54話 騒乱前兆
「…………」
安土城天守。
かつて、織田信長が独自のセンスにより築き上げたこの天守に、一人の男が佇んでいた。
信長の三男・織田信孝だった。
顔は、元々信雄ほど信長に似ていない。
その顔を、不安そうに歪ませている。
空から、朝の到来を取れる知らせる光が差し込んでくる。
だが、それを見ても信孝の気分は晴れない。
「……殿」
その信孝に、彼の家臣である岡本良勝が話しかける。
「こちらにおられましたか」
「……良勝か」
「随分と探しましたぞ」
「う、うむ。それは迷惑をかけた」
信孝が不安げな顔で応じる。
「いよいよ、今日、じゃな」
古くからの臣である、良勝以外に人はいないというのに声は小さい。
それに対し、良勝は静かに応じる。
「はい。手はず通りであれば、今頃は名護屋でも決起した頃かと」
「うむ……」
信孝は、頷く。
普段、性格は最も父親譲りとされており激昂しやすい性格の信孝ではあるが、この日は妙に静かだった。
「では、我らが動くのは手はず通りに」
「昼頃になるかと。常に、各員に知らせは届けてあります」
「そうか……」
信孝は、腕を組む。
顔にはまだ不安そうな色が強いが、先ほどと比べれば落ち着いたようだった。
「昨日はよく眠れなかったようですな」
「……」
信孝は答えない。
だが、目の下にはクマができておりそれが答えだった。
「一刻ほど微睡んだだけだ」
信孝は答える。
「それはようございませんな。睡眠不足は大敵ですぞ」
「……分かっておるわ」
信孝は頷く。
「朝餉をすぐにでも用意させましょう」
「……食欲が出んわ」
「睡眠不足に加え、空腹ではいざという時に力が出せませんぞ」
良勝の言葉に、信孝は結局頷く。
やがて、朝食が用意された。
膳から、汁物の入った椀を手に取り、それをわずかに啜る。
「……」
信孝の顔は、まだ青ざめている。
「信孝様。後悔しておられるのですか?」
「……い、いや。それはない」
信孝は答える。
だが、その声は震えており、付き合いの長い良勝でなくてもその言葉が嘘だとわかった。
「あ、兄上のなさりよう、は。あ、あまりに、不義。こ、この、まま、では日の本の為にも帝の、為にも、なら、ない!」
そこまで言ったところで、汁物の入った椀を信孝は落としてしまった。
「信孝様。ここには気のしれた知る者ばかり。そのような、建前は不要ですぞ」
良勝の言葉に、慌てて回りを見渡す。
この場に、数人の小姓がいるが、彼らは皆、信頼のできる者ばかりが集められていた。
そのうちの一人が、近寄ってきて今落とした汁物の入った椀を片付けた。
「……正直、不安なのだ、わしは」
信孝が言った。
「兄上は、日に日に父上に似てきておる。しかも、父上と違いわしの事を嫌っておる」
改めて、信孝が箸を手にする。
「このままでは、いずれ兄上に殺されるのではないかと思う。兄上の子も既に10を超えるし、縁者は信雄兄者だけで良いと考えておるやもしれん」
「……」
良勝は黙って聞いている。
「だが、儂は嫌だ。伯母上やお前達にも、相談した。結果、今回の計画を持ちかけてこられた」
信孝は、箸を手にしたもののそれを食べ物につける事なく不安定そうにぶらぶらと揺らした。
「正直、わしは迷った。このような計画を起こしていいのかと。本当に、成功する見込みはあるのか不安だった。だが、何度もお前達に説得されるうちに、そして兄上に罵倒されるうちに、実行してもよいという気になってきた――」
そこまで言って、いくらか気分が高揚してきたのか、多少は食欲が出てきたようだった。
ここで信孝が、漬物を口にした。
「そして、決断した。だが、正直なところ――今でも、後悔しておる。本当にこんな大それた計画。わしには荷が重いのではないか?」
信孝の顔には、再び不安そうな色が浮かぶ。
「兄上は、人並み外れた才覚の持ち主。本当にうまくいくのであろうか」
「確かに、上様は人並外れた力量をお持ちでした。ですが、それゆえに敵も多い。それゆえに、我らの計画の賛同者も多く出たのでありましょう」
「うむ。それはそうだが――」
「それに、上様とて不老不死の化け物ではありませぬ。本能寺の変の時でも、一歩間違えれば亡くなっていたであろう、れっきとした人間です」
「う、うむ……」
「名護屋城を奪い、上様の乗った船が沈没されるのを頃合いに、九州に点在する我らの味方が一斉に決起する手はずとなっております」
「そ、そうじゃな」
「名護屋城の奪還と、上様の死。この二点の成功と同時に、我らも決起し、安土城を奪います。それと同時に、美濃や関東にいる我らの味方も動かし、徳川家の動きを封じる。そして、その間に我らは大坂城を奪い、秀信公を捕縛、あるいは討ち取る。それで我らの勝利となることは、疑いの余地がありません」
「しかし、本当に徳川は封じる事ができるのか?」
信孝は、家康に対して強い警戒心を抱いていた。
何せ、徳川家には戦上手の武将が数多く揃っているし動員できる兵も多い。
「徳川を封じる大駒をいくつも用意したではないですか」
「……」
「これまで北条氏直殿を支援し続けたのは、この時の為。彼が北条再興を掲げ、関東で挙兵させるよう手はずは万全です」
「……」
「今は、かつての臣である大道寺政繁殿の松井田城で決起の準備をしている最中でありましょう。北条の再興を掲げ、挙兵すればその数は相当なものになります。関東にいる兵の大半を引き付ける事はできます。美濃や信濃も殿の領国ですゆえ、完全に徳川は我らの味方に包囲される事となります」
「そ、その通りじゃな。何を儂は不安になっておるのだ……」
信孝の顔に浮かんだ、不安の色がわずかにではあるが薄くなる。
「そういえば頃合い、ですな」
ぼそり、と良勝が言った。
「何がじゃ?」
「お忘れですか? 計画通りに事が運んでいれば、この刻限に上様は対馬で海の藻屑となっている事でしょう」
ここで「いえ」と良勝は訂正する。
「もはや、『上様』とぶべき相手は信忠公ではありませんでしたな。上様が海の藻屑となれば、某が『上様と呼ぶべき相手は――」
そこまで言って、良勝は目の前にいる男。
織田信孝の姿をじっと、見つめた。
「……そうじゃな」
信孝が、こくりと頷く。
目つきは睡眠不足の為か、充血しており鬼気迫る様子だった。
「儂はもう、決意した。決意したのじゃ」
再び、外の光景を見やる。
この広大な天守からは、城下の光景がやたらと小さく見える。
そんな眺めを見ていると、自然と信孝の瞳にも強い色が戻ってきた。
「今更、後戻りはできん」
すう、と息を吸い込み宣言するように言った。
「儂は、兄を誅して家督を奪う。兄の子も放逐し、織田家の当主に儂はなるのじゃっ!」




