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乖離戦国伝  作者: 藍上男
第1部 天下人の誕生
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29話 新旧交代

 三河吉田城。

 東三河の要であり、徳川家康の重臣・酒井忠次の守る城である。

 桶狭間の戦いで今川義元が横死した後に独立した家康が今川氏真の軍勢と戦い、奪い取った城だ。この吉田城を攻略して以降、家康の名声も急激に高まり三河国主としての地位を高めていくことになった。


 そして、その城に重臣中の重臣であり忠次を入れ、守りを固めた。以降、この城は徳川にとっての重要拠点として多くの戦いを凌いできた。

 家康が遠江に進出するようになり、岡崎城から浜松城に拠点を移すようになって以降も、岡崎城と浜松城を繋ぐ重要な居城とあり続けた。

 武田信玄の西上作戦の際にも、三河に侵攻してきた武田軍から守り切っている。


 その城を長らく守り続けた、酒井忠次が主君である徳川家康と対峙している。


「……そうか。では、隠居するというのか」


「……はっ。御屋形様には、長らくお世話になりましたが。この老体では、そろそろ限界が近いかと」


 忠次が平伏する。


「お主の跡を継ぐのは確か」


「は、家次でございます」


「うむ。家次にも、お主のような活躍を期待させてもらうぞ」


「某のような、ですか。それはまた随分と高い期待を」


 ふふ、と忠次が笑う。


「言うのう」


 家康も笑い返した。


「それにしても、よりにもよって今の時期に隠居とはのう」


「今しか、言い出す機会はない気がしましたゆえ」


 忠次が言う。


「もうすぐ、朝鮮に出兵する準備で御屋形様も忙しくなりましょう。そうなってからでは遅いと考えまして」


「確かにのう」


 家康がふふ、と笑い、


「東国である、我らに対する軍役は軽い。おそらく、渡海する可能性も低いであろうし、渡海するにしてもかなり後になってからであろう」


 とはいえ、と家康が続ける。


「我らからも、船を造る為の資材や朝鮮に送るための兵糧の提出を求められておる。その負担は決して軽くはない」


「大変ですな」


「他人事のように言うのう」


「いえ、そのような事はありませんぞ。隠居しても、某は徳川の臣のつもりですからな」


「そうか」


 家康は頷く。


「それにしても――」


 一息ついてから、忠次は続ける。


「大陸への出兵ですか。今川の属将として、四苦八苦していた時期からは考えられませんな」


 ふふ、と忠次が笑う。


「あの頃、か。今川時代の同輩達も多くがこの世を去ってしまった」


「岡部殿も亡くなってしまいましたからな」


 ぼそり、と忠次が言う。

 武田旧臣の、岡部正綱もこの時点で既にこの世を去っていた。

 正綱は、武田旧臣であると同時に今川旧臣でもあった。かつて、信玄が今川との盟約を破って駿河に侵攻した際。すなわち、第一次駿河侵攻により駿府を武田軍は奪い、その駿府を一度は奪い返したのが正綱だった。結局、再度の侵攻の前に駿府は武田の手に落ちたものの、信玄は正綱の手腕を高く評価し、厚遇した。武田家崩壊後に、登用した家康も彼を厚遇して武田旧臣の慰撫に当たらせていた。

 だが、その正綱も亡くなってしまったのだ。


「うむ。今川時代からの儂を知る者がまた一人いなくなってしもうた」


 家康も悲痛な表情を浮かべる。


「儂も歳なのかのう、忠次」


「ご冗談を。御屋形様はまだまだ壮健に見えますぞ」


 ふふ、と忠次が笑った。


「そう見えるか、健康には気をつかっておるからのう」


 家康の年齢も、もうすぐ50に届こうとしている。

 人生50年といわれたこの時代、老齢といってもいい領域に達しようとしていた。

 だが、その強靭な家康の肉体は30代といっても通用するであろう若々しさがある。


 家康は自ら薬を調合するほど医学に対して深い知識を持っていた。

 それもまた、家康の若さにあふれた肉体を保つのに一躍買っていたのかもしれない。


「それに対し、某は老いました」


 自嘲するように、忠次は言う。

 すでに、彼の髪も髭も白いものが多く混じっているのが分かる。皺も、数年前と比べると増えている。

 この時、忠次は61歳である。

 だが、苦労の多い人生だったせいか年齢以上に老けて感じられる。


「これから、若いもの達に後を託そうと考えております」


「そうか。 ……それは寂しくなるのう」


 家康も、かすかに悲痛な色を瞳に浮かべる。


「ま、暗い話はこの辺にして今日は飲み明かすとしよう。昔の事などを話して、な」


「はっ。すぐに酒の用意をさせます。他にも、何か呼びましょうか?」


「いや、良い。明日からはまた忙しくなるゆえ、今日は二人きりで昔話でもしたいと

思うてな」


 ふふ、と家康が小さく笑う。


 やがて、酒が用意され、二人だけでささやかな宴会が開かれた。

 この晩、織田や今川の人質だった頃の話、桶狭間、三方ヶ原、長篠といった数々の戦話や思い出話に花を咲かせ、家康も吉田城で夜を明かした。






 翌朝、吉田城を経とうとすると城門のところで、一人の若い男が待っていた。

 家康の股肱の臣である、本多正信の子である本多正純だ。

 この時、23歳とまだ若いが既に家康の寵愛を受けていた。


「正純か」


「はっ、御屋形様がそろそろ帰られるころだと聞きましたゆえ、一足先に迎えに来ておりました」


「待っておれば良かったのに」


 家康は、思わず苦笑する。


「いえ、某が一人で安穏と御屋形様の帰りを待っているなどできませぬ」


 見ると、駕籠の用意がされており、その担い手たちまでがいた。


「帰りの駕籠を用意いたしました」


「……用意がいいのう」


 駕籠の用意など、家康は頼んでおらず正純の行為は必要以上の追随ととられかねない。

 だが、家康は不快に思った様子もなく苦笑いを浮かべた。


「しかし、正純」


 駕籠に頼らずともよい、と言おうとして口をつぐんだ。


「……いや、よいわ」


 だが、ここはこの忠臣の気を利かせた行為にありがたく従うとした。

 片足をあげ、ゆっくりと駕籠に入る。


 家康の入った駕籠が、ゆっくりと持ち上げられる。


「ところで正純」


 駕籠の中から、家康が聞いた。


「はい。何か……」


 駕籠の外から、正純が答える。


「関東の統治は順調のようじゃな」


「はっ、大久保長安殿や伊奈忠次殿らが関東代官としてうまく差配しておりますゆえ」


「うむ」


 家康も、それは知っていた。

 黙って頷いた。


 そんな中、家康の駕籠が進み始める。

 正純の方は、馬に乗っての移動となる。


「正純」


「はっ」


 さして離れていない距離の為、駕籠の中からの声であっても、馬の上にいる正純に届いた。


「儂はな。いずれ……」


 一呼吸おいてから、家康は話す。


「江戸に本拠を移そうと考えておる」


「江戸に、ですか……」


 正純の声には、驚きの色が混じっている。


「関東であれば、小田原も鎌倉もあるというのにあえて江戸に……」


「うむ。お主の父がいっておった。江戸の町は、整備すれば日の本位置の大都市に発展するとな」


「父上が……」


 初耳だったらしく、先ほどよりも強い驚きの色が正純の声にはある。


「そのために駿府にいる長松(秀忠)も、今のうちに江戸に移すべきかと考えておってな」


「しかし、長松(ぎみ)はまだ10にも満たないのですし、早すぎるのでは……」


「こういった事はな、早い方がいいのよ」


 ふふ、と家康は笑う。


「後継者として、自覚を持たしたいという思いもあるし、江戸の街の発展と共にあ奴も成長してほしいという親心よ」


「後継者として、ですか……」


 正純は再び驚いた様子だった。

 家康は、これまで後継者に関して明言した事はほとんどない。

 だが、それをこの正純の前ではっきりと口にした。


「ということは……いえ、失礼しました」


 ここで、言いかけた言葉を正純は引っ込めた。


 ……全く。気を使わんでもよいというのに。


 家康は思わず苦笑する。

 遠慮抜きに話をする、間柄である正純の父の正信と違い、正純の方は主君である家康に対してこういったところでの遠慮があった。

 単なるおべっか係ならばともかく、側近として長らく傍に置きたいと考えている家康にとってその点は不満だった。


 ……まあ、時間を掛ければ慣れるか。


 駕籠が揺れ始める。

 遅くまで忠次と語り合ったせいか、家康はあまり睡眠をとっていなかった。


 瞼が異様に重い。

 まだ明け方だというのに、睡魔が襲ってくる。


 ……いかんな。適正な就寝時間と起床時間こそが、長生きの基本だというのに。


 さらに、駕籠が揺れる。

 正純の選んだ担い手達の腕がいいのか、決して乱雑な揺れ方ではない。駕籠の中にいる家康にも安心感を与える揺れ方だった。


 ……それにしても、


 おそらく、正純の言いかけたであろう事。

 それは、長松の異母兄にあたる秀康の事を言っていたのだろう。

 本来であれば、長兄である信康が死んだ時点で後継者候補の筆頭は次兄であるはずの秀康のはずだ。

 だが、家康は秀康ではなく長松の方を後継者にと考えていた。


 ……まあ、正信は秀康の事を買っておるようじゃがのう。


 そんな事を考えながら、家康の意識はゆっくりと夢の世界へと連れ去られた。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 重臣中の重臣であり忠次を入れ、守りを固めた。 は 重臣中の重臣である忠次を入れ、守りを固めた。 の方が自然だと思いました。
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