなるのだ。
「第一、何故秀吉は大坂城に3万もの兵を引き連れて入ったっ! こんなにも早くにだっ! 名護屋城を乗っ取れば、最低でも一か月は釘づけにできるといったのはどこのどいつだ!」
信孝は怒り狂ったまま、一同を見渡す。
「3万という数は我らの予測を超えておりました」
勝家が素直に言った。
「しかし、名護屋城包囲にある程度の人数を残す必要はありますし、佐々殿や島津殿らの北上に備えるためにそれなりの数の兵を残す必要があると思っていましたが……一体、どこから3万もの兵が出たのでしょうか」
盛政が疑問を口にした。
「うむ。その件は、某も疑問に思っていた」
一益である。
「擬兵ではござらんか?」
順慶が言った。
「うむ某も同意だ。あらゆる状況から考えて、今の秀吉が3万もの兵を大坂に入れる余裕があるとは思えん。適当に招集した農民連中でも引っ張り出したのであろう」
同意する一益に、勝家も頷く。
「そうよな」
「ならばなおの事ではないかっ」
信孝が叫んだ。
「朝廷や将軍に、その事を伝えいっ。相手は、擬兵が大半だと、そして大坂城に入った秀吉など恐れる事はないとな!」
「……」
勝家は黙り込む。
確かに、大坂城に入った兵の大半が擬兵だとしてもおそらく秀吉は本物だろう。
それによって、大坂方の士気があがった事は紛れもない事実だ。
「――信孝様」
勝家が、かしこまったように頭を下げる。
「やはり、やるべき事は変わりません。当初の予定通りに行動すべきかと」
「当初の予定通り、じゃと?」
「はい。当初の予定通りこのまま大坂城を落として、織田秀信の首を刎ねる。その時には秀吉の首も。そうすれば、朝廷も将軍も尻込みするような事はありますまい。順番が変わりますが、それから錦の御旗を賜り、官軍として大坂方の残党共を成敗していけばよいのです」
「う、うむ……」
信孝もそれで納得したのか、先ほどまでの勢いはなくなった。
「分かった。それで、よい」
どさり、と浮かしていた腰を再び下ろす。
「だが、徳川への抑えはどうする? 尾張の大坂方の軍勢もだ」
尾張は、大坂城にいる織田信雄の領国。
当然、尾張にいる兵は大坂方の家康に組する事になろう。
「そちらにも、軍勢を動かす必要がありますな」
勝家が言った。
「恒興だけでは足りんか」
「はい」
勝家が頷いた。
美濃岐阜城には、安土方の池田恒興が1万ほどの軍勢を率いて入っていた。
が、西上する徳川軍と尾張の織田軍が連合すれば、3万を超える大軍になる。三倍以上となれば、城攻めも可能な戦力差だ。
「うーむ……」
信孝が、顎に手を当てる。
何やら、考え込んでいる様子だ。
そして数十秒後。
「決めた」
と手を叩いた。
「儂自らが、軍勢を引き連れて徳川を叩く」
「何ですと?」
勝家の目尻がかすかに上がる。
「しかし、信孝様は我らと共に大坂攻めに加わる予定では……」
「そちらは、貴殿に任す」
「……」
勝家は、信孝の提案に思わず黙り込んだ。
……兄の築いた大坂の地を攻める事に罪の意識でもあるのか?
勝家はそんな事を考えたが、神ならぬ勝家に信孝の内心を読む事などできない。
「……分かりました」
やがて、勝家は言った。
「徳川軍と尾張勢は、信孝様がという事で」
「うむ」
信孝は満足そうに頷く。
「では、濃尾戦線には4万ほどの兵を連れていってくだされ」
「4万もか?」
そうすると、勝家が大坂攻めに使える人数はおよそ7万という事になる。
擬兵の2万を除けば、大坂城に籠る大坂方は2万。
6万対2万なら城攻めも可能だ。しかし、相手は天下無双の大坂城。苦戦は免れないだろう。
「相手は精強徳川軍ですゆえ……」
確かに、精強で知られる徳川軍というのも合計5万もの兵を美濃に回した理由だったが、それだけが理由ではなかった。
徳川家康という男と、目の前にいる織田信孝の器量を比較すれば、どう考えても家康の方が上だと勝家は考えていた。
それだけに、それくらいの兵力差がなければまともに渡り合う事も難しいと。
しかし、主君である彼にそれを指摘する気にはなれなかったのである。
勝家が、皆を見渡して言う。
「それでは、我らはこれから二条城を発し、大坂城を落とす。異論はありませんな。各々方」
「応っ!」と歓声にも近い声が、二条城の大広間に響き渡った。
大坂城。
織田家の天下の象徴であるこの城に、羽柴秀吉が帰還していた。
浅野長政、仙石秀久、福島正則、増田長盛、黒田孝高らを引き連れての帰還である。
「よくぞお戻りに」
今にも泣き出しそうな表情で、織田家の家臣達が出迎えた。
それは、飼い主に捨てられ、行き場に彷徨っていた犬のようにすら見えた。
「おお、貴殿こそよくぞ無事で」
秀吉は、一人一人、織田家家臣の名を呼び、労いの言葉をかけた。
そのたびに、家臣一同は織田家の最高幹部ともいえる秀吉が自分の事を気にかけてくれている事に感涙した。
人誑し・秀吉ならではの事である。
……儂が、本気で天下を取るとすれば、中軸は儂の子飼で固めるとしても、こやつらも取り込む必要があるしの。
そう内心でほくそ笑みながらも大坂城に入った。
大坂城の広い広間。
その上座には織田秀信がいる。
織田信忠が亡くなった今、彼こそが織田家の正当な後継者である。
そして、彼を盟主として大坂方の皆は崇める必要があった。
「うむ、秀吉が戻ったか……」
秀信が、震えた声で言う。
どこか落ち着きがなく、視線はあちらこちらに彷徨っている。
彼はこれまで、天下人の子として蝶よ花よと育てられた。
それだけに、初めての窮地ともいえる場面に平常ではいられないのだろう。
「お主が戻ったからには、すぐにでも叔父の軍勢を追い返せるのだろうなっ」
怯えの強く混じった顔で、秀信は怒鳴る。
「……」
その様子を見て、秀吉は内心で呆れた。
……年齢を考慮しても、もう少し落ち着いて欲しいものだ。まだ信孝の軍勢は大坂にすら来ていないというのに。
「何を黙っておるっ。わしは、一刻も早く信孝の軍勢を追い払えと言っておるのだぞっ!」
「そこまでにされよ」
そんな秀信を止めたのは、織田信雄だった。
秀信を除けば、事実上、現織田家の第二位ともいえる存在である。
戦下手、などという評判もあるがこの場では落ち着きのある様子を見せた。
「秀吉の軍勢も名護屋から戻ったばかりで疲れているであろう。そのような相手に、今のような言葉はいただけませぬぞ」
その叱責するような言葉に、秀信はふんと視線を逸らす。
その信雄の気遣いに感謝するといわんばかりに、秀吉は軽く頭を下げた。
「羽柴殿。よくぞお戻りに……」
次に声をかけたのは、名人久太郎の異名を持つ堀秀政だ。
有力武将が各地に散っている現状では、大坂城に残った武将で彼のような存在は貴重である。
「羽柴殿、早速で申し訳ないのですが……」
「分かっておりますぞ。今後の方針ですな。気遣いは無用ですぞ」
「はい。信孝の軍勢は、既に京に入っております。この大坂に攻め寄せてくるのもそう遠い話ではないかと」
「だからわしはとっとと追い払えと言っておるのだっ」
上座から、秀信が怒鳴る。
そんな秀信を秀吉は一目見てから、
「現時点で、某の連れてきた軍勢は1万と擬兵が2万。元々大坂城にいた軍勢の1万を足しても4万。しかも、擬兵では実際の戦闘ではほとんど役に立ちません。それに対し、京にいる信孝の軍勢は10万を超えます。このままでは厳しい戦いになるかと」
「ではどうするというのだ!」
「当面は籠城ですな」
秀吉の言葉に、場がざわめく。
「この大坂城は天下無双の城。亡き上様が心血を注いで築いた覇城です。安土方の有象無象がいかに攻め立てようとも、簡単に落ちる事はないでしょう」
「なるほど……」
何か言葉を出しかけた秀信を遮り、信雄が言った。
「確かに、現状ではそれくらいしか策はないであろうな。しかし、援軍の来る当てのない籠城戦はいずれ自滅するほかないぞ」
「援軍ならあります」
秀吉は言った。
「名護屋城を奪還できれば、朝鮮にいる遠征軍が使えますし、今名護屋城を包囲している軍勢も同様です」
「確かに、遠征軍と名護屋城の包囲軍が後詰に駆け付ければ、形勢は変わるな」
信雄も納得したように頷いている。
「しかし、名護屋城は今もなお安土方に奪われたままなのであろう」
「はい、ですので――」
と、いったんここで言葉を切ってから秀吉が続ける。
「この戦いは、安土方がこの大坂城を落とすのが先か。名護屋城を包囲している味方が名護屋城を奪い返して、遠征軍を引き連れて戻ってくるのが先か――時間との闘いになるでしょう」




