56話 巨星沈没2
「敵は長宗我部水軍だっ! ただちに戦闘態勢に入れっ」
織田信忠直属の水軍の将兵達が慌ただしく、動き回る。
そんな中、信忠はこの艦隊の母艦ともいえる永楽丸で仁王立ちしたままじっとその様子を眺めていた。
釜山海戦で、朝鮮水軍を叩きのめして以降、釜山から対馬や名護屋への制海権は事実上、織田軍のものになっていた。
その為、信忠を護衛する船の数は決して多くはなかったのである。
だが、水軍といってもその大半は輸送船であり戦闘能力を有していない場合が多い。しかし、今回の目的は織田信忠の護衛のみであり大半は武装していた。だが、それは敵も同様だった。
今回の長宗我部水軍の目的は、天下人・織田信忠をこの対馬海峡に沈める事の一点にしぼられており、完全な武装船ばかりで構成されていた。
長宗我部水軍に備え付けられた、大砲が放たれる。
当時、水軍同士の戦いで大砲を用いられるのはかなり珍しかった。
しかし、朝鮮水軍対策の為、信忠直属の水軍のみならず、水軍を持つ多くの大名の船に大砲を備え付けるように指示を出していた。
長宗我部も例外ではない。
それが、今は朝鮮水軍ではなく信忠の直属軍に向けられていた。
ドオォォン、と大きな音が近くで響いた。
「……むぅ」
永楽丸の近くに、敵の大砲が被弾したらしい。
信忠が小さく呻いた。
「上様……」
利治が、不安げに信忠の方を見る。
美濃出身の彼からすれば、海戦に関しては詳しくはない。
だが、周りの険しい表情から決して楽な状況でない事は分かる。
「案ずるな。大砲など滅多にあたらん」
「……」
信忠の言う事は嘘ではない。
この時代の大砲の命中率は極めて低い。
単に大砲の性能だけでなく放ち手の技量も未熟な者が多かったのだ。
だが、それでも利治は不安そうな様子だった。
運悪く、その命中率の低い砲撃によって織田水軍側の船が沈んでいくのが見える。永楽丸から決して遠くない距離での事だった。
沈む船から、必至で逃れようとする兵士や水夫の姿も見える。
だが、どの船も彼らを収容する余裕などない。
目の前の敵との戦闘に必死だった。
……逃れるべきか。
信忠の脳裏に、戦線離脱、という選択肢が浮かぶ。
このまま戦って勝ち目がないのならば逃げるべきだ。
戦線離脱は恥ではない。
故・織田信長だって、朝倉攻めに失敗した金ヶ崎の退き口に代表されるような撤退戦で屈辱的な思いをしながらも戦線離脱をした事が多くある。
だが、それでも生き延びさえすればいずれ恥を雪ぐ機会は訪れる。
信忠も、信長が本能寺で襲われた際、妙覚寺から命がけの脱出を行っている。
そして、見事な逆襲撃で光秀の謀反を鎮めている。
……やむをえんか。
信忠の心が決まったその時。
「は、背後の船が攻撃をしかけてきましたっ」
慌てた様子で、信忠の家臣が報告に駆け込んできた。
「何じゃとっ!?」
近くにいた利治の顔が、驚きに染まる。
信忠の眉もぴくりと動く。
「背後に敵が現れたというのか?」
「い、いえ。違います。ど、どうも背後の船が、か、返り忠を――」
「何と……」
信忠の口元がかすかに歪む。
そして、それは勘違いではなかった。
つい先ほどまで、信忠の船を護衛していた背後の船から大砲が信忠と信忠を護衛する船に向けて放たれていた。
一発、二発ならともかく数発となると誤射などという事はあるまい。
「予の船を護衛しておる連中の中にも裏切り者が混ざっておったとは……」
信忠が、ちっ、と小さく舌打ちをする。
「利治」
「は、はいっ」
「予は諦めんぞ」
信忠の瞳に、絶望はない。
まだ諦めない強い意思の力が宿っていた。
「永楽丸を前に出せいっ」
「う、上様っ?」
「逃れる事が出来ぬというのであれば、強行突破しかあるまい」
「上様……」
「弥助、お前も良いな」
と護衛の弥助を呼び寄せた。
「ハイ、上様ノゴ命令トアレバ」
「うむ。ところで……」
と信忠は弥助に小さく耳打ちする。
その間に、利治も覚悟を決めたらしい。
「某も、最期まで上様に付き添いますぞっ」
その言葉に、信忠も満足げに頷いた。
「うむ」
さらに戦闘は続く。
だが、背後から寝返った織田水軍による攻撃。
それに、前の長宗我部水軍の攻撃。
挟み撃ちにされ、徐々に味方は数を減らしていった。
残った船も、無傷ではない。
この永楽丸を動かす、水夫達の多くはこの時点で既に射殺されている。
もはや、船を動かす事すら難しい。
が、信忠はまだ諦めない。
「船をもっと前に出せいっ」
信忠が怒鳴った。
「し、しかしこのままでは敵の船に……」
利治を、信忠は叱咤する。
「分かっておるわっ」
「ど、どうなさるおつもりで……」
「前の船を乗っ取る。それ以外にこの窮地を脱する手段はない」
鬼気迫る表情を信忠は見せた。
「何と……」
利治の顔が驚きに染まった。
「よいかっ、これは命令じゃ。生き残りたくば、予の命に従えっ」
信忠の命を受け、残った水夫達は必至に永楽丸を動かす。
敵船との距離が縮まる。
縮まる。
縮まる。
敵も、こちらの狙いに気がついたのか。
それとも、単にこちらの船が近づいたからなのか。
大砲がぶっ放される。
永楽丸の矢倉が吹き飛ぶ。
しかし、永楽丸は止まらない。
そして、その時がついに来た。
――永楽丸と敵船が激突した。
「ゆくぞっ」
「はっ」
利治や、弥助。
それ以外にも、わずかに残った十数人の信忠の護衛達が敵船へと飛び込んでいく。彼らはまだ、諦めていない。
「ゆくぞっ」
信忠は叫んだ。
乗り込んだ船にいた敵勢は、最初は困惑したが、次に歓喜した。
天下の織田信忠の首が向こうから舞い込んできたのだ。
もし、ここで討ち取る事ができれば手柄は望みのままなのである。
わあっ、と蜜に群がる蟻のように兵が集中する。
「下郎がっ!」
信忠が、懐から抜き取った刀で敵を切りつける。
この距離では、槍よりも刀の方が強いのだ。
「ぎええっ」
切り付けられた相手は、悲鳴をあげてのた打ち回った。
その兵を、一瞬だけ見て、
「雑魚の首を取る必要はないっ。ただ、この船の大将を探せっ」
信忠の指示を受け、護衛達を続く。
長宗我部の兵が、それを取り囲む。
「蝙蝠がっ。蝙蝠は所詮は蝙蝠よ。本物の鳥には勝てんわっ」
信忠の護衛が、襲いかかる敵勢を切り捨てる。
首は取らずに、ただ邪魔者をはねのけた。
長宗我部の兵の一人が、鉄砲を構えた。
信忠の方に、銃身が向けられる。
「上様ッ」
それに気づいた弥助が、信忠を庇うように前に立つ。
ズダアァン! と乾いた発射音が響く。
「弥助っ」
だが、それは信忠を貫かなかった。
身を挺して庇った弥助を討ちぬく。
どさり、とこの国ではありえない黒い肌をした巨体が崩れ落ちる。
信忠は一瞬だけ、弥助に視線を向けるがすぐに次の敵との戦闘に戻る。
長宗我部の兵も、倒れた敵になどもはや目もくれない。信忠との戦闘に集中する。
鉄砲を放った兵が、次の弾を込めようとするよりも先に、利治によって斬り捨てられた。
だが、その利治も背後から長宗我部の兵に斬り付けられた。
「う……え……さ、ま……」
その言葉だけを言い残し、どさりと利治も倒れる。
「利治……」
長年付き添った側近の死だ。
信忠は、わずかに憐憫の色を見せるがそれも長くない。
すぐに、次の敵との戦闘に移る。
戦闘が続くと、徐々に味方の数は減っていた。
だが、敵の数も減っていく。
既に、信忠は満身創痍だった。
信忠の護衛達も同様だ。
……予はまだ死なん。
だが、強い決意の色は、いまだ信忠の瞳から消えていなかった。




