53話 巨城陥落
肥前――名護屋城。
九州の片田舎でしかなかったこの城も、織田信忠の大陸出兵以降は日の本の中心として、栄えていた。
織田信忠を始めとする、日の本中の有力大名が集まり、朝鮮征伐の重要拠点となっただけではない。
信忠や有力大名がここに活動しているという事もあり、政治の中心としても機能し続けていたのだ。
集まった人数も、当初は30万を超えた。
だが、今はその数を大幅に減らしていた。
今現在、自領に帰国した大名もいるし、朝鮮の地に数万ほどの兵が渡っている。さらには、梅北、島津征伐の為に羽柴秀吉が一部の兵を率いてこの地を経ってしまっている。
その名護屋城の大手門に、織田信孝の軍勢が揃っている。
それを迎え入れたのは、羽柴秀次付の家臣だった。
「おお、よく来てくれた」
これよりも前に、信孝は名護屋城に残った家臣を通じて秀次に提案をしていた。
――梅北の謀反により、羽柴秀吉殿が大軍を率いて出ていき、城を守る羽柴殿の軍勢が減じていると聞く。それを我らの兵で補ってはどうか。
信孝の領土から増員として送り出した兵で、減った兵を補って欲しい、というものである。
兵の不足に悩んでいた秀次はそれを了承。
やがて、美濃から引き連れてきたというその兵がこの地に到着した。
「ささ、こちらに」
秀次の家臣は、信孝の兵達を案内する。
名護屋城は、本丸を中心に、東に三の丸、東出丸。西に、二の丸。その北に遊撃丸、南に弾正丸といった構成になっている。
今回、彼らがいるのは本丸でありこの名護屋城の心臓ともいっていい部分だ。
兵を率いている信孝家臣団の中には、信孝とよく行動を共にしていたあの包帯を巻いた従者の姿もあった。
「は、美濃から引き連れてきた兵は1万ほどですがな」
兵を率いる将の一人が言った。
「それは頼もしい」
秀次付の武将は笑みを浮かべる。
「ささ、ご案内しましょうぞ」
秀次家臣の先導により、兵達は歩き始める。
「それにしても、この戦もようやく目途がつきそうですな」
秀次の家臣が言った。
その口調には、何の警戒心もない。
「そうですな」
信孝の家臣がそれに答える。
「朝鮮の地は、未知の病も多いところと聞きますぞ。そのような地に、いつまでも残しておくのはいささか心苦しい」
秀次家臣が話を続ける。
「……」
信孝の家臣は無言だった。
「ですが、この戦も手打ちの目途がつき、明と和するとなれば彼らもようやくこの地に戻れますな」
「……」
「そうなれば実に喜ばしい。帰国した将達には、茶でも振る舞って疲れを癒してやりたいものですな」
「……いや」
不意に、信孝の家臣の声色が変わった。
「――申し訳ないが、彼らにはもうしばらく朝鮮の地にいてもらう事になる」
「は?」
秀次の家臣は、次の言葉を発する事はできなかった。
信孝の家臣に、ばっさりと斬られ、絶命してしまったのだから。
「な、な、な……」
凄まじい量の血を流し、その家臣は倒れる。
他の秀次の家臣達は、突然の信孝家臣団の暴挙に唖然とする。
糾弾の言葉を出す間もなかった。
いつの間にか、信孝の兵達は刀を抜き、臨戦態勢になっている。
「な、な……っ」
秀次の家臣達は、驚きのあまりすぐに言葉が出てこないらしい。
そんな中、いっせいに信孝の家臣達は秀次家臣団に斬りつける。抜刀する間もない。それどころか、何が起きたのかすら分からないまま、次々と秀次家臣団の命は奪われていく。
「な、何故このような事を……」
辛うじて、致命傷を免れた家臣の一人が息も絶え絶えのまま言った。
「決まっておる。信孝様に天下を取っていただく為じゃ」
前に進み出たのは、包帯姿の従者である。
信孝とよく行動を共にしていた男だ。
「なん、じゃと……?」
頭部から流れる血で、視界が塞がっているらしい。
苦悶の表情を浮かべながら、兵が言う。
「最も、儂がこの決起に参加した理由はそれだけではないがな」
「何……?」
「織田家に。そして、信忠や秀吉に対する復讐よ」
「復讐じゃと……?」
「そうじゃ。儂の一族は、奴らによって滅ぼされてしもうた。儂が背いた故の、自業自得と言われればそれまでじゃが、それでも家臣や家族達の仇は取ってやらねばのう」
「き、貴様は一体……」
「ふん、分からぬか」
信孝の従者は、顔面を覆っていた布を外した。
「儂の名は、明智光秀っ! かつて信長を討ち、秀吉に討たれた男の名じゃ!」
だが、城内でも大変な騒ぎが起きていた。
城内に潜伏していた、信孝の兵達が暴れ出したのだ。
織田信孝は、信忠に嫌われていたとはいえ、信忠の実弟であり、織田家の重鎮だ。自身の権限を巧に使い、城内に配下の者を多数配置していたのだ。
「織田信孝様、御謀反!」
「信孝様じゃと!? 何を馬鹿な事を言っておる。謀反を起こしたのは明智光秀じゃ!」
「明智? お主こそ戯けた事をほざくな!」
場内は、そんな混乱と喧騒に満ちた大騒ぎになっている。
様々な情報が飛び交い、まともな情報の共有などまるでできていない。
当初、この名護屋城には30万もの大軍勢が集っていた
その一部は、遠征軍として海の先に渡海している。
また、本格的に朝鮮攻めが始まって以降、朝鮮征伐は西国大名を中心としていた事もあり、遠方の地にいる東国大名は領国に帰った。
これには、相次ぐ兵糧の補給要求により名護屋城の兵糧が不足しがちになっていた事もあった。
さらに、梅北討伐の為、その残った軍勢の一部も肥後へと向かわせてしまっており留守兵はさらに少なかった。
が、それでも1万ほどの謀反軍よりも多い。
にも関わらず、在番の兵は苦戦を強いられていた。
それは、あまりに急な事態についていけず、皆が混乱していたという事が大きい。
名護屋城在番の兵の大半は、具足をつけておらず、鉄砲の火縄なども用意できていない。
名護屋城は、彼らにとって安全地帯でありいわば当然の事ではあったが。
しかも、誰が敵で味方かもろくに分かっていない状態なのだ。
多くの兵が冷静さを取り戻しつつあった時には、既に謀反軍は主要箇所の占拠に成功していた。
この時の、織田政権の筆頭である織田信忠は対馬海峡におり、名護屋城の留守役である羽柴秀吉は梅北討伐に出ており、不在だ。
この城を守る責任者は、秀吉の甥である羽柴秀次という事になる。
この時、弾正丸にいた羽柴秀次はその報告を受けて驚愕した。
「な、何という事じゃっ」
秀次の怯えの混じった声が口から洩れる。
「秀次様っ」
慌てた様子で、秀次のところに秀吉から配置されていた石田三成――碧蹄館の戦いでの勝利後に秀吉への報告も兼ねて一足先に帰国していた――や田中吉政、山内一豊らが慌てて駆け寄ってくる。
「お、お主ら何をしておる。織田信孝の謀反ぞっ」
「承知しております」
吉政が、冷静に言った。
彼もまた、この事態に内心では驚いていたが、このような事態にこそ冷静に対処しなければならない、と自分自身に強く言い聞かせていた。
「な、ならばすぐに対処せねばっ」
「対処、といいますと?」
「奪還じゃ、すぐに反徒共から城を奪還せいっ!」
「秀次様、しかし……」
一豊が、無念そうに唇をかみしめる。
「しかし、なんじゃ!」
「それは既に不可能かと……」
「不可能じゃと!?」
秀次が怒鳴った。
「はい。既に、本丸は元より、二の丸も三の丸も既に占拠されております。東出丸、遊撃丸も同様です。この弾正丸も間もなく、敵勢がなだれ込むかと……」
「こうなった以上、そうなる前に脱出する以外に道はないかと……」
無念そうに、三成が一豊の言葉を繋いだ。
「……」
秀次は、あまりにも急な事態に黙り込む。
「何という失態じゃ……」
自分が留守を任されていながら、この事態。
あまりの事に、唖然とするほかなかった。
「わ、わし、は……」
「秀次様っ!」
茫然自失状態の秀次に、叱責するように吉政が怒鳴る。
「こうなった以上、名護屋城から脱し、殿や上様にこの事を報告して対処していただくほか、ありませぬ」
「し、しかし……」
「しかしも何もありませぬ。ここで秀次様が残ったところで、ただ敵勢に討たれるだけですぞ」
厳しい視線が、吉政から秀次に注がれる。
「…………」
やがて、秀次の視線がそらされた。
「さ、よろしいですな秀次様。この場から脱しますぞ」
「う、うむ。分かった」
「搦手口にまだ敵勢はいない模様、搦手口から脱しましょうぞ」
名護屋城から脱するには、搦手口、水手口、船手口等の脱出路がある。が、この弾正丸からは、搦手口が一番近かった。
こうして、秀次達は搦手口からの脱出を決断した。
不幸中の幸いといえるのは、光秀の目標が名護屋城の占拠にあった為、秀次らの追跡にほとんど力を入れなかったという事だろう。
足軽達の犠牲も少ない。
大半は、名護屋城からの脱出に成功していた。
だが、それでも名護屋城を謀反人に占拠されたという衝撃はあまりにも大きかった。さらに、この乗っ取り劇の首魁が光秀であるという報告までが秀次の元に飛び込んできた。
驚愕した秀次は、即座に秀吉のところに使者を発したのであった。
「殿っ」
筑後と肥後の国境の辺りにある、小さな寺。
そこで羽柴秀吉達が幹部達を集めて軍議を開いている時に、その使者は到着した。
「どうした? 今、大事な話をしているところだぞ」
秀吉が、咎めるように言った。
「し、しかし。名護屋城で変事だと使者が……」
「名護屋城だと?」
秀吉、福島正則、仙石秀久の目が険しくなる。
「何かあったのかもしれませんな」
正則が言った。
「そうよな」
そんな会話が交わされる中、使者が通された。
「い、一大事でござるっ」
ぜえぜえ、と使者の吐く息は荒い。
相当な強行軍だったらしく、あちこちが汚れている。
織田家の最高幹部ともいえる、秀吉を前にしてもそのままである。
「よほど急いで来たようだな。何かあったのか?」
秀吉が訊ねる。
「そ、それが……」
はあはあ、となおもつらそうに息をしている。
「誰ぞ、水を持ってこい」
秀吉が命じ、水の入った竹筒が用意された。
「これでも飲んで気を落ち着けい」
「は、ご配慮、感謝、いたす……」
男は、それを貪るように飲む。
ある程度、落ち着きは取り戻したようだ。
それでも、息も絶え絶えの様子である。
だが、何とか喋らなければ、といった様子で必死に唇を動かす。
「な、な……」
「な?」
「な、名護屋城が、乗っ取られましたっ」
「何だと!?」
驚愕の声が、秀吉から放たれる。
正則、秀久らも同様であり、即座に、言葉の意味を理解できなかった。
「ど、どういう事だ!?」
さしもの秀吉も、即座に声が上ずっている。
「それが……」
使者が、荒れた息を吐きながらも丁重に。
要点をまとめた説明をはじめる。
やがて、その説明は終わった。
「何という事だ……」
さしもの秀吉も強い衝撃を受けている。
「……」
「……」
誰も、即座に言葉を発せない。
気まずい沈黙が場を支配する。
「……何とかせねばなりませぬな」
衝撃から、最も早く立ち直った正則が言った。
「うむ。名護屋城は、織田家にとって重要拠点であるばかりか、朝鮮遠征の前線基地だ。あの場所を失えば、遠征軍が窮地に陥りかねん」
秀久も続く。
「そうよのう……」
秀吉の顔にも、苦いものが強く浮かんでいる。
「しかし、一体誰が、何の為に……」
武将の一人が呟くように言った。
この時点で、名護屋城占拠以外の情報は入っておらず、これに答える事のできる者は誰もいなかった。
「……あの、殿」
秀久が提案した。
「とりあえずは、秀次様らと合流するべきでは。梅北や島津よりも、名護屋城の奪還を優先するべきではないかと。あの地を奪い返さない事には、朝鮮の地にいる秀長様や長康殿らも戻れませんし」
「……そうよな。梅北の成敗は後回しじゃ。佐々殿には、名護屋城を奪還すれば戻る故、それまで何とか梅北の軍勢を抑えるように言っておいてくれ」
「はっ」
家臣達も頷き、この軍議は終わった。
だが、今この瞬間に、名護屋城占拠を上回る衝撃的な事件が他にも起きていたのだ。
その事を秀吉達が知るのは、秀次や三成らと合流し、名護屋城を囲んでからの事になる。




