49話 朝鮮戦線14
碧蹄館は、漢城から20キロと離れていない場所にあり、5キロメートルほどの渓谷をなしている。
そこが、今回の戦いの舞台となった。
まずは、先鋒の立花隊の先発隊と、明の斥候隊が衝突。
戦闘が始まった。
が、立花隊の奮戦もあり明の部隊に打撃を与える。
明軍は、これを撤退した。
一方の立花隊も、羽柴秀長や小早川隆景らにこれを報告する。
報告を受けた、両軍の幹部達はこの地での衝突が不可避と悟ったのである。
そんな中、明軍を指揮する、李如松の軍勢は前進を続けた。
既に、その軍勢の恐ろしさを知らしめられた朝鮮軍と違い、明軍の方は彼に限らず、油断や慢心があった。
最初に明軍と激突した平壌の戦いでは、明軍が連れてきた兵は少なかった。その後の平壌奪還戦では和議が結ばれて気の緩みのあったとはいえ、織田軍団を相手に勝利している。
つまり、本格的には織田軍と交戦していなかったのである。
立花軍に敗れ、自軍に収容したばかりの斥候部隊の報告を受けてもそれをなお彼の心は変わっていない。
……この地で、倭の軍勢を叩きのめし、北京に凱旋してやる。
李如松には、強い侮りがあった。
事実、彼が平壌を奪い返して以降の織田軍は、ただ後退するばかりだった。
偽りの休戦協定からの、奇襲作戦もうまくいった。
平壌はいとも容易く奪われ、漢城間近にまで迫られながら、織田軍はまともな応戦すらできない。
惨めな後退を繰り返すばかりだ。
……他愛もないわ。
敵は劣勢。
しかも、臆病者の集まり。
そんな思いを、彼は抱き始めていたのである。
……これは、まともな戦闘すらないやもしれんな。簡単に、漢城は取り戻せる。いっそ、そのまま釜山にまで。そして、釜山にいる倭王の首をとって陛下に献上してくれようぞ。
やがて、立花隊や小早川隊を中心とする織田軍と対峙する。
明軍の兵は朝鮮の兵も含めて2万。
だが、織田軍は倍の4万。
だが、織田軍4万といえども内2万はまだこの戦場に到着しておらず、実質的な人数は互角だった。
――そして、激突は始まった。
「やれぃっ! 大明とやらにも毛利一族の力を示してやれっ!」
小早川隆景が、自ら槍を持ち修羅の男となっている。
すでに、彼の甲冑は赤く染まっている。
彼自らが前線に絶ち、槍を奮っているのだ。
自然と味方の士気も高まっている。
織田軍が、明軍に勢いよくぶつかる。
幸いな事に、これまで織田軍を散々苦しめてきた大砲は今の明軍にほとんどない。
短期間での漢城攻略を狙った為、輸送に手間のかかる大砲の大半はこの地に運ぶ余裕がなかったのだ。
それに対し、輸送という点では鉄砲の方が便利だ。
豊富な銃火器を織田軍団は持っている。
鉄砲による支援などから、明軍を徐々に後退させていく。
「いけ、いけーっ! やってやって、やりまくれーっ!」
「敵勢を逃すなっ!」
「一人でも多くの首をとれいっ!」
小早川隊の、侍大将達の声が戦場に響く。
次いで、吉川隊、立花隊の勇将猛将もまた、口々に叫び明の軍勢と戦う。
……ここで敗れるわけにはいかんっ!
隆景の強い思いがそこにあった。
今、劣勢にある織田軍はここで守勢に転じれば敗北につながる。
ここでの敗北は、さらにも漢城の失陥にも繋がる。
そして、遠征軍の総司令部ともいえる漢城の失陥は朝鮮戦線の崩壊に繋がりかねない。
それだけに、これに負ければ最期だと考える織田軍団の気迫は凄まじい。
勝ち戦に乗じて、この地へと進んだ明軍の勢いを完全に押していた。
「ひっ……」
言葉はよく分からないが、悲鳴らしき声をあげた明軍の兵士を背後から槍で刺した。うめき声をあげ、明兵は倒れる。
「ふん、他愛もない」
倒れた明兵を、醒めた目で見つめるのは薄田兼相である。
豪傑として名高い彼は、小早川隆景の配下として、この戦いに参加していたのだ。が、思いのほかあっけなく崩れ去る明軍を相手に失望を隠せない様子だった。
その兼相相手に、明軍が取り囲む。
「おお、まだ気力の残っておる者共もおったか」
それを見て、兼相はにやりと笑う。
明の兵士達が、いっせいに兼相に襲いかかった。
「はあっ!」
「! !!」
が、数人がかりでも兼相を倒せない。
兼相の周りにただ、死体を積み重ねていくだけだった。
吉川広家の部隊も、奮戦する。
だが、朝鮮にまで遠征軍を率いてきた広家の胸中には複雑なものがあった。
……儂は、このまま織田の為に働いて良いのであろうか。
そもそも、彼の父・元春は織田への従属を良しとしていなかった。
当初、織田信長は毛利家との関係は悪くなかった。義昭の策謀によって敷かれた第一次信長包囲網が瓦解しつつあった頃、信長の目は西にも向き始めていた。
尼子の残党によって結成された尼子再興軍を起こさせる事によって毛利の勢力圏を犯しはじめる。
織田家との関係が微妙なものになりはじめた頃、当時輝元が庇護していた室町幕府第15代将軍である足利義昭――ちなみに、この時点でも将軍職は返上されていない――の発案により、第二次信長包囲網に毛利が加わる事になった。
以後、毛利家は織田家と激しい抗争を続ける事になる。
だが、共同戦線を張っていた播磨三木城の別所長治が降伏し、摂津有岡城の荒木村重が逃亡し、有岡城が開城し、輝元や上杉謙信以上に信長包囲網の軸といえた本願寺までもが降伏した。
これにより、第二次信長包囲網も瓦解。
毛利領は、次第に信長に侵食される事になる。
そんな時に起こったのが本能寺の変である。
この際、織田領の混乱を父・元春は予見し、これを機に、本格的な失地奪還を行うべきだと輝元に提案した。
しかし、それに反対したのが毛利家の外交僧・安国寺恵瓊である。信長が死んでも、織田は巨大な事。何よりも、自分の高く買う羽柴秀吉がいる事などを輝元に解き、織田に下る事を進めた。
結果として、毛利は織田に下る道を選らんだ。
立場が悪くなったのは、元春である。
徹底的に反織田を唱えていたのだ。織田の家臣となった以上、居心地が悪い。何より、そんな元春が居続けては織田の人間にも悪印象を与える。
そんな空気が毛利家中に漂い始める。
それを敏感に察した元春は、隠居を決断。
家督を、子の元長。つまり、広家の兄に譲った。
これで、一件落着かと思われた。
だが。
……兄の体調が悪化したのは、四国征伐の頃だった。
織田信雄を総大将として、毛利家は四国征伐に従軍。その時に、吉川家の兵を率いていたのは兄の元長である。
伊予で、元長は長宗我部の軍勢と戦った。
だが、四国征伐が完了した後に元長は休息に体調が悪化。
以後は広家が実質的な吉川家の当主として、吉川家を仕切った。
……そして、父・元春も。九州征伐の際に。
続いての、九州征伐。
この時、羽柴秀吉が「智将として知られる元春の手を借りたい」と信忠に懇願。信忠もそれを受け入れ、既に隠居した吉川元春に九州征伐軍への参陣を命じた。
そんな中、元春は陣中にて秀吉家臣の黒田孝高の宴に招かれた。
当初、秀吉に好感情を持っていなかった元春はその誘いに渋ったが、毛利家は織田への従属路線に決まっていたのだ。
自身の我儘で、それを壊すわけにはいかないと考え、その饗応を受ける事にした。
だが、翌日の事だった。
元春が急死したのは。
……まさか、秀吉が黒田孝高に命じて……。
表向きは病死だった。
だが、そんな気持ちが広家の心のどこかにあった。
しかも、悪い事に元長もその直後に死んでしまったのだ。
……織田家は、都合の悪い吉川の人間を謀殺しようと目論んでいるのではないか。
そんな考えが、広家にはあった。
「くそっ」
そんな考えを振り払うかのように、大きく首を振る。
……今はまず、この戦場を切り抜けるのみっ。
織田への不満を今は置いておいた。
「やれ、やれーっ!!」
広家の声が、碧蹄館の戦場に響いた。
「主君の恥はここで注ぐ!」
毛利両川以上に、凄まじい気迫を見せる男がいた。
大友軍に属する、立花宗茂である。
彼の主君である大友吉統がいち早く撤退してしまった事により、平壌失陥の原因の一つを作ってしまった。
失態を注ぐためには、それ以上の武功でしかありえない。
根っからの武人である彼は、そう信じていた。
宗茂自らが、前線を進んでいく。
立花隊の男達は、自ら進んで前線に立つ。
その気迫に、明軍の兵士達は完全に押されていた。
怒声と悲鳴が、戦場を支配する。
「一人残らず斬り捨ていっ!」
宗茂の怒声が戦場に響いた。
「立花殿に続けっ」
続いて、怒声を放ったのは黒田長政だ。
平時の、理性的な表情が嘘のように荒武者と化している。
父の孝高は、この戦場にいない。
孝高は、急遽帰国命令の出た秀吉に付き添う形で名護屋城に戻っている。
これまで、秀吉は参謀として蜂須賀正勝を重用し続けて来た。が、彼は今病に倒れて領国の阿波で療養中である。
彼に代わる参謀候補として、傍らに孝高を欲していたのだ。
が、子の長政はこの戦場に残る事を選らんだ。
それは、長政というよりは黒田家臣団にあった。
今の黒田家臣団には、孝高を心酔し、長政に反発を持つ者が少なくない。
それだけに、自らの力で武功を示す必要もあったのだ。
「やれ、やれーっ!」
長政の声が、戦場に轟いた。
戦場は織田軍優位、に傾きつつあった。
その理由として、明軍が騎馬隊を主力にしていたという点があった。
前述の通り、追撃戦だったというもあり十分な数の大砲を明軍はこの地に運べていない。
この数日前にこの一帯の水田に雨が降り注いでおり、騎馬を主力とする明軍にとって騎馬では足場が悪かったのだ。
思うように動く事すら、できない。
逆に、織田軍は小回りの利く武器を多数持っていた。
戦場の主力となる、槍はもちろんの事、日本刀もこの戦いでは大いに役立った。その凄まじい切れ味に、明軍の兵達は恐れ、戦線を下げられていった。
やがて、勝負の天秤は完全に織田軍へと傾いた。
明軍が、逃げる、逃げる。
織田軍が追う、追う。
「やれ、やれーっ!」
「追え、追って皆殺しにせいっ」
侍大将ら、各軍で指揮を執る者達の叱咤が響く。
逃げる明軍を追う。
その勢いは凄まじかった。
特に、立花隊のこの戦いでの武功は別格だ。
完全に主君の恥を雪ぎ、立花宗茂の部名を高める事となった。
だが、ある程度の被害を与え続けたところで羽柴秀長は追撃の中止命令を発した。
明軍を完膚なきまでに破ったにも関わらずの、この中止命令に宇喜多秀家が抗議するように言った。
「何故追撃しないのですか?」
「その必要はあるまい」
秀長は静かに言った。
「何故です? このまま追えば、敵の大将を討ち取る事も不可能ではないかと」
秀家が訊ねた。
怪訝そうな顔である。
「ならん。確かに、敵の大将を討ち取る事も可能であろう。が、そうなったところで明は新たに大将を送り込んでくるだけだ。それに」
ふっ、と秀長小さく笑う。
「上様は、明国と手打ちする気でおる。宇喜多殿も知っておよう」
「はい。ですが、明は休戦協定を破って攻め寄せてきたのですぞ」
「そうだ。だが、それも水に流した上で手打ちすべきだと思う」
秀長は続ける。
「今回、明軍を破ったとはいえ、明は大国。再び大軍を送り込んで来よう。が、明の財力も無限ではない。そう何度も、大軍を送り込みたくなかろう。が、面子を完全に潰されるような事があっては話は別じゃ。明は特に面子を重んずる国ゆえな」
そう言って、秀長は首を横に振った。
「だからこそ、必要以上に勝ちすぎてはならんのだ。大将まで討ち取って、下手に面子を潰すような真似をしてしまうと、明も後に引けなくなる。そうなってしまえば、泥沼じゃ」
「では、そうなる前に手打ちすると……」
「そうよ。此度は、我が軍の恐ろしさを明に知らしめる事ができれば十分。逃げ延びた兵共には我らの怖さを明の上層部に報告してもらうとしようではないか」
そう言って、秀長は笑った。
こうして、碧蹄館の戦いは織田軍の完勝に終わったのである。




