232話 大坂之陣19
「将軍はどこだ! この薄田兼相と戦えっ」
先の戦いで失態を演じた薄田兼相の声が戦場に響く。
その勢いは凄まじい。
彼も、名を残す事を望んで大坂城に入った一人だ。
失態のみで終わるような結末は絶対に避けたい。
それゆえに、命など惜しんでいない。
家臣達が止めるのも構わず、先頭に立って、幕府の軍勢と戦っている。
「何をしておるっ」
侍大将が叫ぶ。
不甲斐ない味方に憤る。だが、一度劣勢になるとなかなか立ち直る事はできない。
将軍・徳川秀忠への道を作るように、少しずつ脱落していく兵が出ていく。
「上様……」
酒井忠世が秀忠に心配そうに話しかける。
腕を組んまま、不愉快そうな様子の秀忠がそこにいる。
「味方はどうしておる」
不機嫌そうな口調だ。
「はっ、先ほど伝令を送っておりますが……」
なかなか駆けつけてはくれない。
この時、島津勢の一部で反乱騒ぎが起きていた。
これは黒田如水の仕込みである。
だが、それ以外にも理由はあり、その原因は秀忠にもあった。
この家康本陣付近には、家康直属の馬廻衆らを中心とした軍勢以外に九州の大名も配置されていた。
だが秀忠は、九州勢、特に島津に謀反の兆しありという情報を得ていた為、数日前から少し離れた位置に配置を替えてしまっていた。
そのため、即座に家康や秀忠の元に迎える状態ではなくなっていたのだ。
だが、それでも時間が経てばいずれ駆けつけてくる。
そのため、それまで何とか粘ろうとしていたのだが、薄田兼相や田中吉次、最上家親らの軍勢は凄まじい勢いで幕府軍に迫ってきている。
乱戦となり、この場から逃れる事も難しい状況になってしまった。
徳川家の象徴でもある葵の指物が、ばたばたと倒れているのが見える。
……状況は不利、か。
「やあっ!」
このような状況でも、将軍・秀忠に肉薄してくる薄田兼相に対して怯む事なく槍を突き出す、勇気ある武士もいる。
「雑魚が!」
だが、そんな勇猛な兵もあっという間に倒してしまい、馬腹を蹴り、こちらに迫って来る。
ついには、秀忠の視界でとらえられる距離にまで来てしまった。
まだまだ秀忠の周囲に兵は大勢いるが、今の勢いを見ていると決して安心できるだけの数ではない。
周囲一帯の乱戦となってしまっているため、下手に脱出しようとすると、逆に危うい。
「……く」
秀忠の顔に、珍しく焦りの色が浮かぶ。
戦場の声が雑音となって、秀忠の耳元に浮かんでいる。
……どうする。
その苛立ちのせいか、なかなか思考がまとまらない。
……まさか、ここまで追い詰められるとは。
なぜか、自分が大御所の陣を訪れた、あまりにも良すぎる攻勢にも疑問はある。
九州勢に関しての失策もあった。
だが、それを加味しても秀忠自身にも油断はあった。
……この私が慢心していたか。
このような状況であっても、つい苦笑してしまう。
家康が重態となり、名実共に源氏長者となった事もあり、驕ってしまっていたのかもしれない。
……この私も不死身の化物ではない。将軍だろうが、槍で突かれれば、刀で斬られれば死ぬ。
そう改めて思い、生存への道を探る。
味方の兵のものではない、敵勢と思しき怒声も直に秀忠の耳に入ってくる。
「御命頂戴!」
「下郎がっ」
近寄って来た敵勢を、味方が斬り殺した。
だが、まったく安心などできない。
……こんなにも近くにまで。
秀忠も、家康と比べれば大きく劣るとはいえ、戦場経験はある。
この程度で恐れる事はないが、焦りはあった。
……もっと早くに離脱すべきだったか。
周囲一帯にどこからも、剣戟や馬蹄の音が聞こえる。
やはり、離脱は難しい。ここまで迫られる前に、最悪を考えてすぐにでも逃げ出すべき出していれば、話は別だったかもしれない。
いや、かつての秀忠ならばそうしていただろう。
だが、将軍職に就いて10年。
武家の棟梁としての面子がある。自負がある。
そういったものが、判断を狂わせのたかもしれない。
「上様をお守りしろっ」
秀忠の側近達が声を張り上げる。
誰かの放った一撃により、薄田兼相の馬が悲鳴に近いような声をあげる。
馬から兼相が転落する。しかし、うまい事受け身をとったのか、それともそれだけ頑丈な肉体の持ち主なのか。
即座に立ち上がり、襲い掛かろうとしていた幕府の兵を斬り捨てた。
「そこか!」
秀忠を捉えた、薄田兼相が迫る。
「下郎が!」
将軍である秀忠自らが抜刀する。
周囲の馬廻も秀忠を守るべく、秀忠の前に出る。
将軍を直接守る役割を任されただけあって、いずれも忠誠心が高く、一騎当千の者ばかりだが、それでも兼相を前にして明らかに気圧されていた。
「……く」
さしもの秀忠も、兼相を見据えながらも焦りの色が浮かぶ。
「将軍、その御命を頂戴する!」
そう兼相が迫ったその時だった。
凄まじい勢いの迫って来る。
大坂方の兵達に次々と攻撃していく。駆けつけてきたのは、幕府側の援軍らしい。
「どこの軍勢だっ」
この声は、幕府側からだったか、大坂方の方からか。
混乱しきっており、どちらからなのかも分からない。
だが、この新手の正体はすぐに分かった。
「松平家だ! 越前松平の軍勢だっ」
何と越前松平の軍勢だったのだ。
「松平……忠直だと?」
秀忠も怪訝そうな表情になる。
松平忠直がこの近くにいたなどいう情報はなかったはずだ。
不審に思うが、味方として駆けつけたのであれば、受け入れるほかない。
「いけ、いけーっ!」
どうやら、松平の軍勢の数はそれほど多くない。
せいぜいが数百といったところであり、松平忠直が率いる事のできる全軍の1割にも満たない。
しかし、それほど数が少なくとも、この追い詰められた状態で現れた援軍という事もあり、幕府方にとっては10万の援軍にも思えた。
奮い立つ幕府勢とは裏腹に、大坂方の方は急速に勢いを失っていく。
「何をしておるかっ」
兼相が叱咤するも、みるみる味方は減っていく。
それでも視界に映る距離にまでいる将軍・秀忠に迫ろうとするが、秀忠の馬廻衆に阻まれてしまう。
「くそ! 後少し、将軍がすぐそこにいるというのに……」
それでも、我武者羅に突撃していく。
一人、二人と敵をなぎ倒し、進んでいく。
だが、先ほどまでと違い、味方が来たという知らせを受け、幕府軍の士気が回復している。
先ほどとは比べものにならない強兵に思えた。
だが、それでも兼相は進んでいく。
「覚悟!」
しかし、ついにその身体も止まる。
誰かの突き出した槍が兼相を阻んだ。
それを機に、相次いで槍が突き出される。
「ぐおおおっっ」
凄まじい形相となり、それでもなお秀忠を睨みつける兼相。
さらに他の兵からも槍が突き出された。
「おの、れ……」
憎々しげに、直前までに迫った将軍の姿を視界に焼き付けるようにしたままついには絶命した。
それを見て、大坂方からさらに勢いがなくなる。
少しずつ、兵達が数を減らしていく。
そして、秀忠の視界内からは敵勢は消えていく。
「田中吉次を討ち取ったぞ!」
やがては、少し離れた場所からそんな声も聞こえてくる。
大坂方の有力武将でもある田中吉次も討たれたようだ。
敵勢はほぼ掃討され、生き残った者達も勝ち目はないと悟ったらしく、立ち去っていく。
特に、元々、専門の戦闘集団ではなく、数の水増しとして動員されたキリシタン達は顕著だった。勢いがある時は、それに続いたが、やはり本来の戦闘集団である武士を前にして、急激に勢いを失っていく。
それは、撤退などという綺麗なものではない。
ただの逃走だった。
それを見て、ようやく幕府軍は勝利を確信する。
「終わったか……」
秀忠は、安堵の息を一つつく。
無意識のうちに、汗をかいていたらしい。
目元に垂れてきたそれを拭う。
……危うかった。圧倒的優位でありながら。
確かに、完全に不意を突かれた形。
とはいえ、それでも幕府軍が圧倒的に有利のはずだった。
だが、急な事態に兵達は予想以上に浮足立ち、それが全体に伝播していっていた。
結果、ここまで追い詰められた。
……案外、不甲斐ない連中だ。
頼りない味方に舌打ちしたい気持ちもある。
だが、自分自身にも慢心があった事は否めない。
……いや、これはこれで良かったかもしれない。
今回の件で、油断や厭戦気分などといったものも吹き飛んだ。
こういったものは、いくら気を引き締めたところでなかなかできるものではない。
そういった弱点がなくなれば、もう幕府軍は無敵だ。
起死回生の状況からの、逆転を狙っていたであろう大坂方の博打は失敗した。多くの兵を失い、田中吉次や薄田兼相までが討ち取られた――この場にいる秀忠は知らないが黒田如水や後藤基次なども失っている――大坂方など、もはや問題はない。
大坂城の攻略も時間の問題だろう。
だが、その前に――。
「上様、あちらに――」
忠世が声をかける。
返り血らしきものが、少しこびりついている。
だが、それを気にする事なく答える。
「おお、あそこにおったか」
秀忠が、視線を向ける。
秀忠とはあまり似ておらず、腹違いの兄とは少し似ている顔の男がそこにいる。
彼もまた、抜刀していたらしい。
返り血らしきものが、こちらもこびりついている。
「よくやったぞ、忠直」
忠直に対して秀忠の口から出た言葉とは思えない、労わりの言葉である。
忠直の兵がこちらに来なければ危ういところだった。
実際に嘘偽りのない、本音からの言葉だったのだが、
「……」
忠直はどういうわけか無言だ。
刀を鞘に納めようともしていない。
「わ、わたし、は……」
がたがたと身体を震わせている。
……ふん、せっかく褒めてやったというのに。
その頼りない態度に、秀忠の表情も冷めたものへと変わる。
たまに良いところを見せたと思ったら、これか。
……今回の功績も多少は考慮してやってもいいが、やはり改易対象だな。
「安心せい。大坂方は大勝負に出て、敗れた。そして、私も父上も健在。大坂方の悪あがきは失敗に終わった。これで、この戦は終わったも同然だ。もう危険はなかろう」
そんな冷淡な内心を押し隠し、忠直を安心させるように言った。
だが、忠直は震えているだけだった。秀忠と顔をあわせようともしない。
……ふん。私の事がそこまで私の事が嫌いか。
心中で苛立ちながらも、表面上は寛大な将軍としての表情を貼り付け、忠直から背を向けた。
「ご苦労であった。ゆるりと休んでおれ」
そう言った次の瞬間――秀忠の背中に激痛が走った。
今の忠直を動かしているのは、秀忠への憎しみではなかった。
数日前にあった松平忠輝の言葉が忠直を動かしている。
――我が兄は、戦後に全国の大名達を一新する気でおるらしい。
――信頼のできぬ者を一掃し、自分好みの者で埋め尽くす気でおるらしい。逆らう者は皆殺しにするとか。我が兄ながら恐ろしいの。
そんな言葉が脳裏で何度も再生する。
取り潰しにあう、という言葉の重さに忠直は揺れていた。
秀忠は間違いなく、弟であろうが甥であろうが躊躇する男ではない。外様どころか古くから支えた譜代であっても、容赦せずに改易してきた男なのだ。
ましてや、自分は嫌われているという自覚が忠直にはあった。
恐怖が膨れ上がり、身体を蝕んでいた。
――故に、此度の大坂攻めが終わってから、すぐにでも対応できるよう我らで手を組もうではないか。共に協力して、この戦後に兄と戦っていこう。
故に、「戦後に」という重要な箇所が今の忠直の頭から抜け落ちていた。
目の前に、自分を地獄に叩き落すであろう男がいる。
自分の手には武器がある。そして、秀忠にはない。
そこから先の行動は、ほとんど反射的なものだった。
無言のまま秀忠に近づくと、一刀の元に斬りつけた。
「う、上様っ!」
あまりに瞬時の出来事だ。
秀忠の側にいた酒井忠世も、近侍達も反応できなかったらしい。
慌てて、忠直を取り押さえる者と秀忠の容態を見る者へと別れた。
忠直は抵抗する様子もない。
あっさりと組み伏せられた。
「……う、う……」
手当をしようと試みているが、その傷は予想以上に深いようだ。
「医師だ! 早く医師をっ」
「し、しかしこれは……」
近侍達が慌てる中、秀忠の口から、声が漏れる。
「不覚を、とった……」
「上様っ」
「忠直如き、と侮りすぎておったか。私らしくもない……」
「と、とにかく今は……」
無理に喋らすべきではない。
そう思った近侍達だが、秀忠は自分が助からないと悟ったのか、淡々とした口調のまま続ける。
「兵をまとめろ。私の死はできる限り隠せ。負け戦にしてはならん。私は織田の兵に討ち取られたわけではない。織田の被害も甚大故、しっかりと統率をとっておけば負けにはならん。いずれ兵を引く」
そこまで話して、秀忠の口が動かなくなる。
「上様、上様っ」
「くそ! 医師はまだなのかっ」
近侍達が叫ぶが、再び秀忠の口が動く事はなかった。
徳川幕府二代将軍である秀忠は、ここに倒れたのだった。




