180話 江戸幕府1
新章突入です。
これからは不定期更新にはなりますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
慶長7(1602)年。
徳川幕府を開いた征夷大将軍将軍・徳川家康が突如隠居した。
わずか2年で、将軍職を辞したのだ。
これは、全国に衝撃を与えた。
だが、その将軍の地位は子の徳川秀忠に譲った。
長男の信康は遥か昔に死んでおり、4年前に行われた関ヶ原の戦いで次男・秀康も討ち死にしている。
故に、三男・秀忠が家康の跡を継ぐのは何の不思議もない。
問題は、何故こんなにも早い隠居なのかという事だった。
天下の静謐を願うのであれば、未だに反徳川色の濃い西国をいつまでも放置するのは得策ではない。
言いがかりでも難癖でもつけ、無理にでも織田や豊臣を滅ぼすべきだという意見が幕府内には強くあったし、旧織田・豊臣系列の大名達もそれを恐れていた。
そういった類の事を家康はこれまでしてこなかったが、いずれは粛清の為の軍勢を動かすであろう。西国大名のみならず、幕府内部にもそういった空気が強かった。
しかし、織田討滅も豊臣討滅も行う事なく家康は隠居して以後は大御所を名乗るようになる。
そんな家康の隠居には、理由があった。
そのうちの一つは、
――将軍職は、徳川家が世襲していく。
という一点を天下に知らしめるため。
織田家当主の織田秀信は、織田信忠の方針もあり主だった官位を受けていなかった。かつて、天下取りを志す豊臣秀吉の策により、中納言の地位を秀信は受けた事もあったが、関白職にまで就いた豊臣や将軍職の地位を得た徳川と比べるとその差は大きかった。
一方の豊臣秀頼は、豊臣秀吉、秀次の後継者である。
少なくとも、彼を支持する者は皆そうだと考えていた。
だが、秀次から当主の地位を譲られたものの未だに関白職は朝廷から授かっていない。
それは、徳川家が圧力をかけているというのも大きい。だが、豊臣家は単なる一大名に転落している。その豊臣家に関白職を与えられるだけの資格が果たしてあるのかと朝廷が考えているというのも大きかった。
いずれにせよ、この二家とは違い親の遺産が子にもしっかりと継承されていくのだという事を強く認識させる必要があったのだ。
理由は、それだけではない。
――徳川秀忠の名を世間に知らしめる。
というものもあった。
この時点での、諸大名のみならず徳川家臣団の者にすら秀忠の認識は「将軍・家康の三男」という印象の方がが強い。
徳川家の世襲制を確固たるものにするには、徳川秀忠という新しい将軍の力を諸大名に認めさせる必要が出てくる。
そうなれば、三代目、四代目の将軍職に就く者はより簡単に父の基盤を受け継ぐ事ができるようになる。
だが、当面は実質的に大御所である家康が仕切る必要がある。
当初、家康は江戸城の西の丸に移る気でいたが、同じ江戸城内にいては、「やはりまだ天下人は家康なのだ」という認識を諸大名に与える。
その為、隠居先と定めた駿府の地で大御所として君臨する気でいた。
駿府の地は、家康が幼少期を過ごした場所であり思い出深き場所だ。
この地を隠居先に選らんだのは、いわば必然といっていいかもしれない。
この駿府城と、江戸城の二元政治を行う事で、天下を差配しようとしていたが、少なくとも当初のうちは駿府城を政治の中心にする気でいた。
秀忠の器量が全国の大名に認められるまで駿府城で指示の大半を出し、江戸城はそれを実行するだけ。実質的に幕府を動かすのは家康であっても、指示を出すのが秀忠であれば、秀忠の権威は自然と高まる。それこそが、家康の狙いだったのだ。
同時に、家康は秀忠の実力は認めつつも微妙な方針の違いがある事にも気づいていた。そのため、秀忠の独断による暴走を防ぐ為という意味もあった。
家康が駿府城に移る際、これまでの幕府の中軸を担っていた人材達も家康と共に駿府へと移動した。
江戸城に残った面々も、秀忠を始めとする新将軍による政権が正しく機能しているかを監視する監督役としての側面が強い。
そして、秀忠政権がまず最初に手をつけた事が何だったかというと、駿府城の増築工事だったのである。
既に、駿府城は立派な城に増改築されていたが、天下人・家康の住む城としては別だ。
やはり、現時点の駿府城では大坂城やかつての安土城と比べると見劣りするのは否めない。
そのための、費用や人材は東国ではなく、西国の大名達に多く負担させた。
名目上は、「東国の諸大名は、江戸城の増築工事で多大な出費を既にしているため、今度は西国が負担するべし」というものではあったが、実際には西国の大名達の忠誠心を試す為でもあった。
西国の大名達も、事実上の天下人となった家康の機嫌を損ねるわけにはいかない。
皆、進んで金と人を差し出した。
やがて、方形の本丸を中心に、五層七階の天守がそびえ立つ大規模な近世城郭が完成し、この地、駿府城は単なる隠居地ではなく江戸城と同様の新たな徳川の政庁であるという事を天下に示したのである。
こうして、大御所となった家康をはじめとする幕府の重鎮達は完成した駿府城へと入った。
将軍職を譲った翌年。慶長8(1603)年の新春の事である。
「やはり、駿府はいいのう。気候は穏やかだし、富士の山にも近い」
駿府城に入ってからの、家康の感想である。
「まことでございますな」
それに答えたのは、本多正純だ。
父・正信は江戸城に残ったものの、子の正純は家康と共に駿府城に移っていた。
「この地で火鉢はもう、必要なさそうだのう」
穏やかな駿府の気候を肌で感じながら、家康はまだ汚れがない真新しい畳の上に腰を下ろした。
「まことに……」
正純が追随するように言ってから、
「ところで、大御所様」
「ん? 何じゃ?」
「諸大名より、隠居地に多くの贈り物が届いておりますが」
「おお、そうか」
家康が大らかに頷いた。
「最上殿、伊達殿といった元々の親徳川大名は勿論、関ヶ原合戦以降に大御所に下った毛利や上杉といった面々からも届いておりますぞ」
「まあ、当然じゃの」
ふふ、と家康が笑った。
「大坂の御仁からは?」
「ありませぬ」
正純が応える。
「ま、予想通りじゃの」
怒りだす事なく、家康は平静のまま言う。
5年前、大坂城で対面した際、未だに「天下人の当主」としての顔を捨てる事ができず、憎悪すら籠った視線でこちらを睨みつけてきた織田秀信の顔を思い出し苦笑する。
未だに織田家の天下に執着する秀信は、徳川家の害になる。そう秀忠は訴え、排除を求めていたが、「旧織田系列大名の反発を防ぐため」という理由で家康は退けた。
しかし、実際には既に故人である織田信長・信忠親子や責任を取る形で隠居した信雄への義理立てとしての面が強い。
「姫路からは?」
「同様です」
「……そちらは期待しておったのだがの」
「ですが、小早川秀秋様からは届いております」
「おお、そうか」
家康がかすかに笑みを浮かべる。
関ケ原合戦の後、秀秋は数少ない秀頼の親族として豊臣を支えていた。
「他の、豊臣系大名からはどうじゃ?」
「蜂須賀、両加藤、細川からは贈り物が届いております。黒田、福島は今のところ書状のみですな」
「そうか」
家康の言葉は淡々としていたが、口調には喜びの響きが混じっている事を、つきあいの長い正純は敏感に感じ取っていた。
「島津は?」
「島津は、今の所何も」
島津家は関ヶ原合戦の後、和睦が成立してからは、豊臣家に加担した事の謝罪を行う為に島津義弘が一度上洛したが、それだけだ。現在は不穏な沈黙を保っており、ある意味、織田や豊臣以上に不気味な存在だった。
「まあ、いずれ島津とは何らかの決着を着ける必要があるかもしれんな」
……あれだけ、面子を考えてやったというのに。
わずかではあるが、家康の顔に不機嫌そうな色が浮かぶ。
並の人間ならば、見逃してしまうような小さな変化だったが、そこは家康が側近に選んだ正純だ。
即座に察し、話題を転じた。
「ところで、今日はもう長福丸様のところにはいかれたのですか?」
「うむ」
長福丸(頼宣)は、家康の側室であるお万の方(養珠院)の間に生まれた子であり、家康の十男だ。
この年に生まれたばかりのまだ赤子である。
信康や秀康といった、青年期に生んだ子供達とは違い、老齢の域に入り、生まれてきた子供達を家康は溺愛した。
それは、子供というより孫に対する愛情に近かったのかもしれない。
「それにしても、この歳でもまだ父親になれるとはのう」
ふふ、と機嫌が良さそうに家康は笑う。
既に、不快な気分も消し飛んだようだった。
「いずれは相応しい嫁を宛がってやらねばのう。豊臣系列の武将の娘などがよいかもしれんの」
が、それでも徳川家の当主だ。
ただ愛情を注ぐだけでなく、家の安泰の為に徳川の血筋を利用する気でいた。
「しかし、儂の子ばかりが順調に育っては、秀忠に申し訳ないかのう」
かすかに眉を寄せ、気の毒そうな表情になる。
秀忠にも初めての男子である長丸が生まれていたのだが、昨年に亡くなっていた。
同時に、秀忠の子が順調に育てば三代将軍ももめることなく決まり、徳川家はさらに安泰になったというのに、と祖父ではなく徳川家当主としての無念の思いもあった。
「秀忠はまだ若いが、もしもの事も考える必要があるかもしれんな」
「もしもの事、ですか?」
正純が、怪訝そうな顔をする。
「仮に、このまま秀忠に子ができなかった場合じゃ」
その場合は、と家康は続ける。
「徳川宗家の名が絶えたとしても、徳川家の血を引く者によって徳川家は継承されていくべきじゃ。となれば、儂の末子らの子孫達こそが相応しい」
「そうですな」
正純も頷く。
「長福丸らが元服した暁には、それぞれ要地を与えて独立させる気じゃ。が、単なる親族の大名としてではなく、別格の存在としてじゃ」
「別格の存在、ですか」
「うむ。徳川将軍家の血を引くのだ。どこか要所となる土地を任せてもよいかもしれんな」
「なるほど。そうすれば、江戸や駿府からも遠い大名達への良い楔にもなりますな」
「そうであろう」
家康はそう言って小さく笑った。




