55話 巨星沈没1
名護屋城占拠。
その報告は、この時点の織田信忠は受け取っていなかった。
何せ、彼は今海の上にいたのだから。
明との和議に目途が立った信忠は釜山の城を経ち、名護屋城へと戻る途中だった。
その海上の事である。
「上様っ!」
見張りをしていた兵士から、その上役に。
さらにその上にといった具合で、報告がされる。
「何? この先に船が?」
報告を受け取った信忠が、外の光景を見つめる。
数でいえば、信忠の母艦とそれを護衛する船の数よりも多い。
朝鮮の船でもないようだ。
制海権は完全にこちらが握っているのだ。
そうなれば、必然的に味方という事になる。
だが、信忠は胸中に芽生えた不安の種を消し去る事ができずにいた。
視力のいい水夫が、朧に見える船団の旗印を確認する。
その結果が、やがて信忠の元へと報告された。
「上様っ! どうやら長宗我部の水軍のようです」
「……」
その報告を受け取った、信忠の目が険しくなる。
……長宗我部、だと。
「出迎えのつもりですかな?」
傍らに控える、斎藤利治がそんなのんきな事を言う。
その利治を無視し、信忠は思考を進める。
「……」
……何のつもりだ、長宗我部。
自分は、出迎えなど頼んでいない。
今の時点で長宗我部水軍は、対馬海峡に来る予定などない。
名護屋城で留まっているはずだ。
もし、勝手にそんな行動を取るとしたら立派な軍紀違反。
あるいは。
「? どうかなさいましたか?」
心配そうに利治が訊ねた。
「……」
問題はない、と言わんばかりに利治を手で制して思考をさらに先に進める。
……いや。
ある予感が信忠の脳裏を過る。
……。
思考がさらに進み、信忠の顔に焦慮の色が浮かぶ。
「長宗我部め、よもやっ!」
ここで、信忠の頭にある二文字が浮かんだ。
「う、上様?」
「利治、ただちに全ての船に臨戦態勢を取るように通達せいっ」
「い、一体どうされたのですか?」
急に、大声を出してうろたえる主・信忠が即座に理解できずに利治は驚く。
「長宗我部は、よもや謀反を起こす気なのやもしれん」
「謀反ですと!?」
利治は驚く。
「そうだ。何のつもりかは知らんが、こんなところで予を出迎えるなどありえん」
「感づかれたか」
長宗我部水軍を率いているのは長宗我部家当主・長宗我部元親の嫡男である長宗我部信親である。
その信親はちっ、と小さく舌打ちをした。
信親の前には、信忠の乗る「永楽丸」が臨戦態勢を取るのが見えた。
明らかに、こちらと一戦交える気だ。
「若殿……」
傍らに控える長宗我部家臣の、吉良親実が不安そうに信親を見やる。
「案ずるな。計画に変更はない」
そう言って安心させるように信親はにやりと笑った。
「このまま、織田信忠を討つ」
そう言って、家臣達を見やると改めて宣言するように言った。
「皆の衆、よく聞け!」
この船に乗る、長宗我部家臣団の視線がいっせいに信親に集中する。
「これより、我らは織田信忠の船を沈め織田信忠を討つのだっ」
ここにいる者達には、既にこの計画は知らされている。
それでも、日の本の覇王を討つという事に緊張しているのか、彼らの顔には強い不安の色が浮かんでいる。
「名護屋城では、明智殿が手はず通りに決起しておるはずだ。儂らが、信忠を討つ事により、計画は次の段階に進む事ができる」
信親は、そんな家臣団に言い聞かせるように続ける。
「いいか、今回の計画。明智殿の名護屋城占拠と同様に我らの果たすべき役割は大きい。大きいが、それだけに見返りも大きい」
家臣達は黙って聞いている。
「今回の計画が成功し、信忠や信忠に組する者達を打倒した暁には我ら長宗我部を四国全土の領有が認められておるっ」
信親の瞳には、強い野望の色が浮かんでいる。
四国統一。
それは、長宗我部の悲願といってもいい。
その悲願を、父・元親はやり遂げた。
だが、その栄光はわずかな期間で終わってしまった。
織田信忠による四国征伐である。
あの四国征伐の際。
織田の圧倒的な大軍の前に、各地の軍勢が脆くも蹂躙され本国の土佐にまで迫られた際。
これまで築き上げた、四国全域の版図を次々と織田に奪われていった時の父・元親の無念の表情は忘れられない。
――こうなったら、敵わずまでも敵中に切り込んで討死してくれるわっ。
そう言って鬼気迫る形相を元親は見せていた。
織田軍10万の大軍が土佐に迫っても、元親はなおも闘志を燃やし、最後の一兵まで戦い抜く気でいた。
そんな中、織田信孝が使者として訪れた。
あの明智光秀を従者として伴って。
光秀は、かつての元親の盟友だ。
元親は驚愕した。
その元親に、さらなる驚愕が襲った。
――信孝様はいずれ、信忠を放逐して織田の家督を継ぐ気でおる。信孝様が家督を継いだ暁には、貴殿に四国全土の領有を認めるゆえ協力して欲しい。
光秀は、そう提案した。
当初、元親は警戒した。
光秀はともかく、信孝はかつて織田信長の命令により四国征伐軍の総司令官として渡海する予定のあった男である。
その信孝を信用していいものかどうか。
――明智殿には悪いが、織田と最後まで戦うべきか。
当初はそう考えていた元親だが、徐々に冷静さを取り戻していった。
――このまま、戦い続けても滅ぼされるのがおち。ならば、ここは屈辱に耐え、信孝殿の決起の時を待つべきか。
そして、元親は決断する。
――わかりました。いずれ決起する時まで待ちましょうぞ。
そんな父の当時の様子を、信親は鮮明に記憶している。
……父上、ついにその決起の時が来ましたぞ。
信親の感情も高ぶる。
本国土佐にいる、父も即座に伊予の福島領に攻め込む予定でいる。
元親以外にも、全国に散らばる織田信孝に組する大名達が一斉に決起する手はずになっているはずだ。
……だが、それは信忠を討ち取るのが前提の決起。
ここで信忠を討ち漏らせば、今後の計画に大きな支障が出るのは必定なのだ。
「よいかっ。信忠を討つのだ。そして、織田の当主の座に着くのは織田信孝様である」
強い決意の籠った長宗我部信親の視線が信忠の船団に注がれる。
「敵は天下の織田信忠よ。長宗我部が再び、四国の覇者に返り咲く為の贄となれいっ」




