3話 清州会議
尾張清州城。
今や、日本列島の半分を抑える大大名となった織田家の出世城ともいうべき城である。かつて、敵勢の10分の1とも言われる小勢でありながら今川の大軍を打ち破り、伝説となった桶狭間の戦いもこの城から出撃している。
その後、小牧、岐阜、安土と拠点を移したが相変わらず織田家にとって特別な城であることにはかわりない。
この城にこの日、織田家当主の信忠をはじめとする家臣達が集まっていた。
むろん、議題は信長直轄領と光秀の遺領分けだ。
家督自体は、既に信忠に譲られており何の問題もない。この尾張の地も家督相続と共に信忠に譲られていたのだ。
出席者は、まず織田家当主信忠。
それ以外には山崎の合戦で功のあった羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興。信忠と腹違いの弟である神戸信孝。
北陸に遠征しており、光秀討伐に遅れたものの織田家の筆頭家老である柴田勝家。
信忠と同腹の弟である、北畠信雄。
以上である。
会議は、無駄な混乱を避けるべく織田家の最高幹部ともいうべき者ばかりを集めて行われる事になったのだ。
なお、関東管領と共に上野を与えられていた滝川一益の姿はない。
もともと、織田家の序列では信長の子供である信忠や信雄を別にすれば柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益の5人が織田五大老とも呼ばれ、別格の扱いを受けていた。
だが、一益は信長の横死後に反旗を翻した北条によって上野の地を追われる羽目になっていた。
撤退という形で引き揚げた秀吉や勝家とは大きく違い、弁護の余地のない敗走である。それを重く見た信忠や他の重臣たちの意見により、この会議に彼の席は用意されなかったのである。
逆に、池田恒興は信長の乳兄弟ではあるが、他の面々と比べると格が低い。
だが、秀吉の強い推挙によってこの会議に参加していた。
信忠が全員を見渡した後、会議を始めた。
「皆の者、大義である。父上の仇である逆臣・明智光秀は討たれた。それも、皆の働きがあったからである」
その言葉に皆は、かしこまったかのように頭を下げた。
「まず、私は父上亡き後の安土城に入ろうと思う。異論はあるまいな」
名実ともに、信忠が当主となったのだ。
異論などあるはずがない。
秀吉や勝家も頷く。
「そして、私の後釜として岐阜城には神戸信孝、お前が入れ。美濃の相続も許す」
「――っ!」
信孝の顔に驚きが浮かぶ。
「し、しかし兄上、四国の方は……」
信孝としても、織田家にとって重要な地である美濃岐阜城を任せられたことは嬉しい。だが、それ以前に彼は四国方面軍の総大将でもある。
いや総大将であった、というべきかもしれない。
彼の指揮するための四国方面軍は、本能寺の変の後に軍勢の大半が逃亡し、事実上消滅していたのだから。
「お前には美濃の守りを任せる。四国は別のもの任せる」
信忠は言った。
その瞳は冷たい。
光秀討伐では、名目上の総大将を務めたとはいえ、信忠の信孝に対する評価は低い。単に信孝の力量を認めていないというだけでなく、理由はほかにもあった。
信孝は、本能寺の変の直後に信忠の従兄弟にあたる津田信澄を討ち取っていたのだ。
光秀の内通疑惑がその理由であったが、その真偽は定かではない。
信澄はかつて、信長に背いた織田信行の嫡男。そして、明智光秀の娘婿にもあたる存在であり疑わしかった事に間違いなかったが、それでも従兄弟に当たる相手を独断で処断した信孝に好印象を持てなかった。
「別のものとは……」
自分に悪意を向けられていると悟った信孝は、恐る恐るといった様子で尋ねた。
「その事は後で話す。それよりも次にうつる」
ここで、視線が腹違いの弟・信孝から同腹の弟・信雄へと変わる。
信孝とや他の家臣とは微妙に違い、親愛の色が瞳に浮かんでいる。
「信雄、お前はこの清州城と共に尾張を与える。励めよ」
信孝と違い、信雄は光秀討伐に大した功績をあげていない。
平定したばかりの伊賀に一揆の兆しありとして、なかなか腰をあげようとはしなかった。最終的には信忠の軍勢と合流して明智軍の残党狩りには協力したものの、山崎の戦いに参加した信孝と比べると見劣りするのは否めない。
にも関わらず尾張一国の加増である。
かすかに不満そうな顔をするものもいるが、当主の決定であり、加増を受けるのは当主の実弟だ。
反論などできようはずがない。
ましてや、信雄は亡き信長のお気に入りの子であり、信忠にとっても寵愛する弟であったのだ。
「続いて秀吉、そなたには功績を考え光秀の旧領である丹波一国を加増する」
「はっ……」
秀吉もかしこまって平伏する。
今回の騒動での一連の功労者はこの秀吉だ。
ある意味当然ともいえる加増である。
「それとな、秀吉。もう一つ褒賞を与えよう」
「何でございましょうか?」
「これから、そなたには西国の管理を任そうと思う。毛利や四国の大名はもちろん、九州の大名との取次を任す」
中国方面軍から、事実上の西国方面軍への昇格といってもいい。
「……!?」
その言葉に秀吉は驚いたように目を見開く。
が、しばらくして頷いた。
「よろしいのでございますか?」
「うむ。これも褒美のうちだ」
「ははっ。ありがたき幸せに……」
秀吉にはもちろん不満はなかったが。
かしこまって平伏する。
が、逆に今の言葉に不安を覚えたものが一人いる。
「あの、兄上。西国の管理ということは四国も……」
信忠と腹違いの弟である信孝である。
「人の話を聞いておらなんだのか? さっきも言ったであろう。四国も秀吉に任せるに決まっておる」
「――っ!」
信孝の顔に衝撃が走る。
事実上の信孝の四国方面軍司令官の解任だ。
だが、信忠としては美濃と岐阜城を与えるのだから光秀討伐の恩賞としてはそれで良いと考えていた。
何か反論の言葉を言うべく口を開きかけた信孝を無視するように言うと、次の議題へとうつってしまった。
「続いては、滝川一益だ」
「滝川殿ですか……」
皆が、複雑そうな顔を浮かべる。
すでに述べたようにこの場に、滝川一益はいない。
「一益には、伊勢領内の旧領を安堵する。それでよかろう」
一益は結果だけ見れば、関東への橋頭保を失い逃げ帰ってきただけだ。
とはいえ、内部には織田への怨みを持つ武田の旧臣、外部には織田への不満を募らせる北条と、一益は極めて難しい状況にいたのも事実だ。
その点は信忠も考慮していた。
それゆえの、措置でもある。
「それで、その北条ですが……」
信雄が遠慮がちに訊ねた。
「北条か……」
信忠もその名を聞いて顔をしかめた。
北条家も武田家を壊滅させた織田家に勝てるとは思っておらず、織田政権への緩やかな従属を考えていた。
もともと、北条家は天下を望まず関東一円の支配を望んでいた。
織田政権家であっても、関東を支配できるのであればそれでいいと考えていた。
だが、武田征伐の際、北条には大した恩賞も与えず、武田の旧領のほとんどを織田家で独占した。さらには、関東管領に滝川一益を任命した。
これは、北条家の関東支配を否定するのに等しかった。
それでも、強大な織田家の前に不満を言う事はできなかった。
が、本能寺の変でそれも変わった。
当主・信長の死により織田領国の乱れが予想された。
事実、甲斐を任されていた川尻秀隆は、武田旧臣によって討ち取られ、信濃を任されていた森長可や毛利秀頼は武田旧臣の決起を恐れ、美濃や尾張に逃げ帰っていた。
織田家の凋落を予見した北条は、織田家と袂を分かつ事を決断。
前述の通り神流川の戦いにおいて、関東を任されていた滝川軍を一蹴。
関東から織田勢力を一掃した。
「当然、放任はできん」
信忠は厳しい表情で告げる。
「いずれ、北条征伐のため大動員をかけるつもりでいる。かつての武田征伐の時以上の規模で行う。そのつもりで各々準備を怠るな」
「はっ、その北条なのですが。今は上野だけでなく信濃や甲斐にまで出兵しているようなのですが……」
上野から織田勢力を放逐した北条家も、この好機に上野一国だけで満足するようなお人よしの集まりではない。空白地帯となった甲斐や信濃にも手を逃し始める。
北条にだけいい思いをさせぬと考えた存在がいた。
越後の上杉である。
柴田勝家の脅威を退けた上杉が信濃や甲斐に介入をはじめたのである。
それらの軍勢を退けるべく、徳川は光秀討伐の軍勢を甲信へと向けると申し出ていた。というより、既にその先鋒は甲斐へと向かっていた。
「その甲信を死守するべく、徳川殿が出兵すると申し出がありますが……」
信雄の言葉に、信忠は満足げに頷いた。
「であれば、問題なかろう。精悍で知られる徳川軍が北条や上杉を追い払ってくれるというのだ」
「しかし、追い払った後はいかがなさいます? 甲信の返上を徳川殿に迫るのですか?」
秀吉の言葉に、信忠は首を横に振った。
「甲信は、我が不甲斐なき家臣共によって失われた。その地を徳川殿が守ってくれるというのであれば、徳川殿がそのまま治めたところで何の問題があろうか」
信忠の強い意見である。
「しかし、よろしいのですか? そうなると徳川殿の力が大きくなりすぎますが……」
もし仮に、徳川が甲斐と信濃を版図に加えれば100万石を優に超え、全盛期の今川や武田をも上回る巨大勢力になる。
その事を憂慮しての発言である。
「徳川殿は同盟国。何を心配する必要があるというのだ」
信忠はははは、と軽く笑った。
信忠は徳川家康を深く信頼していた。20年にも及ぶ同盟関係を死守して彼の事を高く評価してだ。
清州同盟成立後、大国・今川や武田の防波堤としての役割を徳川は長い間つとめてくれた。
武田信玄の大規模侵攻の時なども、ろくに援軍を送らなかった織田を見限り武田についたところで誰も文句を言えないであろう時でも信長との同盟を重視していた。
が、同時に生前の信長が言っている事を信忠は気にしていた。
――家康という男は、一度決めた主と決めた相手には義理を欠かさん忠義者よ。だが、その子にまで仕えるようなお人よしではない。
かつて、家康が松平元康と名乗り、今川の属将だった頃の主君は当時東海一の弓取りと恐れられた名将・今川義元。当時の義元は信長を脅かす巨人であり、家康が仕えるに値する主君だった。
だが、その義元が桶狭間で散った後、その子である今川氏真に父ほどの力量はないと見限り、独立した。
今回の場合も、信長の死後まで信忠を立ててくれるとは限らない。
そう考えていた。
そのため、甲信の切り取りを認めたのは徳川家を繋ぎ止めるべく恩を売ろうという懐柔策でもあった。
……徳川殿。私は徳川家の働きに十分に報いる準備がある。徳川家もそれに相応しいだけの働きを期待するぞ。
このような流れで、清州会議は締め切られた。
信長の行っていた政務の大半は、信忠が引き継ぎ、信忠がこれまでに行っていた政務は北畠信雄と神戸信孝がそれぞれ織田姓に復した上で、引き継ぐ。
甲信が落ち着き次第、関東征伐を行う故、関東に近い大名はいつでも動員令に答えられるように準備を怠らない事。
和議を結んだ毛利、上杉も場合によっては討伐対象とするためこちらも警戒を怠らないようにする事。
以上の事が決められた。
また、安土に代わる新たな本拠を大坂にうつそうと信忠は考えていた。
元々、10年にも及んだ本願寺との戦争の原因となったのは大坂の地を信長が欲したからだ。
大坂は交易に適しているし、地理的にも攻めるに難く、守るに易い。
経済都市堺にも近く、京の都からもさして離れていない。まさに、天下の中心に相応しい場所だ。
その地に安土城にも勝る巨大な城を築く気でいた。
……父上、私は貴方を超えてみせる。
諸将が退室し、急に広くなったように感じさせる広間の中で信忠はそう誓った。