40話 信忠渡海
肥前――名護屋城。
この日、織田信忠の元に訴えが届いた。
訴えたのは、鬼武蔵こと森長可であり訴えられたのは奥州の若き大名・伊達政宗である。
両者ともに、この時点で名護屋城へと戻っていたのだ。
訴えの理由は、朝鮮半島で行われた弾琴台の戦いでの事だ。
あの戦いの際、政宗は先鋒――軍議での取り決めを無視しての事だったが――として敵陣へと突出した長可の軍勢を相手に、鉄砲隊による一斉射撃を仕掛けた。
これにより、森長可率いる部隊は甚大な被害を受ける羽目になった。
今回、長可が名護屋城に戻ったのは、この時の被害が少なくなかったからという理由も大きい。
「全く、長可め。面倒な事を……」
舌打ちでもしかねないほど、信忠の表情は苦い。
明らかに、不快そうな顔だ。
「いかがなさいます? 上様」
側近の斎藤利治が訊ねた。
「……政宗は罰せぬ」
信忠の答えが出るまでの時間は短かった。
「よろしいのですか?」
「構わぬ。そもそも、抜け駆けをしようとした長可にも非はあったようだしの。それに、政宗の力は予に必要じゃ」
この時点で諸将の間での政宗の評価は、そこまで高いものではなかった。
だが、それでも伊達家は長年奥州に君臨する名家だ。その当主とあっては利用価値は十分にある。明らかに政宗の方に非があるのならばともかく、今回はそうではない。
ならば、無理に罰する必要はない。
それが、信忠の出した結論だった。
「怒りませぬか? 森殿が」
「多少、不満は持つかもしれんが我慢してもらうほかるまい。あやつももう、30を過ぎる。多少の分別はついておるであろう」
「そうだとよろしいのですが……」
利治の言葉には、強い不安の色が滲んでいる。
鬼武蔵・森長可の苛烈な性格を考えれば、主君である信忠の決定といえども不満を持つかもしれない。
そんな思いが、利治にはあるのだろう。
「それよりも、予の渡海の話だ」
信忠が話題を転じた。
もはや、長可と政宗の揉め事などどうでもいいらしい。
「朝鮮の地では、既に都を陥落させて明にまで攻めいらんとする勢いだというではないか」
「はい。さすがは、上様の見込んだ羽柴殿ですな」
「だが、戦線が伸びると言う事は、それだけ予の命令が行き届かなくなる事を意味する」
海を隔てる、対馬や名護屋からではどうしても命令にタイムロスが生じる。
戦において、わずかであってもそれは致命的になる。
それも、これほどの大規模な戦となればなおさらだ。
「渡海しておる遠征軍の指揮を任してある秀吉も、我が織田家の筆頭家老だし並の才覚ではない。だが、秀吉に反感を持つ大名も少なくはなかろう」
「はい」
日輪の子、とも称され破格の出世街道を突っ走っている秀吉だが、それを妬む者も決して少なくはなかったのだ。
「それゆえ、予が自ら渡海する事によって、遠征軍を直接指揮してやろうと考えたのだ」
「それは、上様の考えが正しいと存じますが……」
「何だ。懸念があるというのであれば、申せ」
「海を渡るとなれば、それ相応の危険が伴います。それゆえ、できる事ならば上様にはこれまで通りにこの名護屋城で指揮を執っていただきたいかと……」
「何を申す、利治」
信忠の語調に凄みが帯びる。
「予の渡海に反対だというのか」
「そ、そのような事は。ただ織田家にとって、上様はなくてはならない御方。その上様に万一の事があっては、と思いまして……」
利治がしどろもどろになりながらも、反論する。
「余計な心配じゃ、利治」
「しかし……」
「今のところ、制海権は我が軍が握っているのであろう」
「は、はい。今なお、朝鮮水軍が妨害する様子はありませぬゆえ」
当初、釜山到達前に海上で一戦する必要があると織田軍首脳部は考えていた。
だが、織田軍の渡海を本気で信じていなかった朝鮮中央部はほとんど織田軍の渡海を妨害する事はなかった。
そのため、碌な戦闘もないままに、釜山――対馬の渡海が可能になったのだ。
「ならば問題は何もなかろう」
ですが、と利治が懸念を示す。
「ですが、朝鮮水軍は壊滅したわけではありませぬ。今後、慶尚道はほぼ制圧しているとはいえ、全羅道はほぼ未征服の状態です。朝鮮水軍が反攻に出ないとも限りませぬ」
しかし、信忠は動じなかった。
強い視線で、利治を見つめる。
「予が、朝鮮の水軍風情に討たれると思うか」
「い、いえ……」
「であろう。予は織田の当主ぞ」
自信に満ち溢れた、信忠の言葉である。
……やれやれ、すっかりと織田家の当主としての風格が身についておりますな。
ふう、と利治は嘆息する。
本能寺の変の際、信長の横死を聞いて取り乱していた御仁と同一人物とは思えない。
他者を寄せ付けない、圧倒的な風格がそこにあった。
「ではよいな。予は近いうちに渡海するゆえ、その準備を怠るな」
「はっ……」
利治は平伏する。
信忠の渡海ともなれば、護衛する為にそれなりの数の船が必要になる。
その手配にも時間がかかる。
……まあ、やるしかないか。
朝鮮の戦線にいくらかの不安を抱きながらも、利治はその準備に取り掛かった。




