184話 江戸幕府3
駿府城の一室で、一人の幼い子供が遊んでいる。
そしてその子を、穏やか瞳で見守る老人がいた。
大御所・徳川家康とその子である長福丸である。
老いてから生まれる子は可愛いと言われるが、家康も例外ではなかったようだ。
同じ子であっても、自身の後継者として育て、甘さだけでなく厳しい面も強く出していた信康や秀忠などとは明らかに異なっていた。
「大御所様、よろしいでしょうか」
そんな朗らかな親子の時間に入ってきたのは、本多正信だった。
「構わん。どうした」
正信もまた、子である長福丸とは別の意味で寵愛を受ける男だ。
子との時間を邪魔されても、さほど怒った様子はない。
「もう江戸に戻ったものだと思っておったが」
正信はこの時期は秀忠付として、主に江戸城にいる。
しかし、時折、駿府城にも顔を出していたのだ。
「竹千代様の事なのですが」
正信が切り出した。
「竹千代に何かあったのか?」
「どうやら、また臥せっておられるようで」
「……そうか」
家康の顔が、かすかに曇る。
家康の孫であり、秀忠の子である竹千代は病弱だった。
この時、生まれてまだ1年ほどだが、その頃の長福丸や五郎太丸と比べると明らかに発育も遅い。
下手をすれば、成人するまで生きられないのではとすら噂されていた。
「最悪の場合も考える必要があるかもしれんな」
す、と家康の目が細まる。
祖父としての顔が消え、徳川家当主としての顔に戻る。
びくり、と近くにいた長福丸が怯えるように体を震わせた。
それを見て、家康は表情を戻した。
「脅かせてすまむな。お前の甥の事でな」
そう言っても、長福丸は怪訝そうに首を傾げるだけだ。
「その場合はどうなさるのですか?」
正信も家康と深い信頼関係にあるだけの事はあり、聞きにくい事をずばりと聞いてきた。
「秀忠の次の子に期待する。それしかあるまい」
その解答に正信は意外そうな顔をする。
家康と付き合いの長い正信にとっても、その解答は意外なものだったのだ。
「忠吉様や忠輝様ではまずいのですか?」
「あ奴らは後継者にはせん」
はっきりと家康は断言した。
「こういう事は、曖昧にしておくと余計な家督争いを招くだけじゃ」
苦々しい口調だ。
家康自身は家督争いをする事なく、徳川(松平)の当主となったが、かつての主家である今川や同盟国の織田などは兄弟同士で血を流している。
また、家康自身も未遂には終わったが長男・信康と対立しかけた事もある。それだけに、その言葉には重みがあった。
「序列は重んじる必要がある。二代将軍である秀忠の子以外に後継ぎはありえん」
それとも、と家康は続ける。
「序列を重んじるというのであれば、忠直に継がせるべきとでも言うつもりか?」
「いえ、それは……」
正信は言い淀む。
この時、松平秀康の子であり家康の孫でもある忠直は10歳になっていた。
そして、正信が秀康を徳川家の後継者として推していた事は当然知っている。
「ま、良い」
家康はこの問題は終わりだ、と言わんばかりに小さく首を横に振った。
「家督争い、というのであれば一つ解決せねばならん問題がある」
「はい」
「土佐の件は知っておるな」
「山内家の件ですな」
急に話が変わったように見えたが、戸惑う事なく正信は返した。
この時、山内家当主である一豊は没していたのだ。
山内一豊に子はいない。
だが、一豊には養子がいた。
彼にとって一豊は伯父にあたる。
50を越えても男子に恵まれなかった一豊が迎え入れたのだ。
その養子は既に、将軍・秀忠とは謁見。
秀忠も気に入り、偏諱を賜って忠義と名乗る事になった。
しかし、その忠義がすんなり家督が認められるかというとそうでもない。
一つ、問題があった。
既に、幕府の方針により後継者のいない家は無嗣断絶となる事が決まっていた。
忠義の養子縁組は既に届け出が遅かったという事で、山内家は改易にする方向で話は進みつつあった。
「ですが、上様の御言葉で……」
だが、それをひっくり返したのが将軍である秀忠の言葉だった。
「忠」の字を与えるほど忠義の事を気に入っていた秀忠は、一度は改易の方向に進んだ方針を撤回させ、一転して忠義の家督継承を認めた。
最も、土佐という難しい土地を治める為にも、下手に領主を入れ替えるのは余計な混乱を招くだけだという考えもあっての事ではあったが。
「その事なのじゃがな、儂は秀忠の決定を認めようと思う」
「よろしいのですか?」
その言葉に正信は意外そうな顔をする。
先ほどの話にもあったように、家康はこの手の家督争いを嫌う。
その為、ばっさりと山内家も改易する方向で行くと正信は思っていたのだ。
「将軍の決定じゃしのう。儂がとやかく言っても仕方があるまい」
「はあ」
気の乗らない様子の正信に、家康は言う。
「まあ、秀忠にはやりたいようにやらせい。よほどの問題でも起こさん限りは好きにさせるつもりじゃ」
「……そうですか」
正信は頷きつつも、将軍である秀忠への警戒心を強めていった。
……やはり、大御所は上様を咎める気はなさそうだ。
……上様をこのままにしておくのは危険な気がする。
だが、と考えを先に進める。
……上様の力は幕府にとって、もはや必要不可欠。排斥するわけにはいかん。
……じゃが、今のままでも困る。少し力を弱めねば。
何か手を打たねば、と正信は密かに決意していた。




