183話 伊達政宗3
徳川家と豊臣家の縁談話が持ち上がった慶長10年。その新年に、長年徳川家を支え続けた鳥居元忠が没していた。
徳川四天王や三傑に数えられる事はないが、今川時代から生き残る数少ない存在であり、徳川家にとっても家康にとってもその存在は大きい。
その死を家康は嘆いた。
しかし、忠臣の死があろうとも、今の徳川家はほとんど影響を受けない。江戸の秀忠のみならず、秀忠側近達も力をつけ、徳川家はさらなる繁栄の道を進もうとしていた。
徳川は栄え、旧豊臣や織田は廃れる。
かつて、足利将軍家や守護大名達が力を失っていったように。
そんな中、この20年の間で着々と勢力を拡大しつつある存在があった。
奥州の伊達家である。
東北仕置、九州征伐、朝鮮征伐、信孝討滅、関ヶ原の戦いで着々と実績を築きつつ時代の天下人と家康を見込んで接近。
徳川幕府の重鎮として、外様としては筆頭格の地位を築きつつあった。
江戸城――伊達屋敷。
時刻は深夜だ。
そこに、伊達政宗はいた。
この時、政宗は中年の領域に入りつつある。
元より、美食家という面のある男だったが若い頃は運動量も多かった。だが、関ヶ原の戦いからもう7年。
戦乱を駆ける事もなくなった。
それでありながら、美食家としての趣味を満たすべく日の本のみならず大陸や南蛮の珍味を食していた為、ぽっくりと腹が出るようになっていた。
中年太りが始まりつつあるのだ。
その腹をなでながら、政宗は側近の片倉景綱に聞いた。
「儂ももう、年かのう」
「殿がお年だというのでしたら、某などはもっと」
苦笑交じりに景綱は答える。
彼は、政宗よりも10年上なのだ。
この時、既に50。
平均寿命の短いこの時代、既に老人と呼ばれる歳にすら近づいている。髪の毛に混じる白いものも気になり始める年齢だ。
「だが、大御所はそれ以上だ」
政宗が言う。
徳川家康は、60を超えた老人となっている。
が、健康に気を使う彼の生活の為かまるで老人らしさを感じない。今なお、若さ溢れる肉体をしている。
「されど、将軍はまだ20の半ばですぞ。殿よりも若い」
「そうよな。大御所さえいなくなれば、と思っておったが将軍も相当な傑物。大坂の御仁のような愚物であればの」
ふん、と不快そうに政宗は鼻を鳴らす。
「殿、そのような事を言われては……。ここは江戸ですぞ?」
「そのために、黒脛巾組に警護をさせているのであろう」
「まあ、そうなのですが」
二人で密議をする際、政宗は屋敷周辺に黒脛巾組を配置し、警護をさせていたのである。
「それより、今も野心を捨てておられないようですなか」
「おらん。儂は今なお満足しておらん」
「関ヶ原での勝利で、無事に100万石近い大大名になったとというのにまだ足りないというのですか」
「足りん」
「大それた御方ですな、殿は」
景綱は、政宗とは幼少期からの付き合いだ。
それゆえに、口のきき方に遠慮はなかった。
「儂は、天下人になる器なのよ」
「天下人、ですか。では、幕府に戦でも仕掛けるのですか?」
「正気か?」
そう言って政宗は笑った。
「正気も何も、殿が言っているのではありませんか。天下人になると。天下人になるというのであれば、今の徳川幕府は打倒する必要がありますぞ」
「そうよな。儂が天下人になるには、幕府は大きな障害よのう」
「そうですな」
「儂が動員できる兵は、せいぜいが3万。だが、幕府はその10倍の30万を動員できる。どうやっても、伊達単独で勝ち目はないの」
「分かっているではありませんか」
景綱は笑った。
「では、今後はご自重願いたいものですな。幕府に勝てないとよく分かっているのでしたら」
そう言いつつも、本気で諫めようとしている様子はない。
興味深そうに、主の次の言葉を待っている。
「おい、何を言っておる。儂が言っているのは伊達単独で幕府に勝てる可能性の話だぞ」
「ほう、すると殿は他に味方の当てがあると?」
「無論、そうじゃ」
ぐっふっふ、と政宗が口元を歪めた。
「もしや、忠輝様ですか?」
松平忠輝は、家康の六男であり政宗の娘を娶っており、この時、13歳。戦場に立つ事も可能になってきた年頃だ。
しかも、忠輝は兄の秀忠に好印象を持たれていない。父である家康からも、嫌われているという噂もあった。政宗が、三代将軍にしてやるとでも吹き込めば、決起する可能性はなきにしもあらずだった。
「婿殿か。確かに、婿殿はいいな。儂に味方してくれるやもしれんのう」
「ですが、忠輝様は大御所の子といえどもわずか15万石の中堅大名に過ぎませぬ。動員できる兵はせいぜいが5000。殿と合わせても3万5000ほどにしかなりませぬぞ」
「確かに、婿殿の石高は少ないのう。いずれ大御所に加増を要求してやるか。他の兄弟と差がありすぎるしのう」
嫡男、信康ははるか昔に故人。
この時点の家康の他の子らはというと。
次男であり関ヶ原合戦で討死した松平秀康の子である松平忠直はこの時点で10歳だが、石高は60万石。父の残した家臣団がそれを差配している。
三男・秀忠は征夷大将軍であり家康の後継者という事で除外するが四男・松平忠吉は50万石であり、五男・武田信吉は30万石だ。
七男・竹千代と八男・千千代は早世している。
が、この時点で4歳の九男・五郎太丸(義直)、3歳の十男・長福丸(頼宣)、2歳の鶴千代丸(頼房)といった面々もおり、彼らを家康はとても可愛がっており成人の暁には徳川一門として最低でも20万石以上の領土を与えて独立させる気でいるという噂が既に流れていた。
いずれにせよ、忠輝の石高は他の兄弟達と比べると明らかに見劣りする。
この冷遇は忠輝の素行が悪いのが原因とも、自分の子でないと疑っているのからだとも、顔が醜悪だからとも様々な噂が飛び混じっていた。
「加増がなくとも、婿殿は大御所の子。儂が挙兵した場合の大義名分として役立つ」
「徳川家臣の者達には、忠輝様を将軍にするとでも言うおつもりですか?」
政宗はその質問には答えず、くっくっく、と小さく笑みをもらしただけだった。
「ま、婿殿の話はこの辺りにして。次の問題じゃ。婿殿の他に味方がどこにいると思う?」
じらすような口調だ。
「大坂の御仁ですか? それに、姫路の」
大坂城の織田秀信は、今なお健在だ。
今や、秀信は一大名に過ぎないとはいえ織田信長の孫であり、信忠の嫡男という威光は失われていなかった。
姫路城の豊臣秀頼も健在だ。
豊臣家が分裂しつつあるとはいえ、今なお豊臣宗家の当主であり秀吉の子だ。
決して侮れる勢力ではなかったのである。
そのかつての天下人とともいる二家は、ある程度の力があり、なおかつ徳川家に逆らう理由があった。
「大坂に姫路の御仁、か。確かに奴らと手を組み、姫路と大坂、そして江戸の背後で兵を挙げればおもしろい事になるやもしれんの」
くっくっく、と政宗は笑う。
「……まさか本気で?」
「阿呆。そんな事をすれば、今度は奴らを主として崇める羽目になるではないか」
「ですな。織田秀信や、豊臣秀頼と手を組めば殿はあくまで支援という立場。仮に倒幕がなったとなれば、ある程度加増を受ける事ができましょうが、今の安泰の立場を危険に晒してまでとなると……」
「であろう。大坂の御仁も姫路の御仁も、儂を田舎大名と侮っていようしな。恩を感じる事もあるまい」
ふん、と政宗が不快そうに鼻を鳴らす。
「ましてや、儂は大御所や将軍の為に働いてきた男ぞ。関ケ原では太閤を討つ事にも協力しておる。大坂の御仁はまだしも、姫路の御仁との協調はありえんよ」
「ですな。しかしそうなると、殿と協調できる大名などいなくなってしまいますぞ」
「視野が狭いの」
ふふ、と政宗が小さく笑う。
「もう少し考えてみよ。幕府と敵対する理由があり、儂にとって頼りになる味方がおる」
「そう焦らさなくても良いでしょう」
不満そうにいう景綱に、政宗は上機嫌そうな様子で笑ってから、
「いや、儂ももう少し考えをまとめておきたい。まだ不確定な事もいくらかあるしの。じゃが、うまくいけば――我ら伊達の天下になるかもしれんぞ」
そう不敵な表情を浮かべていた。




