48話 朝鮮戦線13
「へ、平壌が奪われただと!?」
漢城にて、兄に代わり朝鮮全域の統括を行っていた羽柴秀長に衝撃が走った。
平壌にいる、いや平壌にいた小西行長からの報告である。
「は、はい……」
使者がおそるおそるといった様子で報告する。
それは、数日前の出来事。
日明間で、再び休戦協定を結んだ事により、平壌にいる織田軍は安心しきっており、平安道に対陣する明軍への警戒は緩んでいた。
以前に休戦協定を結んだ際、最後までその協定は破られる事がなく休戦期間を終えた事も理由の一つだったのだろう。
また、織田軍は和睦条件の一つである朝鮮半島南端部割譲の条件が通りやすくするために、兵や有力武将達を南部に集中させていた。
それが、完全に裏目と出たのである。
それでも、平壌には小西行長や宗義智、それに大友吉統らといった面々がそれなりの兵で配置されていた。
行長や義智は、自身らの軍勢を用いて勇敢に戦かった。
が、問題は吉統だった。
明の軍勢が攻めてきたとしるや、一目散に漢城にまで逃げ出してしまったのである。
最も多くの兵を差配できる立場にあった吉統が撤退した事により、行長らの軍勢の士気はかつてないほどにまで低下する。
結果として、平壌の地を失ってしまったのだ。
問題は、平壌だけで済まなかった。
勢いにのる、明・朝鮮連合軍はさらに開城も陥落させ、さらに軍勢を南下させる。
平安道を完全に奪い返され、黄海道も危うくなった。
今や、この漢城のある京畿道にすら迫る勢いとなったのである。
「どういう事だ! 明とは休戦協定を結んでいるはずではなかったのか!」
報告を聞き終えた秀長が怒鳴った。
「……そ、それは……」
使者が言いよどむ。
「……」
使者が、その答えを持ってないと分かり、やむなく使者を下がらせた。
代わりに、近習を呼び寄せた。
「主だった者を集めい」
はっ、と近習が秀長の部屋から退室する。
ほどなくして、今現在漢城に残る有力大名・武将達が集結してくる。
小早川隆景、秀包、吉川広家ら毛利一族。
石田三成、加藤光泰、宇喜多秀家、羽柴秀勝らもである。
彼らもまた、平壌失陥の報を聞くと顔色を変えた。
「一大事ではありませぬかっ」
秀家が驚いたように叫ぶ。
「しかし、休戦協定を結んでいるはずの明がなぜ……」
秀勝が、秀長と同じ疑問を口にする。
「明に謀られた、という事でしょうな」
「吉川殿……」
吉川広家の発言である。
「明にとって、休戦協定など我らを油断させるための戯言。中華思想とやらを信じる彼らにとって東夷と蔑む我らに譲歩する気などなかったという事でござろう」
「……」
「……」
「……」
皆が、沈んだように黙り込む。
明に欺かれたとはいえ、小西行長や大友吉統ら、いや朝鮮全域にいる織田軍に気の緩みがあったのも事実なのだ。
自身らの失態に、皆は唇を強くかみしめる。
「兄上や上様に何といえばいいのだ……」
秀長の口から、嘆きともとれる言葉が漏れた。
この時期、大陸出兵開始当初から渡海して戦い続けだった彼の兄・秀吉は名護屋城へと戻っていたのである。
そんな時の出来事だった。
「とにかく、善後策を講じなければ……」
その後も、議論を続けるがなかなか結論は出なかった。
さらに数日後、平壌を脱出した小西行長、宗義智、大友吉統らも加えて改めて漢城にて軍議が開かれる事になった。
議長役は、羽柴秀長。
主な出席者は、小早川隆景、大友吉統、宇喜多秀家、羽柴秀勝らである。
彼らの他に、石田三成、加藤光泰、立花宗茂といった姿もある。
第五軍、第六軍、第八軍、第十軍、第十二軍らの幹部格の面々である。
平壌失陥の原因の一因となったこともあり、大友吉統は肩身の狭そうな顔をしている。
「明軍はさらに進軍を続け、この漢城に迫らんという勢いでござる」
だが、そんな状況であっても正確に情報を伝える事こそが自分達の務めであると行長は考えているらしく淡々とした口調で情報を伝える。
「明の軍勢は?」
「今現在こちらに向かっているのは7000ほどでござる。総大将は、明の武将である李如松という男でござる」
「7000とは、思ったほど少ないですな。今現在にも、我が軍はこの漢城に4万ほどの兵がおりますぞ」
「おそらく、今漢城にまで迫っている軍勢は先発部隊。後続として1万を超える軍勢がいるとの事。おそらくは、2万ほどになるかと」
「2万でござるか……」
呻くような声が、武将達から洩れる。
「しかし、それでも多いとは言えますまい。その数で、4万の兵がいる漢城を奪い返せると思っていのですかな」
隆景が質問した。
「功績を欲しているのでござる。あるいは、平壌奪還が思いのほかうまくいったので我らを侮っているか……」
義智が言う。
「なめた真似を……」
ぎり、と怒りを込めて秀家が歯ぎしりする音が聞こえた。
「だが、我らにとって好都合ではござらぬか」
広家が言った。
「何ですと?」
「そうでござろう。相手が我らを侮るというのであれば、そこに油断が生まれる。その油断をつけば、勝利を拾う事も容易でござろう」
「うむ。吉川殿の言う通りじゃ」
光泰も、同意するように頷く。
「それで各々方、何か意見は?」
秀長が、皆に聞いた。
「漢城にて、籠城策を取るべきかと」
ここで、石田三成が発言した。
「理由は?」
「考えるまでもあるますまい。人数では劣っているのです。援軍を待つにせよ、それなりの時間が必要。にも関わらず、野戦で敗れればこちらの被害は甚大になるのは必定。そうなれば、漢城の死守すらできなくなるではありませぬか」
ですが、と三成は続ける。
「籠城戦であれば、少なくともすぐに負けるという事はありません。兵糧は決して豊富とはいえない状態ではありますが、釜山からの援軍を待つだけの時間は稼げます」
「うむ……」
秀長は腕を組んで答える。
確かに籠城策も一策だと、秀長は考えたのだ。
だが、
「待たれい、石田殿」
小早川隆景が発言する。
「ここは、野戦で敵を叩きのめすべし」
ざわり、と場がざわめく。
「野戦ですと、敗れた場合の危険が大きすぎますぞ。一気に、この漢城まで失うやもしれません」
「危険なのは、百も承知でござる。大事なのは、戦おうとする心構えでござる」
隆景の瞳に、強い闘争心が宿っている。
毛利体制を長年支えた毛利両川は、智将・小早川隆景、闘将・吉川元春という印象が強いが実際は逆だった。
隆景の方がむしろ、闘争心の強い猛将であり、元春の方が冷静沈着な武将だった。
だが、その闘将・隆景も単なる精神論だけで野戦を主張するような猪武者ではなかった。
「籠城戦をしたところで、勝ち目は乏しいのでござるよ」
「どういう事でござろう」
自身の策を否定された三成は、むっとした様子で聞き返す。
「かつて、織田信長公が今川義元公の大軍勢を打ち破った桶狭間の例を思い出してくだされ」
この場にいる面々に、桶狭間の戦いの当事者だった者は少ない。
だが、伝説的な戦いであっただけに織田家中では広く広まっていた。
「我ら織田軍団であれば、二度も大軍を打ち破れるとでも?」
「そのような単純な話ではござらん。当時、信長公は義元公に圧迫されており、家臣達からも見放されかけておりました。そんな時に、後詰の見込みのない籠城策を取れば自滅は必定と考え、一か八かの決戦に挑みました。結果として、今川家の脅威を消し去ったばかりか、家臣団を結束させる事に成功しました」
「桶狭間の時とはまるで違う。我らは、上様を見限る気などないし、当時の織田家は後詰の見込みがなかった。だが我らは、釜山からの援軍が見込めるっ」
言葉を遮り、三成が隆景に反論する。
「見限るのは我ら家臣団ではござらぬ。朝鮮の民でござるよ」
淡々と答えた隆景の言葉にざわり、と場がざわめいた。
現在、朝鮮全域でゲリラ活動を続ける朝鮮人は多かったが、織田の支配を受け入れ、漢城で暮らす朝鮮人もそれなりにいたのである。
「いざという時、籠る事しかできない腰抜けの集まりだと思われれば民も見限りましょう。しかも、籠城中の兵糧の負担はどうする気でござる」
「それは……」
三成が言葉を濁した。
前述の通り、漢城にある兵糧に余裕はない。
籠城戦となれば、食糧は籠城兵に優先的に与えられる事になり非戦闘員である民に苦境を強いる事になるのだ。
そうなれば、民の不満は強まり内部崩壊という事になりかねない。
「その事態を避ける為にも、短期間で明と朝鮮の連合軍を追い返し、漢城を守る他はないのです」
「……」
隆景の言葉に、三成は即座に反論の言葉が見つからないらしい。
他の武将達も同様の様子であり、三成に同調するように籠城策に好意的だった者にも変化が生じている。
「やはり、野戦で決着を着けるべきなのではないか?」
吉川広家が言った。
「うむ。小早川殿の意見の方が正しいと思う」
宇喜多秀家も同調する。
彼ら二人の言葉を皮切りに、多くの者が野戦案に賛意を示すようになった。
「では、小早川殿の方針を受け入れて野戦案という方針で行こうと思う」
皆を見渡すと、秀長が言った。
「応っ!」と勢いのいい返事が部屋に響く。
こうなっては、三成も反対する気がなくなったのか頷いている。
「それでまずは……」
と秀長が具体的な話に移ろうとする前に言葉が遮られた。
「その野戦。先鋒には、某を」
大友家家臣の、立花宗茂が口を開いた。
ここまで事態が切迫した理由として、彼の主君である大友吉統が元凶の一つだけに彼も必死である。
「立花殿か……」
秀長も、宗茂の武名は知っている。
また、胸中も察する事ができた。
断る理由はない。
「では、お任せいたそう」
秀長の言葉に、宗茂は「感謝致す」と頭を下げた。
それに秀長は笑顔で答え、隆景の方を向いた。
「それで、隆景殿。決戦地はどこを想定しておられるのだ?」
「そうでござるな。 ……誰か絵図を」
はっ、と隆景の家臣がこの辺り一帯の地図を持ってきた。
既に、決めてあったのか隆景はすぐにある位置を指さした。
「ここでござる」
隆景の指さした位置には、「碧蹄館」と書かれてあった。




