202話 崩壊之道
大坂城の一室。
この日、織田秀信は朝餉の最中に衝撃的を受ける事になる。
それは、ある報告が原因だった。
百々綱家からの使者だと聞き、いつもの小言の類かと顔をしかめたが、
『我らの主、百々綱家が亡くなりました』
それを聞き、秀信は箸を持ったまま硬直した。
即座に意味が理解できない、といった様子で暫しそのままの状態である。
側にいた小姓も、綱家からの使者も口を挟む事はできない。
「う、嘘であろう……」
半刻ほど経ち、ようやく飛び出して来た言葉がそれであった。
長年、秀信に仕えていた重臣である百々綱家が亡くなったという知らせを受けたのだ。慌てた秀信は、その確認に赴き、物言わぬ状態となった綱家を見てようやく事実だと認識した。
即座に、何をするべきかの判断もつかず、ぼんやりとした状態のまま、部屋をうろつく。
そんな状態が暫く続いた。
大坂城の一室。
綱家の死という報告を受けてから、秀信は未だにその衝撃から立ち直れない様子だった。
常に傲慢な態度を崩す事のない、織田秀信だったが、さすがに長年仕えた百々綱家の死には大きな衝撃を受けていた。
目に力がない。
「……」
不安げにきょどきょどと周りを見渡す。
側近達も、声をかけづらい状態が続く。
だが、政務自体は滞りなく行われている。
威張り散らす事も、怒鳴り散らす事もないぶん、むしろ普段より良いのではないか、などと側近達も不敬だと思いながらも考えてしまう。
「――おい」
そんな中、不意に秀信が言った。
「は、はい」
何を言い出すのか、と側近達が不安に思う中、
「幕府と和睦するのであれば、どの程度譲歩する必要がある」
「!!」
その言葉に、側近達は驚く。
これまで、頑なに幕府との対決を考えていた秀信から出た言葉とは思えない、驚くべき発言である。
もっとも、この状況で「和睦」やら「譲歩」などといった言葉が出てくるあたり、その傲慢さは完全に消えてはいないようではあるが。
「は、はいっ。そうですな……」
だが、ここで心変わりでもされては変わらないとばかりに側近達は秀信の説得に取り掛かる。
浪人達はともかく、古くからの織田家臣達は徳川幕府との対決など自滅に誓い選択など望んでいない。
何が何でも、秀信を説き伏せる気でいた。
秀信も、無言で側近達の言葉を聞きながらも、時折頷きながら聞いている。
皮肉な事に、この10年以上の年月で累計すれば、とんでもない時間になるであろう綱家の説得よりも、ただ「死」という報告のみが彼の心に大きな穴を空ける事に成功したのだった。
だが、それとは対照的にこの事を快く思わない者達がいた。
言うまでもない、秀信によって雇われた浪人衆である。
このまま、幕府に秀信が屈すれば、このまま織田に仕官し続ける事ができると思えるほど気楽な者ばかりではない。
幕府は、今のところ減転封を考えている。
となれば、今の家臣団の一部を切り捨てるかもしれない。そうなった場合、その対象になるのは自分達――浪人衆はそう考えていた。
「どうするのだ」
秀信の変心は、即座に浪人達にも伝わった。
浪人達の間で、緊急会議が開かれた。無論、秀信には内密にである。
焦りや苛立ちといった感情が、浪人達の表情からはうかがえる。
そんな中、長宗我部盛親が口を開いた。
「うむ。まずい事になったな」
明石全登も頷く。
「あの御仁、幕府に屈する気かもしれんぞ」
「そうなれば、真っ先に我らは生贄にされるな」
「うむ。そうなれば、我らの望みも断たれるな」
「この流れは――良くない」
ここにいる者達は、御家の再興、幕府への復讐など微妙に異なる目標があったが、幕府との恭順という道を望んでいないという点では共通している。
「このまま放任するのか?」
「よくはないだろう」
全登が首を左右に振る。
「一つ策がある。あの御仁を、幕府との戦に引っ張る策だ」
「ほう? どのような策だ」
盛親が興味を示した。
「だが、これは幕府に対してだけでなく、秀信様に対しても裏切りとなる。故に、秀信様に忠誠を誓うというものはこの場から立ち去ってくれ。その足で秀信様のところに行っても構わん」
全登はそう言ったが、席を立つ者は一人もいなかった。
元々、死に場所を求めて来たような者ばかり。その幕府と戦う機会を逃して惨めに生き延びるくらいならここで死ぬ――そう考えた者達ばかりなのだ。
……まあ、仮にそんな者がいたとしても。
全登の瞳が怪しく光る。
そういった者がいたとしたら、部屋から退室した後で、密かに斬り殺してしまう気でいたのだ。
幸いにも、そんな者は一人もいなかったが。
「それで策とは何だ?」
「刺客を差し向ける」
「刺客? 誰にだ」
「松平忠吉と、井伊直政にじゃ」
「――っ!」
思わぬ言葉に、浪人達は息を飲む。
「な、何故そのような事をっ」
「第一、その二人を殺したところで今の幕府は揺るがんぞ」
「そのような事、うまくいくのか!?」
浪人達がざわめく。
そんな彼らにニヤリと笑い、
「まあ落ち着け。説明してやる」
そう自信に満ちた顔で言った。
「それも、秀信様が京都についてからじゃ。会見中、あるいは会見の直後を狙う」
「そんな事をすれば、暗殺に成功しても秀信様が疑われるのではないか?」
「それが狙いよ」
「狙い?」
「うむ。例え、下手人が誰であれ、そうなれば真っ先に疑われるのは秀信様。そうすればどうなると思う?」
「幕府はかんかんに怒るだろうな」
盛親が言う。
「そうだ。釈明をしろ、と即座に秀信様を呼びつけるだろう。そうなれば?」
「あの臆病な御仁の性格を考えれば――」
「大坂城に逃げ戻る」
盛親の先を継ぐように言った。
浪人達も、その意見に同意らしく頷く。
「十中八九そうなるであろう。そうなれば、下手人の正体が何であれ完全に面子を潰された事になりさらに怒り狂う。秀信様が黒幕であろうがなかろうが、どうでもよくなる」
「そうなれば、戦になるな」
盛親の言葉に、全登は頷く。
「それが狙いよ」
ふふ、と小さく笑って続ける。
「そこまでいけば、もはや生半可な条件での和睦は不可能。最上でも、ほんのわずかな領土を与えられて生き延びる事ぐらい」
「そして、そんな屈辱的な選択をあの御仁が選ぶはずがない。そういう事か」
「そうなれば、戦よ」
ふふ、と全登は笑みを浮かべる。
「なるほど」
ぽん、と盛親は手を叩く。
「それは面白そうじゃ」
「だが、良いのか。これでは、秀信様に対する――」
「さっきも言ったであろう。裏切りだと。貴殿らは秀信様への忠誠を優先するか? 儂の事を告発するか?」
「儂は秀信様がどうなろうと構わん。あの御仁の親父は、儂の兄上の仇でもあるしの」
盛親が冷たく答えた。
かつて、盛親の兄である信親は、秀信の父である信忠と相打ちになる形で対馬での海戦で沈んでいるのだ。
「そういえばそうだったの」
全登は思い出したように言った。
盛親にとって信忠は仇になるが、同時に秀信にとっても信親は仇のはずだ。だが、秀信はそのような事を気にしている様子はない。
それゆえに、全登もその事を忘れていたのだ。
「で、ほかのものは?」
全登は皆を見渡す。
少し後ろめたそうな表情をしている者もいるが、即座に席をたって秀信に報せるという者はいない。
「決まりじゃな」
全登は、再度確認をとるように再び皆を見渡す。
「それでは、具体的な策に移るとするか」
ニヤリと笑い、全登は話を再開した。
会議が始まった当初の焦りや苛立ちは既にない。
浪人達は、この先にあるであろう幕府との戦いに向け、生気に満ちた顔で語り合ったのだった。
ようやく、幕府との和解の道を探り始めた織田秀信。
だが、それは既に遅すぎたのである。
かつて、この国を支配した織田家という巨大な船は、既に大穴が空いており、後はゆっくりと沈むだけの状態となっていたのだった。




