190話 駿府謀議
駿府城の一室。
この日、大御所・徳川家康は一人の男を訪ねていた。
この国では極めて珍しい、というかわずかにしかいない紅毛人――イギリス人だ。
ウィリアム・アダムスである。
このアダムスに家康が出会ったのは、慶長5(1600)年。その2年前に行われた関ケ原の戦いで太閤・豊臣秀吉を討ち取り、江戸に幕府を開いたばかりの頃だ。
彼の乗ったリーフデ号は九州にある太田一吉の領土に流れ着いた。
一吉は当時、九州の諸大名との取次をしていた寺沢広高へと指示を仰ぎ、その広高も秀吉に代わって新たな主となった家康に判断を仰いだ。
その時は、幕府が開かれた直後ということで今以上に家康もその側近達も多忙を極めていたが、海外との交易に感心を示す家康は彼らと会う事を即座に決めた。
リーフデ号の船長だったのは、オランダ人のヤコブ・クワッケルナックだったが、当時はまだ重態だった為、アダムスとオランダ人航海士のヤン・ヨーステンが代理となり、徳川家の家臣と話した。
そんな家康に、彼らが対立する新教徒だと知った宣教師達が進言する。アダムス達は海賊ゆえ即刻処刑するように、とだ。
だが、アダムスを気に入った家康はそれらの進言を却下する。
そればかりか、日本語を教えて家臣として重用する事を決めた。
以後、アダムスは徳川幕府の外交顧問ともいうべき立場に治まり、三浦按針という名前まで与えられていた。
スペイン・ポルトガルに代わる新たな交易先としてイギリス・オランダへの交渉手段としたいという目論見もあったが、それを差し引いても当時は一漂流者の異人に過ぎなかった彼に対し、異常ともいえる優遇ぶりだった。
アダムスもそれに応え、当時の国際情勢や、航海士としての知識などといったものを家康に提供。
家康からさらなる信頼を勝ち取っていた。
「それにしても、エゲレスの者は其方のように巨躯なの者ばかりなのか」
そんなアダムスの体を見つめながら、家康は言う。
確かに、小柄な者が多い当時の日本人と比較しても彼は大きかった。
それに対しはい、とアダムスは答えてから、
「しかし日の本の民は、体こそ小さいですが引き締まった肉体を持つものが多いですな。中でも、大御所様は別格です」
「世辞もうまくなったの」
家康も満更でもなさそうな態度で笑った。
「それで、如何なるご用件でしょうか」
「うむ」
家康も本題へと入る事にした。
「少しばかり、相談したい事があっての」
「何でしょうか」
「其方も近々、平戸にオランダの商館ができる事は知っておろう」
「はい」
「その事で、文句を言ってきた連中がおる」
その言葉だけで、アダムスは察したらしい。
「スペイン人ですか」
この時期になると、家康も従来のスペイン・ポルトガルよりも新たな交易先としてイギリス・オランダの方に信頼を置くようになっていた。
とはいえ、スペイン・ポルトガルの存在も決して軽視できるものではない。イギリス・オランダとの交易が拡大しているとはいえ、スペイン・ポルトガルとの交易で得る事ができる利益も決して少なくない。
その為、どの程度の付き合いに留めるべきか、距離を測りかねていた。
家康はスペインへの警戒を強めつつも、当時のスペインの植民地だったフィリピンの総督であるペドロ・アクーニャに書状と共に友好の為の使者を送ったりもしていた。
もっとも、その書状の中でキリスト教の布教に関してははっきりと拒絶していたが。
「うむ。宣教師の保護だけでなく、オランダ人の追放を訴えてきおった。交易を打ち切る事も示唆しての」
「なりませんぞ、大御所様」
顔をこわばらせ、アダムスは言う。
「奴らは極めて貪欲な存在です。表面上は穏やかな顔をしていても、その腹の中はどす黒い。気を抜くと、途端に貪られますぞ」
当初、彼らが原因で海賊扱いされていた事もあってか、明らかに怒りの感じられる、強い嫌悪と憤りの混じった口調である。
「奴らは多くの国を謀略とその武力を持って侵略し、搾取しております。そのような連中、信じるに値しません」
「うむ……」
家康も顎に手を当てて考え込んでいたが、
「分かった。また、話を聞く事もあるやもしれんが、その時も頼む」
「ははっ」
そう言うと、頭を下げて退室していく。
こういった仕草もすっかりと馴染んでいた。
アダムスが退室した後、家康は今度は本多正純と以心崇伝を呼んだ。
崇伝はこの時、正純同様に幕府内での権勢を急速に高めていた。
正純の父・正信はかつて家康と敵対した事もあるとはいえ、元々は徳川の家臣。
しかし、崇伝の場合はそうではない。
にも関わらず、いつの間にか幕政の中心にいた。それだけ家康は彼の力を買っていたのだ。
アダムスとの話を簡単にした後、家康は言った。
「お前らの意見も聞いておくべきだと思っての」
「なるほど」
崇伝は納得したように頷いた。
「確かに、エゲレスやオランダとの交易が順調に進んでいるとはいえ、イスパニアとの交易も捨てがたいですしな」
正純も同意する。
「儂としては、我が国での布教活動の停止を訴え、その上で交易に関してはこれまで通りとするのが理想だと考えておる」
「なるほど。確かにその辺りが無難ですな」
「しかし、大御所様」
崇伝は頷くが、正純が待ったをかけた。
「そうなると、一つ問題が浮上しますぞ」
「問題?」
「大坂です」
「む……」
「我らが布教を認めないとなると、キリシタンの保護と布教活動に力を入れているところに助けを求めるのが必然」
その言葉に、家康の表情に苦々しいものが混ざる。
「織田秀信様は、大坂城下でキリスト教を保護しております。それも、公然と。南蛮寺を作る事を許したり、キリシタン武将などを雇っているとも聞きますし」
「うむ。確か、その中には明石全登と内藤忠俊などもいるらしいの」
明石全登は宇喜多秀家、内藤忠俊は小西行長に仕えていた。
共にキリシタンに好意的だった大名であり、どちらも関ケ原の戦いで西軍に属した。
全登は暫く行方が知れていなかったが、いつの間にか大坂城に入っていたらしい。
忠俊も、戦後は加藤清正や前田利長などの世話になっていたようだが、いつの間にか大坂城へと入ってしまった。
「厄介な存在です。織田の名前だけでなく、キリシタンの国をつくるとでも言えば相当な人数を集める事ができるかもしれませんぞ」
「なるほど。それは厄介かもしれませんな」
崇伝が口を挟んだ。
「我が国から放逐される事を恐れたイスパニアが、大坂に肩入れともいう事になれば一大事です」
「全国に散らばるキリシタンの数は、隠れて信仰する者も含めれば50万とも100万とも言われますし。イスパニアの支援に加え、彼らが大坂に馳せ参じれば相当な脅威になりますぞ」
この時期の、日本の人口は1000万から1500万ほどとされる。
その中で、この数字はあまりにも大きい。
「そこに、織田政権が復活した暁にかつての加賀のように、キリシタンの持ちたる国を作って与えるとでもいえば……」
「全国に散らばるキリシタンが一斉に蜂起する可能性もありますな」
「まさに悪夢、というほかありません」
正純と崇伝が話を進める事を、家康が遮った。
「……お前達、話が逸れておるぞ。儂が聞きたいのは、大坂をどうこうしようなどという話などではなく、イスパニアやエゲレスとの付き合い方じゃ」
「確かにそうですな。失礼致しました」
「申し訳ありません」
正純と崇伝は詫びたが、さほど失礼な事を言ったとは思っていない様子だ。
彼らだけでなく、幕府内部では「大坂滅ぼすべし」の声が日に日に高まってきている。
絶対的な権力者ともいえる大御所がその反対派の筆頭ともいえる存在である為、そこまで大きな声になっていないが。
その家康に万一の事があれば――。
……本当にまずい事になるかもしれんな。
家康は、まだ死ぬわけにはいかないと改めて思った。




