57話 巨星沈没3
「ええいっ。何をしておるかっ」
苛立った様子で、立派な甲冑をつけた男が織田信忠の前に現れた。
「わ、若殿。ここは若殿が赴く必要など……」
それを家臣らしき男が、必死に止めている。
「ほう、逆臣共が現れたか」
「黙れっ」
信忠の言葉を怒鳴りつけるように遮ったのは、長宗我部の次期当主候補の筆頭――長宗我部信親である。
彼を止めようとしているのは、信親家臣の吉良親実だ。
「騙し討ちとは、随分と長宗我部の戦も汚くなったものよのう」
「黙れっ。これも駆け引きのうちぞっ」
ギロリ、と鬼気迫る様子で信親は信忠を睨む。
「朝廷を蔑ろにし、日本国主を自称する不義の男が! わし自らが、成敗してやるっ」
「ほう、面白いの。予が罵倒を受けたのなど、随分と久しい気がするわ。何しろ予は、『日本国主』ゆえのう」
ふん、と信忠は挑発するように失笑する。
「お前らは手を出すなっ。この男はわし自らが討つ」
片手で親実らを下げると、信親は前に出る。
「ふん、蝙蝠風情が予を討つというのか」
「黙れっ。蝙蝠であっても、この蝙蝠は天下人を食い殺す蝙蝠だ」
「ほざきおるわ」
信忠は、刀の切っ先を信親に向ける。
「覚悟っ」
ガキィンッ! と信忠の刀と信親の刀がぶつかる。
何度か、二人の刀が交差しあう。
「……っ!」
が、勝負はいとも容易くついた。
この船の戦いで、多くの血を吸い、切れ味も落ちていた信忠の刀は、信親の刀と交わった瞬間に遂に折れてしまったのである。
「ぬっ……」
だが、慌てる事なく次の行動に移ろうとした信忠の胸に何かに熱い感触がした。
「な……に……」
す、と視線をずらす。
信忠の胸からは、赤いものが浮かんでいた。
それがぽたり、と床に零れる。
「親実っ! 何故、余計な事をした!」
信親の驚いた顔と、後ろから槍を突き刺している雑兵を見て信忠は全てを悟った。
……そうか。予は討たれたのか。
不意打ちで討たれたという、怒りはない。
雑兵風情に討たれたという、悔しさもない。
ただ、これが自分の結末か、という傍観の心だけが信忠にはあった。
「こんな事をせずとも、わしは信忠を討ち取れていたのだぞっ」
「申し訳ありません。ですが、万一の事を考えて」
信親と、親実主従の声が聞こえる。
この二人のやり取りを見る限り、どうやら親実の独断のようだった。
……まあ、どちらでもよいか。
「お叱りの言葉は後ほど。今は信忠を」
「ぬぅ……」
不服そうに、信親が唸っている。
……ふん、とどめなどなくとも予は死ぬわ。
内心でそう苦笑する。
どうやら、心臓の近くに当たっているらしい。
多分、これは助からないだろう。
そもそも、こんな思考が未だにできている事すら信じられない。
そんな事を信忠は思っていた。
意識が、遠くなる。
走馬灯のように、これまでの人生が回想される。
信忠が生まれてからの人生は、まさに織田の繁栄物語といえた。
父・信長が桶狭間で今川義元を討ち、美濃を攻略し、一躍大大名の仲間入りを果たした。
上洛を果たし、天下人に名乗りをあげ、浅井家、朝倉家、武田家を滅ぼし着実に版図を拡大させた。
そして、あの本能寺の変だ。
あの戦いで、信忠は奇跡的に生き延び、織田家は九死に一生を得た。
……あのまま予が死んでおれば、どのような未来になっていだろうか。
……信孝や、信雄で果たして織田家がまとまっていたかどうか。
……となると、秀吉や勝家辺りがよからぬ野心を見せたかもしれんな。
……徳川も、後継者に器量がないと判断すれば我らを見限ったかもしれん。
……そうすれば、今頃は天下の中心から織田の名が消えていたかもしれんな。
まあ、そんな事はしょせんはもしもの事。
もしも、の世界など考えても意味はない。
ただ、確かなのはこの場にいる織田信忠にとっての正史は、父の跡を継ぎ、織田家を繁栄させ、大陸の大地にまでその版図を拡大させた。
だが、その志半ばでその夢も破れ、死ぬ。
それが、今この場にいる織田信忠の生涯だった。
他の世界の人生なんて考えたところで――。
「是非もなし、か」
そう呟くと同時に信忠の意識は失われた。
「是非もなし、か」
信親の、目の前にいる信忠が呟く。
その瞳には、怒りはない。悲しみもない。
ただ、この結末を受け入れようとする静かな様子だった。
がくり、と膝が床につく。
そして、力なく頭が床に落ちた。
それは、まるで土下座でもしているかのような無様な体勢に見える。
だが、信親は油断のないまま信忠の遺体へと近づいて行く。まだ万が一の事があってはならないのだ。
この状態になっても、なおも信忠を守ろうと信忠の護衛が群がってくる。
だが、彼らは長宗我部の兵達によってあっさりと討ち取られた。
……まあ、死んだ振りをしているという可能性もあるしな。
相手は天下の織田信忠。
信親の心には、慢心も驕りもないまま、目の前の男の死を確認する為に足を進める。
「織田信忠を討ち取ったぞっ」
歓喜したのは、信親ではなく周りの兵達である。
既に、天下でも掴んだかのような騒ぎぶりである。
信親は、ゆっくりと信忠の遺体に近づいていく。
慎重に屈んだまま信忠の身体を触る。
そして、間違いなく彼が死んだ事を確認する。
「――織田信忠、討ち取ったり」
そして、刀を信忠の首元に持っていき、それを振り上げ――振り下ろした。
目の前が赤に染まり、信忠の首は胴体から離れた。
「やった、やったぞおっ!」
「うおおおおぉぉっっ!!」
「織田信忠を討ったあぁっ!」
長宗我部の兵が、歓喜の声をあげる。
「やりましたなっ、若殿っ」
喜んだ様子で近づいてきたのは、親実である。
「……うむ」
信親は、頷いた。
ここで、ようやく天下の織田信忠を討ち取ったという実感がわいてきたらしい。
その爽快感の前には、親実の独断専行などどうでもよくなってきた。
「わしは、やったのか……」
「はい。まぎれもなく、若殿の勝利ですっ」
「そうか。土佐にいる父上も喜んでくれるであろうか」
「それはもちろんっ」
親実は笑みを浮かべて頷いている。
「しかし、本当に忙しくなるのはこれからだぞ」
「はい」
「まずは、父上の軍勢がまずは蜂須賀正勝や福島正則の領国に攻め込み、佐々成政殿や島津歳久殿の軍勢が北上し、名護屋城にいる明智殿を支援する」
うむうむ、と前々からの計画を復唱するように言う。
「畿内でも、信孝殿や柴田殿が挙兵し、京の都を占拠。この時に我らは官軍になる手はずになっておったな」
「はい。ここで、信忠を討ったとあれば、朝廷は喜んで我らに錦の御旗を賜ることでしょう」
「うむ」
「関東でも、信孝様が援助していた北条氏直殿を筆頭とした北条再興軍が挙兵する用意は整っておりますゆえ、徳川も関東から動く事ができませんしな」
「そうよのう」
信親も上機嫌で答える。
「最後は、大坂城を信孝様や柴田殿が落として信忠の子である秀信の首を取る。そうすれば、後は残党共を一つ一つ潰していけばいい」
「その通りですな」
「ま、その前にまずは名護屋城に凱旋するとしよう。信忠が討たれた事を知れば、名護屋城を包囲しているであろう、連中も仰天するぞ」
そう言って信親はははは、と笑った。
親実もつられて笑う。
「……それにしても、何か匂わぬか?」
「はて? そういえば何か……」
と親実が鼻を抑えた時、
「た、大変ですっ」
「ど、どこからか出火しているようで……ふ、船が燃えています」
「な、何ぃっ!?」
長宗我部主従の顔が驚きに染まる。
どういう事だ、と問いただすよりも先に船を包む炎が目に入った。
「な、何故……」
信親は唖然とした様子でそれを眺める。
火を放った犯人は、信忠の護衛である弥助だった。
信忠から、万が一自分が討たれた場合は船に火を放って敵もろとも心中するように密に指示を出していたのだ。
長宗我部の兵に討たれたように見えた弥助だが、辛うじて致命傷は免れていた。
だが、信忠と信親の戦いに兵達は集中しており、既に死んだ者と認識されていた弥助になどは皆、目もくれていなかったのだ。
いったん、身を隠した弥助だが、信忠の死を確認すると、最期の命令を実行。
幸い、当時の船合戦の基本として敵船に火を放つ為の火矢や炮烙玉といった道具は多く揃っていた。
船全体が燃え上がったのを確認してから、彼は信忠の後を追うように逝った。
が、そういった事情を信親達は知らない。
「す、すぐにでも脱出を……」
親実が言うが、この船からの脱出は既に手遅れである事を悟っていた。
……くそっ。何て事じゃ。
それでも、何とか進もうにも周りは、火、火、火。
見事なまでに燃えていた。
逃げ場は、もはやない。
信親は動揺を抑える事もできず、つい信忠の方を向く。
……おのれ、最後の最後に余計な事を。
忌々しげに睨む。
罵倒の言葉でもぶつけたいところだが、あいにく彼はそれが既に聞けない黄泉路に旅だってしまった。
それは、先ほど確認済みである。
しかも、首は胴体を離れているのだ。
だが、にも関わらず信忠の口元が動いたような気がした。
それは、死を間近にしての信親の幻覚、そして幻聴だったのかもしれない。
あるいは、信忠が本当に奇跡か何かで一瞬だけ蘇っていたのか。
いずれにせよ、信親の耳には信忠の声が聞こえた。
「予と――天下の織田信忠と心中できるのじゃ。幸運に思えい」
次の瞬間、信親の視界は紅蓮の炎によって塞がれる事になった。
父・織田信長の遺志を継ぎ、天下一統を成し遂げ、大陸にまでその権威を拡大させた織田信忠。
天下の英傑の死である。
そして、彼を討った長宗我部信親もまた、この世を去った。
だが、それでも世界を動いていく。
織田信忠と、長宗我部信親という登場人物が退場した状態でも、世界は動くのだ。
信忠亡き後のこの国は、新たな英傑達によって時代が進もうとしていたのである。




