24話 九州征伐1
四国征伐を完了し、長宗我部を下した織田信忠は、次なる標的に九州に目を向けた。
かつての九州の覇者・大友宗麟の勢いは、完全に失墜している。
もはや織田の傘下になって、豊後一国でも保てればいいと考えていた。
それほど、この時期の島津の勢力拡大は凄まじかったのだ。
天正12(1584)年に行われた沖田畷の戦いにおいては、肥前の熊と恐れられた九州三傑の一人である龍造寺隆信を討ち取っている。
桶狭間の戦いのような例外を除けば、数十万石、百数十万石の大大名の討死など通常はありえない。そのありえない事が起きてしまった。
しかも、木下昌直、円城寺信胤、百武賢兼ら龍造寺家の中軸を担う重鎮達が多く討死してしまい、龍造寺家そのものが大きく傾く事になった。
これで、大友家弱体後は九州統一において最大の障害と思われた龍造寺家もまた凋落の一途をたどる事になる。
これにより、島津は本格的に九州統一を決断。大友領を完全に併呑するべく、北上を開始した。
無論、大友も放置するわけにはいかない。全力で迎え撃つ気でいた。
だが、島津の勢いを見た大友領内の国人衆達も大友を見限り始めた。戦う事すらないまま、城を明け渡す者も続出する。
大友は、島津とまともに戦闘する事すらないままに、領土の大半を侵食されていったのだ。
だが、大友宗麟もまた一時は九州の覇者にまでなった戦国の英傑である。そして、彼がそれほどの権勢を築けたのは軍事的な才能よりも外交面での才能によるものが大きかった。
そして、今回もそれを活かした。
この窮地を脱するべく、大友宗麟は織田信忠に援軍を求めたのだ。
そんな島津の勢力拡大は、織田にとっても望ましくない。
四国の問題が片付いた事もあり、信忠も出兵を決断する。
大軍を率いて一気に九州を制圧しようとの目論見だった。
これが、天正14(1586)年の事である。
総大将――織田信忠率いる直属軍5万。
信忠と同腹の弟である織田信雄率いる2万。
腹違いの弟である織田信孝率いる1万。
羽柴秀吉率いる蜂須賀正勝、黒田孝高といった羽柴軍団4万。
毛利輝元を総大将に小早川隆景や吉川広家ら毛利一族率いる3万。
徳川家康率いる徳川軍1万。
柴田勝家率いる北陸勢1万5000。
滝川一益率いる1万。
下ったばかりの長宗我部軍5000。
上杉景勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、といった東国の大名達も連れてきた数こそ少ないものの、当主自らが兵を率いてきている。
援軍を求めた大友の軍勢を合わせれば20万にすら届く兵力になる。
ちなみに、遠方の地に領国を持つ徳川家や上杉家といった東国勢は比較的軽い軍役となっている。
その20万の軍勢を養うための膨大な兵糧が必要だ。
その兵站の維持は丹羽長秀の家臣の、長束正家が担当する事になった。
だが、彼の主君である丹羽長秀はこの九州の戦場にはいなかった。大坂城を普請奉行としてほぼ完成させた直後に、長秀は病に倒れており戦場に出れるような体ではなかったのだ。
兵を率いてきているのも、彼の子である丹羽長重である。
だが、それすら些細な事であるかのように信忠の九州征伐は順調に進んだ。
この圧倒的な物量作戦を前に、一時は豊前・豊後にまで駒を進めていた島津の戦線は大きく後退する事になる。
そして、遂には本国の薩摩の間近にまで織田の大軍が迫り、島津は降伏する道を選ぶ事になった。
島津が下ると決まった直後、島津家中は荒れに荒れた。
その筆頭格が島津家当主・島津義久の弟である島津歳久であった。
「兄上、いや御当主っ! 我らは、我ら島津は、古来よりこの地の守護として君臨してきた名家であろう。それが何故、成り上がり者の織田になど屈さねばならぬっ!」
本来は、兄とはいえ当主である義久を相手にする時はもっと丁重な口調で話している。
だが、この日は違っていた。
顔を赤に染め、場合によっては兄といえども首を落とすと言わんばかりの凄まじい表情だ。
その歳久に怒鳴り散らされても、義久は平静を保っていた。
「我らは織田に屈したのだ」
冷静な声で島津義久が言う。
「だから何故じゃっ! 我らはまだ十分に戦える」
「戦えんのよ。もう」
義久がどこか遠くを見たかのような目で話を続ける。
「お前も、見たであろう。20万を超える織田の軍勢を」
「数ならば問題はない。大友や龍造寺の大軍を、我らは何度も破ってきているではないかっ」
最も代表的な例が、沖田畷の戦いだった。
あの戦いで、龍造寺家当主の隆信を討ち取り、龍造寺家凋落のきっかけとなっていた。
「奴らは大友や龍造寺とは違う」
義久が黙って首を横に振った。
「何が違うというのだっ!」
「考えてみよ。毛利や長宗我部はともかく、信忠は大坂。信雄や信孝は美濃や尾張。徳川や上杉は三河や越後。伊達や最上に至っては米沢や山形から兵を出しているのだぞ」
「それが何だっ!」
「分からんか? これだけの兵が未だに養い続ける事ができる兵站能力よ」
義久が言った。
「我らとは、比べ物にならんのよ」
織田とは対照的に、島津の兵糧は逼迫していた。
九州の南端部から出兵してきている、島津の兵站は伸びきっていた。
しかも、島津も一時は九州のほぼ全域を制圧したとはいえ、それはあくまで瞬間最大風速のようなもの。短期間で制圧した土地の国人や民達は、島津になついているとは言い難く、支配した日が浅い領地は安定していない。
織田も、そこに目をつけて国人衆に島津を見限るよう調略を仕掛けていた。
「では、兄者は織田に膝をつくと……」
「そうじゃ。このまま続けては、島津の名自体が歴史から消えかねん。我ら島津家はお前もいったように、鎌倉の世から続く九州の名家だ。潰すわけにはいかん。これは、島津家当主としての決定だ。異を挟む事は、弟といえども許さん」
島津家16代目当主・義久の発言である。
その言葉には重みがある。
それを見て、義久の決意が固いと悟った歳久は、島津義弘・家久ら他の兄弟に目を向けた。
「義弘兄者も、家久もこれでよいのかっ」
「……」
家久は無言だ。
「こうなった以上、やむをえまい。今の我らの力では、織田を追い返す事は不可能だ」
義弘の方は窘めるように言った。
「まだ島津に力は残っておるっ! 何故、屈する必要があるっ」
「逆だ。まだ力が残っておるからこそ、屈する事ができるのよ。四国の長宗我部は余力を残して降伏したからこそ土佐一国を安堵された。逆に、関東の北条は最後まで戦い抜いたからこそ、完膚なきまでに叩きのめされた。それとも、歳久は島津を完全に滅ぼしたいのか。あるいは、この状況から織田を追い返す策があるというのか。そうであれば、是非とも聞きたい」
義弘の答えに、歳久は返事に窮した。
「……だが、これまで切り取った領国のほとんどを没収されるのであろう。そんな小勢力になり、織田の走狗と成り下がるのをよしとするのか」
「うむ。安堵されるのは薩摩と大隅、それに日向の諸県郡のみとなるらしい」
義久が言った。
それを聞き、なおも言い募ろうとした家久を抑えて義弘が言う。
「下る事といっても、悪い事ばかりではあるまい。逆に織田から領国経営、兵站を管理する術や、築城技術などを学べばいい。そして、織田家中で武功を重ねていずれは全盛期の力を取り戻せばよかろう」
「……」
義弘の反論に、歳久も先ほどまでの勢いがなくなっている。
しばらくの沈黙の後、「しかし」と小さく唇を動かした。
「これだけではあまりにも利が少ない。多大な費用をかけて、遠征を続けての結末がこれだというのか」
幾分か冷静さを取り戻したようであり、怒りの色は消えかけていた。だが、怒りの変わりに強い失意の色が浮かんでいる。
「うむ。それゆえ、信忠に嘆願した。何か、他に見返りが欲しいと。そうしたら、琉球を島津の与力と扱う事を認めるとの事だった」
義久が言った。
「琉球……」
歳久はつぶやくように言った。
琉球王国は現状、れっきとした独立国であり島津に従属しているわけではない。
完全に琉球を蚊帳の外に置いて決めた事だった。
「それで満足せいというのか」
その口調には強い不満の色が浮かんでいた。
「するほかあるまい。これからは、織田の後ろ盾を得て堂々と琉球に出兵できるわけだし利がないわけではない」
「それで、兄者はすぐにでも琉球に兵を出す気か?」
義弘が聞いた。
「すぐには無理じゃ。兵達の消耗が激しいし、領国の田畑も荒れ果てていよう。立て直すのにはもう少し時間がいる。それに」
「それに?」
「明を征伐するため朝鮮に出兵する。それゆえに、我ら島津も兵を出す必要がある故、そちらが優先じゃな」
「明征伐じゃとっ!?」
歳久は驚いたように怒鳴った。
「何じゃ? 聞いておらんのか?」
「聞いておらん。どういう事じゃ!」
「織田は、明に攻め入るのよ。手始めとなるのは、朝鮮半島となるがな」
「……」
歳久が驚きに目を見開いた。
すぐには言葉が出てこないらしい。
「当面はそちらに専念する必要がある。」
「御当主……それでよいのか」
そんな歳久の肩にぽん、と義久は手を置き、
「義弘も言っておったが、これからは屈辱的に感じるとしても織田の忠実な犬として働く他ない。だがのう、我ら島津は断じてただの犬にはならん。主人から多くの事を学び、吸収していずれは織田を食い殺すほどの力をつければよい」
よいな、と義久は告げる。
そんな義久に歳久は返す言葉がなかった。
「ああ、言い忘れておったが。儂は出家する事にした。織田に殊勝なところを示す必要があるしのう」
そう言って義久は小さく笑った。
そして、その言葉通り義久は出家しこれ以降「龍伯」と名乗るようになる。




