58話 秀吉反転
――織田信忠は、朝鮮の使節に対し、「日本国主」を詐称するなど朝廷に対する不義の男である。
――また、キリシタンを不当に取り締まり、弾圧する所業は許しがたい。
――三男である、信孝様に対しての冷たい仕打ちは道義に反する。
――故に、挙兵するに至った。これは、決して私欲の為ではなく信忠という不義の男と戦う為のやむをえぬ仕儀である。
――また、信忠の子である秀信や同腹の弟である信雄も同罪である。
――故に、信忠に誅を下し、正当な後継者として織田信孝様が織田家の家督を継ぐ。信孝様が家督を継いだあかつきには、朝廷との関係を修復し、キリシタンの保護も固く約束する。
――全国の大名は、信孝様に味方するべし。敵対するものは、信忠の与党と見出し、容赦なく罰する。
簡潔にまとめれば――実際には、己の正当性を訴える内容が長々と書かれていたが――上記七行となる檄文が、全国に発せられた。
それを受け、反応は衝撃を受けた者、予め遠回しに知らされていた為に驚かなかった者、知らされてはいなかったが何となく予見していた為に驚かなかった者の三種類に分けられた。
「偉い事になったのう……」
梅北討伐に向かう途中で、事態の深刻さを悟った秀吉はその途上で緊急軍議を開く事にした。
場所は、筑後と肥後の近くにある寺である。
そこで、秀吉は暗鬱な表情を浮かべていた。
織田信孝決起。
織田信忠沈没。
名護屋城占拠。
この衝撃的な報告を秀吉は受け取っていた。
梅北討伐どころではなくなり、名護屋城を奪還すべく秀次の軍勢と合流したものの、まるで妙案が浮かばないのだ。
さらなる悲報が飛び込んでくる。
――織田信孝、安土城を占拠。
――柴田勝家、佐久間盛政らこれに呼応。
――関東の地で、北条氏直、北条再興軍を名乗って挙兵。
――織田信孝、柴田勝家ら、京の都目指して進軍を開始。
相次ぐ、報告に秀吉らの顔が曇る。
しかも、織田信忠を襲った長宗我部家も信孝側と見なければならない。以前から、動向の怪しかった島津歳久や梅北国兼、それに柴田勝家と親しい佐々成政らも信孝に組していると見るべきだろう。
「我らはどうするべきなのだ――」
誰かが、嘆くように言った。
その者を、秀吉は睨みつけ、
「何を言う。戦うほかない。信孝様、いや信孝の軍勢とだ」
強く力の籠った口調で信孝を呼び捨てた。
もはや、織田信孝は信長の三男でも信忠の弟でもない。
秀吉にとって、倒すべく賊軍の首魁に過ぎない。
それは無論、彼に組する柴田勝家や佐久間盛政らも同様である。
「しかし、殿。信孝らは10万を超える軍勢を動員しております。我らの軍勢だけでは相当に厳しい戦いになるのではないかと……」
「確かに、我らの軍勢は5万ほど。全軍で戻ったとしても相当に厳しい戦いになるであろうな」
黒田孝高、仙石秀久らの意見である。
それに、秀吉は「確かに」と頷いてから、
「全てが、信孝に組したわけではない。大坂に残った織田秀信様を中心とする織田家に忠誠を誓う者も多くおるはずだ。彼らを味方につける」
そして、と秀吉は続ける。
「味方はまだおるではないか」
「朝鮮の地にいる遠征軍の事ですな」
石田三成が答えた。
「その通りだ」
秀吉は頷く。
「現時点で朝鮮にいる遠征軍は、5万を超える。彼らが戻れば、十分に信孝らに対抗できる。それに、毛利もまだ余力を残しておる」
「毛利輝元殿ですか……。しかし、我らに組しますかな」
田中吉政が懸念を口にした。
「組するよう、安国寺殿を通じて働きかける」
安国寺恵瓊は、かつて秀吉を高く買う毛利家の怪僧だ。
15年ほど前、まだ毛利と織田との抗争すら始まっていなかった時期。中央の情勢を探りにきた恵瓊は、「信長の天下は数年で潰える。代わって天下を治めるのは秀吉である」とまで称していた。
本能寺の際、毛利家の幹部に秀吉の追跡を制止し、奇跡とも言われた中国大返しに大きく貢献した人物なのである。
「その件でしたら……」
孝高が口を挟んだ。
「既に、安国寺殿から某のところに毛利は大坂の秀信様に味方するといった旨の書状が届けられております」
孝高が、一通の書状を秀吉に差し出した。
「これは……」
秀吉は書状を見る。
確かに、輝元の花押が押された書状だ。
内容は、大坂の秀信に組する事を決めた故、すぐにでも援軍を送るといった内容の書状だった。
おお、と諸将の間から歓声があがる。
「さすがは孝高。仕事が早いの」
秀吉が口元に笑みを浮かべた。
「おそれいります」
そう言って孝高は一礼した。
以後、大坂城の織田秀信を盟主とする羽柴秀吉や徳川家康らの陣営を大坂方、安土城を占拠した織田信孝や柴田勝家らの陣営は安土方と称されることになる。
「だが」
と秀吉は言う。
「まずは、名護屋城の奪還だ。名護屋城を奪還せんことには、朝鮮におる秀長達とも連携ができん」
謀反を起こした安土方の軍勢と戦うには、未だ朝鮮の地に残っている羽柴秀長ら遠征軍の力は必須なのだ。
「となると朝鮮の征伐は――」
「中止せざるをえまい」
秀吉は顔に渋面を浮かべる。
「名護屋城を奪われ、織田が分裂した今となっては遠征軍の維持すら難しい。補給すらままならん」
「そうですな」
孝高も納得したのか、簡単に頷いた。
そして、「ところで」と続ける。
「我らが名護屋城を攻撃している間に、毛利殿には大坂の救援に向かっていただいてはいかがですか?」
孝高が提案する。
「それは考えた。しかしのう……」
秀吉は言葉を濁す。
……なぜだ、儂はなぜ毛利殿に大坂の救援に向かってほしくないのだ。
何ともいえない疑問が急速に秀吉の脳裏で膨れ上がる。
……大坂城が助かるのであれば、毛利殿でもよいではないか。なのに、なぜなんだ。
……儂は、自分で大坂城の救援に行きたがっておるのか。
自然と、そんな考えが頭に浮かび始める。
「確かに、殿が大坂城の救援に行った方が今後の為にはよいでしょうな」
「――っ!」
心を見透かされたかのような孝高の発言に、一瞬秀吉の目が大きく見開かれる。
「ど、どういう意味じゃ」
自分の言葉がわずかながら震えているのを秀吉は感じ取っていた。
「いえ、大した意味は。ただ、信孝討滅後の事を某は考えていたまででござるよ」
「何……?」
信孝討滅後。
秀吉は、これまで考えていなかった事――否、考えようとして否定してきた事を指摘され、思わず言葉が詰まる。
「……」
すぐに、言葉が出てこない。
だが、そんな状態でも秀吉の脳裏は高速で回転し続ける。
もし、織田信孝を討った後の織田家。
はたして、どうなるのか?
そもそも、織田の天下とは、公儀とは何だ。
日の本を治める大義は何なのだ。
信忠は、官位や官職を否定してきた。
朝廷も無視してきた。
では、織田の天下が続く事に一体何の意味がある。
信秀、信長、信忠と織田家には英傑が続いてきた。
だが、秀信はどうだ。
……話にならん。
未だ幼年ながら、愚昧と評判が悪い。
あれでは将来が思いやられるともっぱらの評判だ。
……あのような御仁が成人したとして、はたして主君と仰いでいいものかどうか。
安土方の盟主である信孝は除外するとしても、叔父の織田信雄はどうだ。
……残念ながら、天下人としては。
好人物として知られる男だが、天下を治めるには器量不足。
武人としての器量にも疑問符がつく人物だ。
四男の秀勝は、秀吉の養子だった男だがだいぶ前に亡くなっている。
そもそも、四男以下の人材など論外もいいところだ。序列をまげてまで、後継者に押す意味がない。
……では、織田が天下を治める必要などどこにもないのではないか。
ごくり、と無意識のうちに秀吉は生唾を飲み込む。
……今の織田家で、最も天下を継ぐに足る器量を持つ男は誰だ。
それは。
それは。
それは。
……この儂、ではないのか?
「殿、大丈夫ですか?」
長らく沈黙していた為、不安に思ったのであろう。
秀久が心配そうに声をかけてきた。
「い、いや。何でもない」
秀吉は慌てて誤魔化す。
この場にいるのは、子飼が大半とはいえ今考えた事を口に出すのは危険すぎる。
「それよりも孝高」
「はい」
「確かに、信孝討滅後の事を考える必要はある。だが、それは信孝討滅にある程度の目途がついてからじゃ。先走り過ぎてはいかんの」
「そうですな。少しばかり勇み足でしたな。申し訳ありませぬ」
孝高は、そう言って詫びた。
……。
……よもや、この男は儂の本心が分かって言っているのでは。
そんな懸念が秀吉に浮かぶ。
「殿」
そんな時に、三成が唐突に口を開いた。
「やはり、殿だけでも大坂城に戻られては如何です?」
「何?」
秀吉の視線が、今度は三成の方を向く。
「お主も孝高と同意見なのか、三成」
「はい。大坂城は、秀信公がおられます。そして、大坂城は織田の本拠です。大坂城が陥落し、秀信公が討たれれば我らは完全に負けとなります」
「……そうなるな」
「そうなってしまえば、我らは大義を失いただの賊軍となってしまう恐れがありますし、信孝達もそうなるように働きかけるでしょう」
「そうかもしれませんな」
三成と、親しい間柄の吉政が三成の意見に付け足す。
「大坂城が落ちてしまえば、日和見な態度を見せている大名もいっせいに信孝に組するでしょう。そうなってからでは手遅れです。それを防ぐ為にも」
「儂だけ大坂にか……」
秀吉の声には、迷いの色がある。
「殿、機を逃しては取り返しのつかない事になります」
三成からは、強い視線が注がれている。
「名護屋城の奪還は我らだけでもやりますゆえ、どうかご決断を」
「……」
思考時間は、さして長くなかった。
……信孝の討滅後、儂は、儂は……。
……それを果たす為には、大坂城の救援という大役を他の者に渡すわけにはいかん。
……であれば、答えは出ておるか。
「分かった、儂は大坂に戻る」
即決即断を心情とする秀吉だ。
こうなれば、決断は早い。
「そして、毛利殿には佐々成政や島津歳久の軍勢の抑えに向かってもらう」
佐々成政らの安土方として挙兵した軍勢は、今のところ大坂方の領国へは侵攻していない。
だが、それも時間の問題だろうと思われており、彼らへの抑えも必要だった。
「そして黒田孝高、福島正則、仙石秀久。儂と共に大坂に向かうぞ」
「分かりました」
「はっ」
「承知致しました」
黒田孝高、福島正則、仙石秀久が頷く。
「儂が連れて行く軍勢は、1万ほどじゃ」
「1万、ですか。いささか少ないのでは?」
三成の言葉に秀吉は首を横に振る。
「姫路城にいる、長政にも兵を出させる。まだ、5000ほどの余裕があったはずじゃ」
姫路には、留守居として浅野長政が入っていたのだ。
「それ以外にも、兵力に関しては一工夫するよう、姫路城にいる増田長盛に伝令を送る」
「一工夫とは?」
三成が口を挟んだ。
「それはお主の気にする事ではない」
「……これは失礼を」
「そして、阿波の正勝にも使いを送る」
「蜂須賀殿にですか?」
秀久が疑問符を浮かべた。
蜂須賀正勝は、秀吉栄達の一番の功労者といってもいい家臣だ。
が、今は家督を子の家政に譲り自身は領国の阿波にいた。
その家政は現在、朝鮮の地で戦っている。
「正勝には、丹羽殿のところに向かってもらう」
丹羽長秀は、讃岐と若狭を所領としている。
その長秀は、この時点で領国の讃岐に引き籠っていた。
息子の長重も若狭に籠ったままだ。
どちらも、旗幟を鮮明にしていない。
「蜂須賀殿に、丹羽殿を説得させると……」
「正勝ならば、可能じゃ」
秀吉の言葉は、信頼に満ちていた。
秀吉の、正勝に対する信頼は別格だった。
正勝は古参中の古参であり、その信頼は中国遠征時代から家臣になった孝高や、長浜時代から家臣になった三成、美濃攻略時代に家臣になった秀久をも上回り、その能力も高く信頼していた。
「丹羽殿には、合力するのであれば勝家の越前と、元親の土佐をやると伝えれば、成功の確率も上がろう」
「越前と土佐ですか……」
領国の配分は、秀吉の分限ではない。
だが、秀吉は無意識のうちにそれを口にしていたし、秀吉の家臣団もそれを指摘する事はなかった。
「秀次っ!」
「は、はい!!」
これまで黙り込んでいた秀次が悲鳴にも近い声をあげた。
名護屋城の失陥という大きな失態をしているだけに、秀次の顔色は良くなかった。
「お主には、名護屋城の奪還をしてもらう」
「しょ、承知しました……」
「石田三成、田中吉政、大谷吉継、山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、一柳直末らをつける」
「ははっ」
名前を呼ばれた諸将たちも一礼した。
名護屋城の失陥劇に関わっている者も多く、彼らも恥を雪ぐ為に必死である。
「奴らは、名護屋城を奪った逆賊共じゃ。容赦せずに殲滅せい」
「はいっ」
「承知しました!」
「必ずや、ご期待に!」
武将達の声が重なる。
「では、儂は大坂に向かう。急いで準備いたせ」
やがて、秀吉や、彼に同行する事が決まった武将達が慌ただしく準備を始める。
急いでいても、迅速な行動を常とする羽柴軍団だけのことはあり、この日のうちに作業の大半を終え、名護屋城を経った。
幸い、肥前・筑前・豊前は大坂方で占められている。
長門以東も、大坂方の毛利領だ。
秀吉の居城である、姫路城までは安全圏といえるのだ。
無論、だからといって遅延は許されない。
大急ぎで、秀吉は軍勢を返す。
それは、まさに中国大返しの再現といえた。
……そうじゃ。もし、信忠様が妙覚寺で亡くなっておれば儂はあの時に決意していたかもしれん。
……織田信孝を倒し、天下が再度平定された暁には。
秀吉の目があがる。
日輪の如き、太陽が目に入る。
……新たな天下人になるのは、この日輪の子・羽柴秀吉じゃっ!
今はまだ、心の中でしか叫べない台詞を強く心の中で叫んだ。
というわけで、今回の話から第三部の開始となります。
ここで、ちょっとした補足というか余談になりますが、史実では秀吉から偏諱を受けた秀康や秀忠といった人物達がいますが、今作では秀吉に徳川家は臣従しているわけではない為、不自然な事になります。ですが、オリジナルの名前で登場したところで無駄に分かりにくくなるだけだと考え史実通りの名前を使う事にしました。
それでは、今後も応援していただければ幸いです。




