192話 織田兄弟
――大坂城。
かつて、織田信忠や豊臣秀吉の天下の象徴だった城だ。
徳川家康が天下をとると、江戸城や駿府城にその役割を奪われた。この地から、徐々に活気も失われていった。
しかし、最近はその城下に妙な熱気があった。
「儂はかつて、大御所との戦で本陣に攻撃を仕掛けた事がある」
「関ケ原合戦の時、儂は西軍の将として東軍の武将共の首をとった」
「儂は信秀公の時代から織田に仕えておる」
などといった、織田家臣や浪人達の言葉が聞こえてくる。
……だが、むなしく聞こえるの。
大坂の地での情報収集を終えた後藤基次は、辺りを見渡す。
勇ましい事を言う浪人達の姿が多数あるが、どこか空虚に聞こえる。
彼らも本心では、理解しているのだろう。この大坂城は、もはや沈む船だ。沈没の時期に差はあるかもしれないが、時間の問題だ。
……その船から脱出しようという気はなさそうだの。
惨めに船の外に出るよりかは、派手に沈む方を選ぶ。
そう考えて集まったのが、この場にいる浪人や、残った織田家臣達なのだろう。
そして、自分もそれに加わろうとしている。
それに、主君である黒田如水もだ。
……だがまあ、それもいいか。
肌の合わない主君と共に、余生を過ごす。
それよりかは、華々しく散った方が良い。それに、万が一の奇跡が重なり、幕府に勝利――とまではいかなくとも、それなりの条件で織田家は存続できる可能性もあるのだから。
……いや、我が主君はそのわずかな可能性を少しでも高くしようとしているのだ。
ならば最後まで付き合ってみるのも悪くない。
いつの間にか、基次の心は大坂に馳せ参じる方へと、傾いていた事に気づいて苦笑する。
ここでふと、数人の男女の姿が目に入る。
「……ここでは珍しくないようだの」
彼らは、キリシタンのようだった。
この大坂の地では、公然と祈っている姿をよく見かける。
織田信忠や豊臣秀吉の時代から、禁教令は出されていた。だが、あまりに厳しく取り締まると交易にも影響がある事が考慮され、ある程度は黙認されていた。
だが、この頃には反キリシタンとして知られる以心崇伝が幕府で絶大な権力を持つようになった。
さらに、幕府外交顧問のウィリアム・アダムスの進言もありスペインからオランダへと交易先は変わりつつあった。
その為、江戸や駿府を中心にキリシタンたちは姿を消しつつあった。
この大坂の地を除いては。
織田秀信は、幕府の政策に悉く反発したがっており、幕府からは度重なるように取り締まるよう言われていたが、悉く無視した。
結果、各地で幕府の取り締まりを逃れた教徒達はこの大坂の地に集いつつあったのだ。
明石全登や内藤忠俊なども、その中には含まれている。
そして、黒田如水もかつてはキリシタン大名だった。
……この様子を伝えれば、大坂に参じる理由が一つ増えるであろうな。
基次はそう思いながら大坂の地を後にした。
同時刻、大坂城の一室。
ここで、二人の兄弟が向かい合っていた。
片方は、織田信包。
兄・信長を支え、多くの戦場を経験している。
織田信孝を中心とする安土方、織田秀信を中心とする大坂方に織田家が割れた際は、大坂方を支持。
徳川家康と共に、小牧の地で織田信孝の軍勢と戦った。
その後も甥である信雄を支えていたが、今は隠居していた。
もう片方は、織田長益。
後世では、有楽斎の名で有名な男だ。
こちらは、信忠死後は秀信に仕えている。大坂の織田家に残った、数少ない古参の存在でもあった。
「久しいの」
「うむ」
「上様とはこれから会うつもりじゃ」
「そうか」
長益は小さく頷く。
上様、というのは徳川秀忠ではなく織田秀信の事だった。
そう呼ばなければ、秀信は満足しないのだ。
「それにしても。兄上(信長)が亡くなってから、もう20年以上の時が経つな」
「そんなになるか」
「そうだ。その際に生まれたばかりであった上様が、いまや立派に成長されておる」
「立派に、か」
皮肉交じりに信包が言う。
「そうは思わんか」
「無理があるな」
信包がばっさりと切り捨てるように言った。
「今になって思えば、この恵まれすぎた環境が悪かったのかもしれん。天下人の後継者として、大事に大事に育てられてきたのだからな」
「だが、あのまま織田家が天下を掌握していれば何とかなったのではないか?」
長益は信包に問うように訊ねた。
「しっかりとした形で家督が譲られ、優秀な家臣に支えられていれば何とかなったかもしれん」
「……」
「だが実際はそうならなかった。いっその事、本能寺の変の際に二条城で兄上と同時に信忠様も亡くなっておれば織田家も一挙に弱体化した。そうすれば、分相応に弁えた御方になったかもしれんなあ」
自嘲気味に信包が言う。
かつて、本能寺の変の際。
金剛秀国が明智光秀の謀反を知らせ、織田信忠は窮地を脱した。
だが、ここでもし家督を継いでいた信忠が亡くなっていれば。
他家の養子だった時期もある信雄や信孝では、巨大化した織田家はおそらくまとまらない。
四男以下の信長の子などは、論外だ。
信包や長益といった、信長の兄弟達でも無理だろう。
勝家なり秀吉なりに織田家を牛耳られてしまった可能性が高い。
あるいは、他所の大名達の侵攻を受けて織田家そのものが滅んでいたかもしれない。
「結局のところ、織田家の命運は定まっておったのであろう。だが、歴史の表舞台から退場しても、安らかな余生を送る事ができた者もおる。かつて、兄上が討った今川義元の子の氏真は大御所のところで悠々自適の毎日を過ごしておると聞くし、兄上と長く敵対した足利義昭も晩年は好きに過ごしておったと聞くぞ」
「……何が言いたい」
「わかっておるのであろう。何とか上様を説得してくれ。幕府に頭を下げるように、な。今ならまだ間に合う。天下人でなくとも、豊かな余生を送れるはずじゃ」
「それが言いたくてわざわざ来たのか?」
「そうだ」
長益の言葉に、信包は頷く。
「このままでは、織田家は滅ぶ。そんな結末を儂は望んでおらん」
「……む」
長益の顔が歪む。
「ここに来る途中、新たに雇われたという浪人達の様子もみてきた」
「……」
「浪人達は、本気で幕府に喧嘩を売る気でおるのではないか? このまま、上様がその気になればどうするというのだ」
「……いや」
ここで黙って長益は首を左右に振る。
「もはや、上様云々の問題ではないかもしれんぞ」
「どういう事だ?」
「もう、浪人の数が多すぎる。もし仮に、幕府が奴らの放逐を要求したとしてもそれができんかもしれん」
「奴らが抵抗するというのか?」
「うむ。奴らがいっせいに蜂起すれば、大騒動になる。鎮圧できたとしても、それを理由に改易されるかもしれん」
「随分と弱気だの」
「弱気にもなる。こんな状況ではな」
嘆息混じりに長益は答える。
「やはり、儂が考えている以上にまずい状況なのか」
「そうだ。何か切っ掛けでもあれば、即座に戦になりかねん」
「……」
その言葉に、信包が思わず黙り込むがいや、と言葉を続ける。
「大御所の子である忠吉が上様と交渉していると聞くし、大御所は織田を残す方向で動いていると聞く。まだ希望は断たれておらん」
「分かっておる。儂も最後まで上様を説得してみるつもりじゃ」
「儂からもできる限り説得してみる。今日はそのつもりできた」
「そうか。なら、できる限り浪人連中がおらん時に話せ。あ奴らに知られると何をされるかわからん」
「うむ」
信包は頷き、この日、秀信と謁見した。
だが、秀信はこの忠告にほとんど耳を傾ける事はなかった。




