221話 大坂之陣8
大坂城を幕府軍の20万の兵が、圧迫するように囲んでいる。
その様子を総大将である将軍・徳川秀忠が眺めている。
……まだ時間はかかるな。
だが、それでも秀忠は即座に大坂城を落とせるとは考えていない。
味方の4分の1とはいえ、5万という数字はやはり侮れないし大坂城は江戸城に匹敵する天下の名城だ。
浪人衆は決して一枚岩ではないが、それでも最低限の統率はとれており、綻びはない。
それに、浪人衆の中に紛れ込ませた間諜により、報告がきていた。
……浪人連中の士気は低くない、か。
西国方面や海戦では大敗したとはいえ、東での戦いは優勢だったのだ。にも拘わらず、大坂城に篭らざるをえなくなった。しかし、それでも戦意は高いままだ。
……切り崩しをするとしても、まだ先だな。
難攻不落の城を落とすためには、力攻めが無理なら調略でだ。
だが、それを仕掛けるには時期だ大事だ。まだ幕府軍はやや優位といった程度。この程度では、大した期待はできない。
……まあ、時間をかければ別の問題もでてくる。
秀忠の脳裏に浮かぶのは大御所・家康だ。
……父上の体調が良くなれば、必ず出てくる。そして、秀信と講和の道を探るじゃろう。
秀忠にも孝心はある。だが、大坂方の殲滅を志す秀忠にとって、家康の存在は大きな障害であり、歯がゆい思いが強い。
有力武将を集め、大坂城を落とすための方策を議論させたが、「短期間で」という前提条件をつけてしまうと有力なものは出てこない。
やはり大坂城は天下の名城だし、篭る武将達も侮れない者が多い。
調略で落とそうにも、やはりもっと時間が必要だ。
それなりの数の間諜を潜り込ませてはいるが、一気に城を落とせるほどの成果は期待できない。
ならば、情報収集に徹しさせた方が良い。
……逆の場合も気にしておくか。
幕府側にも不穏分子はいる。
秀忠の弟や甥だ。
秀忠が将軍の椅子に座っている事を不満に思い、将軍にしてやるとでもいわれれば、幕府に弓を引く可能性がないとはいえない。
さらには、本人はこの場にいないが伊達政宗などもそれを唆す可能性がある。
「忠輝の様子はどうなっておる?」
酒井忠世に話しかけた。
土井利勝が豊臣家の元へと赴いている今、秀忠が最も信頼を寄せるのはこの男だった。
「は?」
不意に話しかけられ、一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「現状では大人しくしておりますな。 ……不穏な動きはないかと」
だが、それでも秀忠の言いたい事を察したらしい。
続けて言う。
「忠輝様の元に送り込んでいる者も、特には何もいってきておりません」
「まあ、この状況ですぐに動き出すほどの馬鹿でもないか」
秀忠の顔に冷たい笑みが浮かぶ。
……仮にも60万石を超える大大名だし、弟でもある。お前の抱える軍勢はこの大坂攻めには必要だ。
だが、と内心で続ける。
……この戦が終われば、お前の態度次第で改易にしてやる。覚悟しておく事だな。
実の弟であれ、反幕府、反将軍色の強い大名など秀忠にとって不要だった。
……それに、あの男の娘婿だ。
秀忠の脳裏に伊達政宗の顔が浮かぶ。
ここ数年は大人しいし、幕府に従順だ。
だが、将軍として徳川家の当主として鍛えられ、研ぎ澄まされた勘ともいうべきものが彼を要警戒にしていた。
……仮に天下簒奪を考えているのであれば、あの男が真っ先に使うのは忠輝。傀儡として扱いやすいであろう。
戦には大義名分が必要。
徳川家によって統一されるまで、戦国の世の多くの諸大名は考えもなしに戦を繰り返していたわけではない。
将軍の子である忠輝を三代将軍としてその椅子に座らせる。
それは、立派な大義名分となる。
最も、秀忠が健在で子の家光も忠長もいる現状でそんな事ができるわけがない。
だが、秀忠が急逝し、幕府が混乱状態に陥るような事になればありえない話ではないのだ。
外様どころか譜代の大名にすら明らかにされていないが、大御所・家康は重い病にかかっている。いや、病の件がなくても高齢だ。
織田との戦が長引いている状況であれば、健在な家康の子で最年長である忠輝を――という話になる可能性も皆無ではないのだ。
そうなれば、岳父である政宗は絶大な権力を持つ事になる。
……まあ、そんな事にはさせんが。
浮かび上がって来た考えを振り払うようにして、再び戦場を眺める。
大坂城を取り囲む大軍が、秀忠の目に映った。
一方、伏見城にいる家康は、またしても悲報に接する事になる。
かつての関白である近衛前久が亡くなったのだ。
前久は、家康や徳川家と親しい関係にあったが、秀信の祖父である織田信長とも親しい間柄だった。
前久は極めて行動力のある人物であり、京を離れて有力大名と接触する機会も多かった。
「そうか……」
さすがに家康も失意の色が強い。
……和睦の時期が来れば、仲介を頼もうと思っておったのに。
織田との和解の道が遠のいた事を痛感する。
ただ、大坂での戦線から送られてくる知らせが「長期戦になりそう」といった類のものばかりなのがせめてもの救いだろうか。
大坂城へと敵勢を追い込み、織田水軍の大半を沈め、初戦で優位に立った。だが、それでもまだ大坂城は健在だった。
食料もまだまだ持つだろう。
幕府軍も、敵勢の4倍が必要とはいえ、それでも十分な兵糧を用意してきている。
さらには、補給も問題ない。
周囲一帯は――不穏分子もいるとはいえ――幕府の支配領域だし20万の軍勢を長期間養うための財力を、今の幕府は十分に持っているのだ。
……状況が大きく動くには、暫し時間がかかる。
いくら幕府軍優勢とはいえ、大坂方が一気に崩壊というのは期待できない。
最低でも一か月はかかる。
「大御所様、よろしいですか?」
ここで不意に襖の向こうから声がかけられた。
「……正純か」
声の主を察した家康が小さな声で言う。
「入れ」
本多正純が姿を現す。
「悪い報せか」
家康も正純との付き合いは長い。
正純が何も発せずともその表情から、用件を読み取った。
「はい。政重から連絡がありまして」
本多正信次男の名を正純が出した。
その政重は今、前田家の元にいる。
「前田家に何かあったか?」
「はい、どうも不穏な動きがあるらしく。密かに何処かの者と連絡を取り合っているようなのです」
「何処か?」
「はい、さすがにそこまでは」
申し訳ありません、と正純は軽く頭を下げる。
「まあ、良い。前田もそう簡単に尻尾をつかませんじゃろ。しかし、前田家が、な」
前田家は、この戦の前に一時帰国していた芳春院を再び江戸に寄越して改めて幕府への忠誠を誓っているし、前田利常も秀忠の娘を娶っている。
常識で考えれば、謀反などはありえない。
それでも万一、織田に義理立てでもするような事があれば一大事だ。
「その連絡相手の正体を即座に突き止めるよう、政重には伝えい」
「はっ」
正純も頷いた。
……前田は、利家の代から信用できぬと思ってはいたが。
家康の顔が苦々しい。
織田信孝から、豊臣秀吉。そして秀吉から家康へと主を変えてきている。
今回もまた、曖昧な態度を貫く気だろうか。
……しかし、利長は大坂城を秀忠と共に攻めておる。
ならば対処の仕様はあるが。
なぜだか、とてつもない不安が家康にはあった。
和睦の目途も立たないまま、不穏な空気の中、この慶長18(1613)年も本格的な冬へと突入しつつあった。




