21話 羽柴秀長
大坂城――織田家の、新たな本拠として大規模な築城工事を行っている最中のかつての石山本願寺跡地だ。
丹羽長秀が総奉行となり、この地に巨大な城を築かんとしている。
長秀は、関東征伐や東北仕置での軍役は免除されていた。織田信忠にとって、関東征伐や東北仕置と同じくらいこの大坂城の完成に心血を注いでいるといっても良かったからだ。
既に、その巨大な天守はほぼ完成している。黒と金を基調とした、織田の権威の象徴ともいえる天守だった。
城下もおおよそ完成しており、人の出入りも盛んだ。
そして、この巨大な城郭にすっぽりと覆われる中に遠方の地の有力大名や有力武将達の屋敷があり妻子が暮らしていた。
言うまでもなく、これは人質としての意味も兼ね備えてある。
その屋敷の中の一つ――今や、織田軍団の事実上の筆頭家老といってもいい羽柴秀吉の実弟・秀長の屋敷である。
その屋敷の一室に、金剛秀国は招かれていた。
この部屋にいるのは、秀国の他にこの屋敷の主である羽柴秀長。
そして、秀国と親しい間柄にある秀長与力の藤堂高虎だった。
さして広い部屋ではない。
それに、豪奢でもない。
だが、決して粗野な感じはなく来客に嫌味に感じさせない純朴さがこの部屋にあった。
まさに、この部屋の主である秀長の柔和な性格を表しているといえよう。
「こうして、面と向かって話すのは初めて、になりますかな」
秀国は、丁重に対応した。
秀長は、織田家の最高幹部といってもいい秀吉の弟であり羽柴家臣団からの人望のある相手だ。
「ま、楽に楽に」
秀長が、軽く手を振る。
茶菓が出されているが、秀国はまだ手をつけようとはしない。
「この度は、突然の事にも関わらず応じていただいて感謝する」
「秀長様自らのお招きとあっては、断るわけにはいきますまい」
「それは光栄じゃのう」
「しかし、秀長様ともあろうお方が何故、某などを――」
高虎を通じて、秀長が面会を望んでいると聞いたのはつい先日の事だった。
「そう謙遜する事もあるまい。関東征伐や、東北仕置などでの活躍。この遥か遠方で留守居を務めた儂の耳にも届いておるぞ」
「いえ、そのような事は……」
そうは言っても、満更ではなさそうな表情を秀国は浮かべる。
秀長も「人誑し」と言われた秀吉の弟の為か、他者の優越感を燻るのはうまかった。
秀国が上機嫌になったところで、秀長も本題に入ろうとする。
「ところで――」
ここで、秀長は言い淀んだ。
「……う、うむ……」
この先の言葉を本当に続けてもいいのか。
そんな迷いが感じられた。
「……」
「……」
奇妙な沈黙が、場を支配する。
「……秀長様」
それを破ったのは、高虎だった。
「ここは某が」
「おお、そうか。ならば頼む」
秀長の許可を得ると、高虎が唐突に言った。
「妙な噂が流れておりましてな」
「妙な噂、ですか?」
秀国は怪訝そうに目を細める。
「明智光秀が、実は生きており上様への復讐を目論んでおる、という噂でござるよ」
「何ですと!?」
その言葉に、秀国は驚愕の表情を浮かべる。
「な、なぜそのような噂が……?」
「その様子だと、やはり知らなんだか」
ふう、と秀長も小さく息を吐く。
「まあ、無理もない。儂も知ったのはつい最近じゃ。明智旧臣の間でよく囁かれているらしいからの」
「明智の旧臣の間で、でございますか」
その言葉に、秀国は眉間にしわを寄せ、
「であれば、某の元に届かなくても当たり前かもしれませぬな。某は光秀さ、いや光秀を見捨てて上様に密告した男ですゆえ」
光秀様、と言いかけて秀国は慌てて呼び捨てた。
「あの山崎の戦いで、確かに兄上は光秀の軍勢を討伐した。そして、逃げる途中に光秀は討ち取られたと聞く」
だが、と秀長は続ける。
「光秀の遺体は見つかっていない」
「しかし、首は晒されたと聞きますが――」
「いや、あの首は腐敗が激しすぎて誰のものかわからなんだ。だが、謀反人の首魁である光秀の首を晒せないのであれば織田の面子に関わるという判断からその首を光秀の首という事にして晒す事にしたのじゃ」
「……」
確かに、そう言った事もあるかもしれない。
納得した秀国は、秀長の先の言葉に耳を集中させる。
「実際、光秀が本当に死んだという明確な証拠はなかったのじゃ」
「……」
「そして、ここからが本題じゃ。その光秀が、明智旧臣や織田家臣時代に親しかった者ともを集めて上様を討ち取って織田家を乗っ取るという企てがあるらしい」
「そんな、まさか……」
あまりの事に、秀国は即座に信じられずに眉間に寄せたしわを深くする。
「確かに、馬鹿馬鹿しい噂かもしれん。だが、最近はその馬鹿な噂が織田家中で密やかに囁かれておる」
「上様は何と?」
「上様はまだ知らんのかもしれん。知ったとしても、噂如きで動じる御方とも思えん」
「それはそうですが……」
「この噂を、儂が聞いたのはかつて信長公に仕えていた道糞からじゃ」
「ああ荒木殿、ですか――」
道糞。
かつて、荒木村重と名乗っていた織田家の有力武将だ。
元は、摂津池田家の家臣。
信長上洛、そして信長包囲網がつくられると池田家は足利義昭に組したが、村重は足利将軍家や池田家を見限り、信長側に組する。
その後、その主君だった池田知正も信長に降伏するが、村重の与力扱いとなる事でその存続を許された。結果的には、主家を乗っ取った形となった。
下剋上の完成である。
その後も、織田軍団の有力家臣として出世街道を駆けあがり摂津一円を支配する有力武将となる。
だが、三木合戦の後に唐突に信長に反旗を翻す。
信長の高圧的な性格を嫌ったとも、秀吉の与力扱いにされた事に不満を持ったとも、かつての池田家同様に織田の将来を見限ったともされたが真相は不明のままだ。
いずれにせよ、反旗を翻した村重は有岡城に立て籠もる。
だが、その造反は結果的に失敗に終わる。
毛利や別所、本願寺といった、反信長勢力の後詰に期待しての籠城だったが秀吉や佐久間信盛によって彼らは動きを封じられ、その間に村重の籠る有岡城は陥落。
村重は城を脱したものの、城内にいた荒木一族は殲滅された。
それ以降、村重は自分を卑下して道の糞――すなわち道糞の名を名乗り続ける事になる。
が、今は堺に戻って茶人として活動しているようだった。
「確かに、荒木殿は我が旧主と親しい間柄にあったようですが――」
荒木村重と、明智光秀の関係は深い。
光秀の娘は、村重の嫡男・村次の室となっていたぐらいだ。最も、当然ながら村重造反後に光秀はこの娘の離縁を要求していたが。
「その道糞が、たまたま席を共にした茶人に探りを入れられたらしい」
「探り?」
「うむ。織田が憎くないか、光秀が生きていたらどうする、などといった事らしい」
「それで、荒木殿は何と?」
秀国は興味を示した。
「いや、乗り気でない事を悟ったらしく相手はそれで引き下がった。素早く姿を消してしまったようなのでどこの誰かも不明だ」
「そうですか……」
ここで、秀国が初めて茶に手をつけた。
かるく唇を濡らしてから、言葉を続ける。
「道糞だけでなく、似たような話を持ちかけられた者は多いらしい。彼らは皆、今の信忠様に不満を持っていそうな連中ばかりだ。話の持ちかけられ方は全員違うようだがな。商人のような相手に持ちかけられたという者もいれば、僧に持ちかけられたという者もいた」
「…………」
「だが、今言った連中は断ったようだがな」
秀長は言う。
「ああ、儂や兄上。それに羽柴家中の者は持ちかけられていないようだ」
「それに、徳川殿やその家中の者も」
高虎が途中から口を挟んだ。
「現状に不満を抱えていそうにない、秀吉様や徳川様には声をかけていない、ということでござるか……」
「うむ。そうなる」
秀長は頷いた。
ここで、秀国ははっとしたように、
「そういえば、光秀と親しい者といえば長宗我部もそうですな」
「そうじゃ」
秀長も頷く。
「だからこそ、儂も不安なのよ。噂だけですめば良いのだが……」
そう言って、秀長も茶をすすった。
「そうですな」
秀国は頷いた。
「織田家は急速に拡大している分、どうしても不満を持つ者が出てくる。それがどこかで暴発しなければよいのだが――」
憂いを帯びた表情で秀長は言った。
彼の予感が的中してしまうのは、もう少し先の話である。




