2話 三日天下
安土城。
天下人に王手をかけた、覇王・織田信長の築いた城であり城域は1キロ、五層六階地下一階の巨城だ。信長は、この城のみならず、近江一帯には織田軍を支える有力な諸将が配置している。佐和山城の丹羽長秀、長浜城の羽柴秀吉、坂本城の明智光秀といった具合だ。
いわば、近江は織田軍団の本拠といえた。
だが、長秀は信孝と共に四国征伐に行くべく大坂におり、秀吉は毛利軍と対峙するべく高松城を水攻めにしているため、城主である長秀も秀吉も不在だ。佐和山城にも長浜城にも多少の留守兵は残っているが数は多くない。
そして、坂本城の明智光秀は、主である信長へと反逆しており当然ここも危険地帯となる。
もはや、近江一帯は安全地帯とはいえなくなっていたのである。
さらに、信忠を窮地に追いやる情報が入る。
かつての若狭武田家当主・武田元明、そしてかつて北近江の守護職にあった京極家の京極高次らが光秀へ組する事を承諾。
さっそく、羽柴秀吉の長浜城を攻撃。
瞬く間に占拠してしまった。
さらに、明智秀満の軍勢が佐和山城も占拠。
佐和山城は、東山道を守る要所だ。この城を奪われてしまった以上、第二の拠点ともいうべき美濃へ逃れる事も難しくなった。
安土城で、軍議が開かれるがその空気は重い。
命がけで、安土城に帰還した信忠だが安堵したのは束の間だった。
必死に兵を集めている間に、周り一帯が明智軍に侵食されてしまったのだ。この安土城も安全圏とは言い難い。
「……これ以上は集まらんのか」
苛立ったように信忠が言う。
現在、安土城にいる兵は決して多くはない。
安土城にいた留守兵、さらには長浜城や佐和山城からの逃亡兵、信忠と共にあった軍勢、金剛の軍勢を含めても5000ほどだ。
城攻めには三倍の人数が必要とされるが、光秀は現状でその3倍を集める事が不可能ではない。
そうなった場合、既に佐和山城を落されて美濃への退路を断たれている安土城は窮地に陥るのだ。
「はっ、申し訳ありませぬ」
恐縮した様子で答えるのは織田信益だ。
信長の親族であり、安土城の留守を預かっていた人物だ。
だが、信益に文句を言ったところでどうする事もできない。
「……」
信忠としてもそれを理解しているらしく、それ以上の不満を口にはせずに黙り込んだ。
「――上様」
その信忠に、秀国が声をかける。
「?」
一瞬、誰の事か分からない様子ではあったが、すぐに自分の事だと気づいたようだ。
「ひ、秀国……?」
「上様、いかがなされました?」
狼狽した様子の信忠に秀国は返す。
本来、この呼称は信長をさしていた。
が、その信長は既にない。
「い、いや何でもない。それで、何だ?」
信忠もわずかな躊躇したが、この呼称を受け入れる事にしたようだ。
それを、信忠に取り入っているようにみえた為か、傍らに控えていた利治は不快そうな目で秀国を見ていた。
「それで、上様。ここは信雄様に後詰に来ていただくのはどうでしょうか?」
「信雄か……」
北畠信雄は、信長の次男であり信忠の同腹の弟だ。
信長も、数多くいる兄弟の中で最も寵愛していた男だ。信忠も折り合いの悪い腹違いの弟・神戸信孝とは対照的に仲の良い弟だ。
が、武将としての器量という点には疑問符のつく人物だ。
3年前、信長に無断で伊賀に侵攻して多大な犠牲を出している。
この緊急時にどれだけ役に立つのか、信忠も疑問なのだ。
「ですが、この事態で即座に頼れる味方となると……」
「他にはいないな」
北近江一帯が、明智軍に制圧されている現状では越前以北の北陸方面軍の柴田勝家らは期待できない。
しかも、勝家は上杉軍と対峙している状態なのだ。
大和の筒井順慶は親光秀の大名だ。
今は日和見を決め込んでいるが、敵となって襲いかかってくる可能性すらある。
となれば、距離的に最も頼れるのは伊勢の信雄ということになる。
信雄に安土に来るように、信忠は早馬を送った。
同時に、信忠の領国である美濃や尾張にも動員令を出すように指示を出した。
そんな中でさらなる悲報も届く。
安土城への帰還かなわなかった者たちの情報も届き始めたのだ。
大物では、信長の弟・織田長利、五男・織田勝長、京都所司代村井貞勝・貞長親子などだ。さらには、かつて桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った毛利良勝なども逝った。
だが悪い知らせばかりではない。
織田長益、前田玄以、山内康豊、らといった生存者も確認されていく。信忠の嫡子・三法師の生存も確認された。
そんな中、信じがたい情報が飛び込んでくる。
――羽柴秀吉、備中高松城より毛利と和議を結んで撤退。現在は姫路城に帰還。
即座に、その情報は信じられなかった。
「明智方の流した偽情報では……」
信忠家臣の誰かが言う。
この時期、真偽の混じった情報が錯綜しておりそれが本当なのか即座にわからなかったのだ。
しかも、安土城はまだ包囲こそされていないものの事実上の籠城中であり人の出入りも制限されていた。
「しかし、こんな情報を流したところで明智の益にはならん。むしろ逆ではないか」
「だが、本当にありえるのか? 備中からの距離を考えてみろ」
そんな中、さらに新情報が入ってくる。
――羽柴秀吉、大坂の神戸信孝、丹羽長秀らと合流。
――明智光秀、それを迎撃するべく西進。
――羽柴秀吉、神戸信孝らの軍勢3万が明智光秀の1万3000が山崎にて激突。光秀、敗走する。
「これは本当なのか……」
再び、安土城の広間は騒ぎになる。
「しかし、明智軍の安土城の包囲はいつになっても行われませぬ。この城に上様がいる事は分かっているはずなのに、です。そのような余裕がないだけの事態に陥っているとしか思えませぬな」
秀国が言った。
しばらく警戒態勢が続いたが、羽柴秀吉と神戸信孝の使者により、ようやくその情報が事実だとわかった。
さらなる情報も入る。
光秀は、逃亡の際に落ち武者狩りの一撃を受けて重傷を負い、そのまま亡くなったようだった。
光秀の死と、明智軍本隊の崩壊を知った近江の明智軍は混乱状態に陥り、合流した信雄らの軍勢と共に近江の城の奪還にうつる。
すでに、明智軍に戦意はなく、逃亡兵も続出した。
まともな戦闘もほとんどないまま、近江や京の明智軍の残党狩りは終了。
明智光秀の天下は半月にも満たずに終わったのである。