41話 朝鮮戦線7
朝鮮半島――忠清道。
漢城のある、京畿道への侵攻を急いだ為、部分的に支配しているだけであり、大半が未征服状態のままとなっている地である。忠清道を、さらに南にいった全羅道に至ってはほとんどが無征服状態だ。
しかし、いつまでもそのまま未征服状態にしておくわけにはいかない。
そこで、秀吉は第九軍として渡海した上杉景勝の軍勢を忠清道攻略軍、第八軍として渡海している小早川隆景と吉川広家の軍勢を全羅道攻略にあてた。
が、その忠清道攻略にあてている上杉軍に問題が生じた。
「上杉殿っ! いったい、どういうおつもりだ!」
使者となったのは、秀吉家臣の増田長盛である。
「どうとは、どういう事かな? 増田殿。我々は、上様の命令に従い忠清道の攻略に励んでいるだけなのだが」
対応したのは、景勝側近の直江兼続である。
「上杉殿の部隊は乱取りをされているそうではないかっ!」
その景勝主従に畳み掛けるように言った。
「乱取りの類は、厳禁だと渡海前に上様からも通達があったはず。にも関わらず、貴殿らの軍勢はこの地で乱取りをされているそうではないかっ。しかも、貴殿達は取り締まっている様子もないっ!」
乱取りは、乱妨取りとも呼ばれる行為であり食糧や宝物の略奪行為の事を言う。食糧や宝物のみならず、人間ですら略奪の対象にすらなり得る。戦時において、人間の価値は著しく下がる。せいぜいが一ヶ月分の生活費程度の金額で、人間が売買されていた。
が、まともな報酬もなく得る物はほとんどないにも関わらず、領主達の命令によりやむなく参加させられている足軽達にとっては数少ない楽しみであり、上役達もこれらの行為を事実上黙認する事が多かった。
しかし、当然の事ながらこのような行為を行ってしまうとその後にその地を統治する難易度が跳ね上がる。
それゆえに、織田家は勢力拡張を辿るにつれ、これらの行為を禁ずるようにしていた。
特に、羽柴軍団にはこの傾向が強い。
だが、逆に戦国時代の匂いを未だに強く残している上杉軍はその限りではなかった。
それゆえに、上杉主従は長盛の言葉に失笑する。
「……何だ、そのような事か」
そして、ははは、と兼続は笑った。
「笑いごとではござらん! 一体、どういうおつもりなのか説明をしていただきたいっ!」
長盛の鼻息は荒い。
「場合によっては、上様にこの事を報告して厳罰をもって対処させていただくぞ」
「どういうおつもりなのか、と言われましてものう……。戦にこのような事はつきものではないか」
強い長盛の抗議を受け、兼続はむしろ、困惑の色さえ浮かべている。
当然と考えていた事にわざわざ抗議に来る長盛の方が兼続にとっては予想外の事だったのだ。
「……上様に、朝鮮に住む民は九州や奥羽の者達以上に習慣、言葉が異なる故に慎重に慰撫するようにと通達があったはずではないか。それを無視するというのか」
必至に、落ち着きを取り戻そうとしながら長盛は言う。
だが、兼続は手の平を左右に振り、煽るような様子だ。
「そうはいいましてもなあ。何分、我らも何かと物入りでな。こういうところで回収せねばなりますまい」
今回の大陸出兵で、諸大名に課せられた負担は決して軽くはない。
この出兵にけりがつけば、信忠からそれなりの褒賞も貰えるだろうが、それはいつの話になるのか未定だ。
「それが、軍神と名高き謙信公の跡を継がれた御家の態度なのか。これではまるで、山賊の如き行いではないかっ」
「これは異な事を。むしろ、これは謙信公の代からの伝統でござるよ」
ふふふ、と兼続は不敵に笑う。
「何分、戦には金がかかります。兵達の負担も並ではありませぬ。それならば、せっかく我らで切り取った土地。いくらか損失を補わねばなりますまい」
かつて、上杉謙信が関東に出兵した際にも大規模な略奪の類が行われてきた。
その時、北条から関東の城を上杉軍が占拠しても民が上杉家になつく事はなかなかなかった。
北条家が関東の民に慕われていた、という事情ももちろんある。
だが、それ以上に上杉家の苛烈な統治を嫌う者が多かったのだ。
「しかし、これは上杉軍のみの問題ではすまされませぬぞ。民たちに、織田軍全体への不信へとつながったらどう責任を取るつもりなのですか」
何せ、朝鮮の民にとって織田軍も上杉軍も区別がつかない。
同じ日本人――彼らの言葉を借りれば倭人――による、略奪行為に見られかねないのだ。
今、朝鮮の民衆は比較的協力的だ。
だが、ここで侵略者であるという事を強く印象付けるような行為を行えばその態度はいつまでも続かない。
立派な敵と認識されてしまう。
「今後、行為が改まらないようならばこの件は問題にさせていただく」
脅すような強い口調である。
長盛のその態度に、兼続も予想以上に長盛が憤っている事にようやく気付いた。
……やむをえん。折れてやるか。
そう考え、兼続は小さく一つ息を吐いた。
「……わかりました。今後は自重しましょう。それでよろしいですな?」
「……その言葉、信じさせていただくぞ」
強い口調で長盛は兼続を睨んだ。これ以上追及する事はなかったが、長盛は憤ったまま漢城へと帰っていった。
しかし、この抗議にあまり意味はなかったようであり上杉軍の暴挙はなかなか治まる事はなかった。
兼続が自重を促しても、末端にまではなかなか命令が行き届かなかったのだ。
慶尚道を担当していた毛利輝元、全羅道方面を担当していた、小早川隆景や吉川広家も同様である。
輝元らもまた、人が目的だった。
だが、彼は単なる労働力や娯楽目的に人を集めていたのではない。
日の本とは違う、独自の陶工技術を持つ職人が朝鮮にはいた。それらの技術を欲した輝元は、彼らをそのまま自領に連れ帰っていったのだった。
これらの行為は、朝鮮の民衆に不快感を植え付けしまい信忠の征明計画に大きなひびを入れる事になってしまうのだった。




