61話 秀吉反攻
播磨国――姫路城。
この地に、羽柴秀吉ら羽柴軍は到達した。
日は、既に沈みかけている。
「今宵は、姫路泊まりじゃ。じゃが、明日もすぐに経つ必要があるゆえすぐに休むように伝えよ」
そう言うと、秀吉も早々と姫路城内に入っていった。
かつて、織田信長が本能寺で討たれた際、羽柴秀吉は備中高松から神速の大返しを行った。
その途上、この姫路城に立ち寄り、明智光秀の討伐を固く誓った。
が、今はその光秀の討伐を諦め、光秀のいる地から遥か離れようとしていた。
自らの手で、光秀を討っておきたかったという気がしないでもない。
……今は、光秀よりも大坂城じゃ。
秀吉は、こちらを優先すると決めたのだ。
大坂城が落ち、秀信が討たれてしまえば大勢が決しかねない。
名護屋城が奪われたまま、朝鮮遠征軍との連携が絶たれるのも問題だが、それ以上に大坂城の陥落だけは防がなければならなかったのである。
強い決意を瞳に宿した秀吉に、声をかける者がいた。
「殿、お帰りなさいませ」
古くから秀吉に仕える、浅野長政である。
彼の子である幸長は朝鮮半島にいたが、彼はこの姫路城で留守を任されていたのである。
「うむ」
秀吉の返事は短い。
「明日は明朝に姫路を発つ。一刻も早くに大坂にたどり着かねばならんからのう」
「はい」
長政は答える。
「武器や、兵糧の準備は既に整っております。すぐにでも経てるかと」
「そうか」
そう言うと、秀吉は満足そうにうなずく。
「さすがは、長政じゃ。儂が言うまでもないか」
どさり、と畳に腰を下ろすと小姓に汗を拭う手ぬぐいを持ってくるように命じた。
やがて、小姓が手ぬぐいを持って現れる。
秀吉は、肌を露出し、それを小姓たちが拭いはじめた。
「少しでも疲れを癒す必要があるゆえ、儂はすぐにでも寝ようと思っておる」
「食事はどうされるのですか?」
「腹が膨れれば何でも良い。味わって食うような時間もないしのう」
秀吉は、決して高い身分の生まれではなかったせいか、他の武将以上に美食に拘わる男だ。
それだけに、今がいかに余裕がないのかが分かる。
「分かりました。では、何か簡単なものをすぐにでも準備をさせましょう」
長政が、傍らに控える近習に指示を出した。
「……ところで」
そして、不意に話題を転じた。
「殿はお会いにならないのですか?」
「……寧々か」
誰に、と長政は口にしなかったが、秀吉はすぐに誰の事を言っているのかが分かったらしい。
「はい。次にいつ会えるかも分からない状況ですゆえ」
「悪いが、今は時間が少しでも惜しいのだ。会う事はできんな」
「そうおっしゃらずに。今は逃せば、次はいつになることか……」
「……まあ、その時は儂の首と胴体が離れておるかもしれんしのう」
ふふふ、と秀吉は笑った。
「殿。笑い話ではありませぬぞ」
「はは、笑い話なものか。信孝が大坂城を落としてしまえば、本当にそうなりかねん。安土方に加わっておる連中は、儂を忌み嫌っておる連中ばかりだしのう」
ふん、と秀吉は鼻を鳴らす。
襖が開き、簡単な握り飯の乗った盆を小姓が運んできた。
短期間で作った為か、うまく握れておらずに形が悪い。
だが、気にする事なく秀吉はそれを撮んで口に入れる。
「それに……」
秀吉は、握り飯を口に放り込みながら続ける。
「名護屋や朝鮮に残った連中も、皆女房や子供達と会いたがっておる。そんな中で、儂だけが寧々と会うわけにはいかんの」
一緒に運ばれてきていた水で、秀吉は口元に入れた握り飯を流し込む。
「名護屋や朝鮮に残った連中だけではない。共に戻ってきた、正則や秀久も自領に帰らずに、このまま儂に付き添ってくれるそうじゃしの」
再び、秀吉は握り飯に手をつける。
「四国の正勝も、朝鮮の地に残った家政が心配であろうというのに、儂の為に働いてくれると言ってきておるのだぞ」
「蜂須賀殿が何か……」
蜂須賀正勝は、この時、領国の阿波にいた。
「讃岐の丹羽長秀殿を説得してもらっておる。丹羽殿が、大坂方に着いてくれれば得る者は大きい」
丹羽長秀は、単に讃岐と若狭を治める大名というだけではない。
織田家の重鎮であり、その影響力は計り知れないのだ。
「まあ、そういうわけじゃ。悪いが、今は儂だけが寧々と会う気にはなれん」
そう言って、秀吉は最後の握り飯も飲み干した。
「……そうですか。ならば、一つだけ。伝言がございます」
「何じゃ?」
「秀俊様を、是非助けて欲しい、と」
「……秀俊か」
秀吉の表情がかすかに変わる。
寧々の甥である、羽柴秀俊は現在は安土城にいた。
織田家の人質としてである。
これは、秀吉に限った話ではなく織田家の有力大名は皆、安土城と大坂城に忠誠の証として親族を差し出していた。
織田家を裏切る気など、秀吉にはなかった為、これまで不安に思った事はなかったのだ。
が、今安土城は安土方によって占拠されている。
秀俊が無事に安土城を脱したという情報もない。他の人質達もだ。
となれば、当然。
「今は安土方に捕まっておるだろうな」
「はい」
長政も、秀吉と意見が一致した。
「心配で夜も眠れないとも言っておりました」
「ならば寧々に伝えておけ。心配はいらんと」
秀吉はそう言うと、小姓に布団をしくように指示を出した。
「安土方の連中は、人質を殺しやせん。そんな事をすれば、無駄に我らの怒りを買うだけだと分かっておるだろうしのう」
ふふ、と秀吉は笑った。
「そうだとよいのですが……」
「心配するな。寧々とはすぐに会える。安土方を壊滅させ、上様の仇を取ってからの祝の席でな。その時は無論、秀俊も一緒じゃ」
ところで、と秀吉は話柄を転じた。
「何でしょうか?」
「毛利家や宇喜多にも頼んでおったが、例の手筈は整っておるか?」
「例の? ああ、兵の増員の件ですな」
長政は頷いた。
秀吉は、この大返しをする前に一策を練り上げていた。
それは、兵力不足を補う為の兵の緊急動員である。
毛利・宇喜多・羽柴の中国筋の大名の領国に存在する、百姓達を兵として動員しようと考えていたのだ。
戦国時代、武士と農民の戦闘能力に大した差はない。
この時代の農民は、図太いし強い。
一方的に、武士に虐げられる被害者というわけではなかった。
戦が終われば、死体の鎧や刀を奪い取り、生活の糧としていたし、落ち武者狩りととして名のある武士を農民が討ち取るような事態も決して珍しくはなかった。
果ては、戦場に弁当を片手に見物に行くようなものすらいたのだ。
だが、数年ほど前から柴田勝家の領国で刀狩が実施された。
一揆の危険のある、百姓達から戦闘能力を奪おうという策である。
信忠の直轄や、秀吉の領国でもそれを実施。
また、領地の治安が安定してくると、百姓達も戦闘に参加する必要がなくなってくる。
戦闘経験が激減すれば、自然と戦闘力も落ちる。
結果として、この時点で百姓の戦闘力は十数年前と比べるとかなり落ちていた。
が、それでも戦の経験のある者も少なからずいたし、決して侮れるものではなかったのである。
「総勢は2万ほどになるかと。今、姫路城にいる1万と合わせれば3万ほど。大坂城に籠っている1万の軍勢と合わせれば、十分安土方と戦えるかと」
「よし、上出来じゃ」
秀吉は上機嫌で微笑む。
だが、長政の顔には不安の色が見えた。
「どうかしたのか?」
「しかし、兵が集まっても肝心の将が、あ、いえ。何でもありません」
長政は言葉を濁したが、何を言いたいのかは分かった。
戦闘能力はそれなりにあるとはいえ、それでも百姓は百姓。
問題は、彼らを士気する指揮官だった。
今現在、秀吉が引き連れている将で有能といえるのは黒田孝高、福島正則、仙石秀久らぐらいだ。
大半は、名護屋城と朝鮮半島の地にいる。
大坂城にも、有力な将はほとんど残っていない。
今いる面子で、果たして大坂城を守り切れるのか、と強い不安がるのだろう。
「何、そんな顔をするな」
そんな長政の不安を見透かしたように、秀吉は言った。
「儂は必ず勝つ。これまで、不利な戦いなど何度でもあった。しかし、その度に儂らは勝利してきたであろうが」
違うか、と秀吉は言うと床に敷かれた布団に、秀吉はごろりと横たわった。




