43話 朝鮮戦線9
京畿道――漢城。
平壌の守りを、宗義智や小西行長、松浦鎮信、寺沢広高といった北九州の面々に任せると、羽柴秀吉は福島正則や石田三成らを伴って漢城へと向かった。
平壌の守りに不安はあったが、明とは休戦状態だ。朝鮮単独ならば、小西行長や宗義智だけでも対応できると判断していたのである。
その間に、朝鮮全域に目が行き届きやすいこの漢城に秀吉は戻っていた。
出迎えたのは、備前の大名・宇喜多秀家だった。
父である宇喜多直家から預かり、秀吉が幼少期から大事に育てている若き大名である。
傍らには、前野長康の姿もある。
だが、その顔色は悪い。
単に、若さの為というわけではないようだ。
明らかに、動揺の色が強く浮かんでいる。
「……何か、あったのか?」
秀吉は秀家に尋ねた。
「は、はい。それが……」
秀家は言いよどむ。
そんな秀家を観察しながらも、周りを見渡す。
ある程度の修復作業が進んでおり、漢城も最低限の防衛機能は取り戻している。漢城そのものにさしたる問題は見受けられない。
……すると、別の場所か?
心当たりは、あった。
「……よもや、上様の身に何か?」
朝鮮の地に渡海したという、織田信忠。
彼の身に何かあったのではないかと、秀吉は疑う。
だが、秀家は首を横に振った。
「い、いえ。上様は無事に釜山に御着きになりました」
「何じゃ、驚かすな」
ほっ、と秀吉は内心で息を吐く。
「では、何じゃというのだ」
「船合戦で……藤堂高虎殿と亀井茲矩殿、それに脇坂安治殿の水軍が敗れましたっ」
「何!?」
秀吉は、驚愕の表情を浮かべる。
そして、秀家の口から細かい事情が語られる。
藤堂高虎と亀井茲矩と脇坂安治の三名は、慶尚道方面の攻略の支援を行うべく物資の輸送を担当。水軍衆を率いて行っていた。
彼らの指揮する水軍が、朝鮮水軍に攻撃を受けたというのだ。
「それで、高虎と茲矩と、それに安治は無事なのか!?」
「は、はい。幸い、船は沈められたものの三者共に近くの岸にたどり着く事ができましたゆえ……」
「そうか、それは良かった」
ほっ、と秀吉は軽く息を吐く。
この三名は、秀吉にとって大事な人材。
物資以上に、この三人が失われるのは耐え難い事なのだ。
「それにしても、これまで大人しかった朝鮮の水軍が急に反攻に出るとは……」
前野長康が口を挟んだ。
「奴らもまた、我らの水軍の弱点を学んできているようです。それゆえの事でしょう」
「我らの水軍の弱点、何の事だ?」
「それはですな……」
長康が説明を始める。
織田軍は鉄砲の数では、朝鮮軍を圧倒している。
だが、大砲に関しては違う。
明を通じ、朝鮮はいくつかの大砲を入手していた。だが、大砲は陸戦ではあまり役に立つ事はない。
陸路では輸送に手間がかかるし、当時の大砲の命中率も決して高いとはいえない。
しかも、苦労して戦場に運んだところで戦に敗れれば放置して逃げ出すほかない。何せ、運ぶだけでも一苦労な品なのだ。
だが、海上の戦いでは違う。
海上では、遠距離から攻撃が可能な大砲の長所を思うように活かせた。遠距離からの砲撃で、日本水軍を次々と沈めた。
逆に、織田軍も陸地での戦いほど鉄砲を活かせないのだ。
その為、明などを通じて手に入れていた大砲を搭載した朝鮮水軍の船に、織田水軍は大苦戦していた。
問題は、大砲を搭載した船だけではない。
朝鮮水軍には、思わぬ秘密兵器があった。
陸戦では世界最強といっても過言ではない戦国時代を生き抜いてきた最強の兵達も、海の上ではそれほど強さを発揮できない。
何せ、日本水軍の基本的な戦い方といえば敵船に乗り込んでの斬り合いとなる。
それを阻むように出てきたのが、朝鮮水軍の亀甲船だった。
外観は、その名が示すように海に浮かぶ亀ともいえる船だ。船全体が甲羅のようになっており、巨大な鉄針が突き出ている。
そんな亀甲船であるため、近寄る事すら出来ないのだ。
これまで、連勝街道を突っ走ってきた織田軍も大砲やこの船の前に完敗。
大将格の高虎や安治らは生き延びたものの、輸送物資の大半を失った。
「そういった次第でござる」
「うーむ……」
秀吉も思わず唸る。
これまで、織田軍に圧倒されるだけだった朝鮮軍が思わぬ反撃に転じたのだ。これは、単なる物資の紛失に留まらないだろうと秀吉は考えていた。
ここまでの戦い、朝鮮の民衆がおとなしかった理由は二つある。
そのうちの一つは簡単だ。支配階級である両班や中央に対する反感が強かった、というのが大きい。そのため、利用しようという思惑もあっただろうが、それでも好意的に織田軍を招き入れていた。
もう一つは、連戦連勝を重ねる織田軍、そして連戦連敗を重ねる朝鮮正規軍を見て、織田軍に逆らったところで勝つ事はできないと考えていたからだ。事実、これまでの戦いのほとんどは織田軍の完勝の連続で終わっている。
しかし、今回は負けた。
それも、完敗だ。
織田軍とて人間の軍勢。敗れる事はある。
それを、民衆にも認識させてしまったのだ。
……気合を入れなおす必要があるかもしれんの。
秀吉は内心で強く思った。
その後も朝、鮮水軍による妨害は続く。
物資を輸送する織田水軍を沈め続けた。
それだけではない。秀吉の懸念していた事態が起きてしまう。陸路の方でも一部の朝鮮民衆による決起が起きたのだ。郭再祐という朝鮮人を中心とする義勇兵である。
今でいうゲリラ戦を、彼らは展開する。
戦闘力そのものは大した事はなかったが、織田軍はこの地に慣れていない者が多かった。
それに対し、地形を熟知した地元の民が妨害してくるのだ。
追い払っても山中になど逃れてしまうし、織田に従順な村人に紛れてしまう事もできる。
なかなか決定打を与える事ができず、各地で織田軍は苦戦を強いられる事になる。そして、これが原因となり各戦線に物資が届かなくなってしまったのだ。
新釜山城。
かつて、この地には釜山の城があったが、織田軍との最初の戦闘の際に消失した。その消失した後に、新釜山城の築城を開始。
今では、日本風の天守や塀を築かれていた。
その新城の広間で、秀吉は織田信忠と対面していた。
漢城に到着し、各面に改めて指示を送った後、この釜山へと戻ってきていたのだ。これまでの経過報告を信忠に報告する。
無論、現状の大まかな戦況は信忠も知っている。
だが、小物の報告として聞く情報とこの遠征軍の総大将である秀吉からの報告ではやはり違うのだろう。
全てを聞き終えた後、信忠は言った。
「思いのほか、苦戦しておるようだのう」
信忠が言った。
「はっ……。申し訳ありません」
秀吉が平伏する。
今となって信忠は、秀吉を平伏させる事のできる唯一といってもいい人間である。
「よい、よい。そちのこれまでの功績を考えれば、このような些末な失態、取るに足らん」
信忠はふふ、と笑う。
その瞳に怒りの色は見えない。
「まあ、少しばかり順調に行きすぎたゆえな。そちにも油断があったのであろう」
朝鮮に渡海して以降、織田軍団は快進撃を続けてきた。
それが、はじめて反撃らしい反撃にあったのだ。
「確かに兵站を断たれるのは困る。だが、逆にいえば敵も兵站の妨害程度しかやる事がないのよ」
信忠は、朝鮮の絵図を広げる。
「今なお、朝鮮のほぼ全域は我が軍が制圧しておる。気にする事はない」
だが、と信忠は続ける。
「ケチな妨害とはいえ、少なからず影響が出ておる。全く煩わしい限りじゃ。物資の輸送が滞るようになったことで、良からぬ事を始めたものもいるようだしのう」
朝鮮水軍や義勇兵の妨害により各戦線に、織田軍は物資が届かなくなっていた。
武器弾薬はともかく、食糧は当然ながら毎日消費する必要がある。それも、数万もの軍勢が朝鮮半島に在住しているのだ。
これまでの備蓄など、すぐに食らい尽くしてしまう。
にも関わらず、届かない。ならば、どうすればいいか。
答えは簡単である。
地元の民から略奪するほかない。
しかし、強引な徴収を行った事による朝鮮の民の反感を買ってしまい、侵略者であるいう印象を強く与えてしまった。
これまで、既に記したように朝鮮の民たちが協力的だったのは李氏王朝への反発というものも大きかったからだ。だが、織田軍への反発がそれを上回ってしまえば、当然の事ながら民も敵になってしまう。
「そのようで」
それらの事情を知る秀吉が頷く。
だからといって、打てる手が少ないのも現実だ。
いかに、略奪をやめろといったところでこういった命令は末端までなかなか届かない。
長期的に見れば愚策でも、今現在の空腹とも兵士達は戦う必要があるのだ。
それに、今はまだ大半の将兵達が徴収しているのは兵糧だけですんでいたが、こんな事が続けば兵達の規律は緩む。
そうなれば、金品や技術者といった人を奪い取っている毛利や上杉の真似をするものも増えてくるかもしれない。
そうなれば、さらに朝鮮の民の心は離れ……と悪循環に陥る。
「要するに、物資が十分に届いておらんのが原因であろう」
信忠が言った。
「はい」
「現時点で、最大の障害となっているのは海路だ。このままでは、予も安心して名護屋に戻る事もできんしのう」
現時点、海路の安全が保障されているとは言い難い。
各地で、朝鮮水軍の妨害があり、安全といえる海路はかなり減じていたのである。
「ならば、その朝鮮水軍を殲滅してしまえばよい」
「殲滅、といいますと……」
「九鬼嘉隆に命じて、朝鮮水軍を破る策を練らせておる」
「さすがは上様……」
敗戦があれば、その敗因を分析し、それを取り除いた上で次の戦いで勝利する。それでこそ、戦国武将なのである。
そして、朝鮮水軍に惨敗した信忠はそれに怯む事なく反撃の機会を狙っていたのである。
「何、いずれ朝鮮水軍も義勇兵を自称する不埒者共も、予がまとめて叩きのめしてやる。そちの活躍にも期待しておるぞ」
「ははっ!」
秀吉はそう言って深く平伏した。




