登場人物まとめ(2019/03/09追記)
話もだいぶ長くなってきたので、これまでの登場人物をまとめてみました。
最新話も同時に投稿してあります。
織田信忠(1555~1590)
織田家当主。
信長の死後、命からがら逃げのび、中国大返しを行った秀吉の活躍などもあり、明智光秀を討ち取った。
以後、父のなせなかった夢を果たすため天下を統一し、大陸へと目を向ける。
しかし、その手始めともいえる朝鮮攻略に思いのほか手こずる事になる。
同腹の弟である信雄の事は溺愛していたが、信孝は冷遇気味であり、その不満が爆発し、造反され、朝鮮から帰国途中に命を落とす事になる。
彼の死後、織田家は事実上崩壊し、豊臣と徳川によって天下は引き継がれる事になる。
織田信雄(1558~)
織田信長の子であり、信忠の弟。
武将としては、父や兄と比較すると凡庸と評価される人物だが、人当たりの良い性格をしており兄である信忠を含む多くの人物から好まれていた。
信孝の造反時は、大坂方の事実上の総大将として年少の秀信に代わり大坂城を防衛。家老らの裏切りにあいながらも、何とか守り抜く事に成功する。
関ケ原合戦時は親家康派だったが、秀信が事実上の人質にとられた事から両軍の間で揺れ、表向きは西軍として行動しながらも消極的ながら東軍を支援した。
戦後、織田家や天下を巡る争いや戦に嫌悪感を持つようになり、隠居。
以後は常真と称するようになる。
織田信孝(1558~1590)
信忠・信雄の弟。
信長からは才気を見込まれ、四国征伐軍の大将に任ぜられるが、本能寺の変の影響を受け、兵達の多くが逃亡。
中国から大返しを行った秀吉と共に、第一次山崎の戦いで活躍するも、名実共に織田家を束ねる事になった信忠からは嫌われ、冷遇される。
大陸出兵が行われた際、自分と同様に信忠政権に不満を抱く柴田勝家らと共に決起。反旗を翻す。
信忠を討ち取り、勝家らに大坂城を攻めさせると同時に、自身は徳川家康や叔父の織田信包の軍勢と戦うが大敗。
最終的には、安土城に篭るが落城。自害に追いやられた。
織田秀信(1580~)
信忠の子。
信忠亡き後は、名目上の織田家当主となり、秀吉と家康による専横に手が出せなかった。
成人後は、天下人だった織田の当主である事に強い自覚と執着を持ち、織田に代わる天下人となった徳川家や江戸幕府を認めようとしない。
柴田勝家(1522~1590)
織田家の家臣。
織田家の重臣として、織田家を支え続け、北条征伐や東国平定などでも活躍した。
信長の死後、秀吉が台頭してくるが自身が老齢に入った事などもあり、表舞台から身を引こうと考えていたが、妻となったお市の方や昵懇の間柄になっていた信孝らに強い誘いを受け、安土方の重鎮として信忠・秀信親子に反旗を翻す。
しかし、大坂城攻めに失敗し、大陸遠征軍の帰還を許し。第二次山崎の戦いでも敗戦。討ち死にした。
明智光秀(1528~1590)
織田家の家臣。
本能寺の変で織田信長を討ち取る事に成功するも、信忠を取り逃がし、中国大返しを行った羽柴秀吉によって討ち取られた。
と思われていたが実は生きており、信孝の決起の際は信忠や秀吉に敵対し、名護屋城を占拠する。
これにより、大陸遠征軍との連携を絶ち、大坂方を苦境に追いやるが、最終的には討ち取られた。
前田利家(1539~1599)
織田家の家臣。
信孝の決起時は勝家と親しく領国の周囲を安土方に囲まれていた関係から、安土方として行動するも秀吉との関係から日和見な態度を取る。最終的には、戦局が大坂方に傾いたのを悟り、安土方から金森長近と共に離反。能登・加賀の二か国の太守としての地位を守る。
信孝討滅後も秀吉と親しい事から地位を保ち、家康の仲介役などを担当した。
関ヶ原の戦いでは、当初西軍として参戦し、松尾山城の抑えを担当していたが、西軍を見放し、関ヶ原から撤退。
戦後、親豊臣の立場をとっていた利家は責任を取る形で隠居して利長へと家督を譲った。関ヶ原合戦の翌年に病没。
金森長近(1524~)
織田家臣。
織田信秀の時代から仕える老臣。
物語当初は柴田勝家らと共に上杉の軍勢と戦っていた。
上杉が織田に下ってからは、東国の制圧に勝家と共に貢献。
信孝の決起では、勝家が安土方の中軸を担っていた事から安土方に。大坂方に着いた上杉軍と再び敵対する事になるも、前田利家同様に安土方に深く肩入れする気になれず、戦局が不利になるとあっさりと大坂方に寝返った。
関ケ原合戦では東軍に着き、西軍の軍勢と戦った。
羽柴秀吉→豊臣秀吉(1537~1598)
織田家家臣。
本能寺の変の後、光秀討伐での功績による権力を拡大させる。四国征伐や、九州征伐などで功績を重ね、事実上の筆頭家老となる。
朝鮮攻めでは、実質的な総大将となり信忠渡海後に帰国。
信忠横死後は、天下を志すようになる。
織田信孝に、徳川家康と共にとどめをさすと、急速に勢力を拡大。名実共に織田家の筆頭となり、朝廷にも接近し、関白職を得る。
関白職を秀次も譲ってからも、太閤として絶大な権力を握り、子の秀頼の為にも豊家安泰の為、最大の対抗馬である家康の排除に執念を燃やす。
天下分け目となる関ケ原合戦では、西軍の総大将として指揮を執るも、味方の造反などもあり敗戦。
天下取りに王手をかけながらも、無念の最期を迎える事になった。
羽柴秀次→豊臣秀次(1568~)
羽柴秀吉の甥。
子供のいなかった秀吉の養子となり、後継者候補の筆頭となる。
天正大乱の際は、安土方に奪われた名護屋城の奪還を命じられるが、その攻略に手こずり、諸将に「戦下手」の印象を与えてしまい、自身も戦への自信を失う。
その後、豊臣姓と関白職を得るが、秀吉に子が生まれると、自身の立場に危機感を覚え、豊臣秀長や浅野長政らの乗っ取り計画に消極的ながら加担。計画が秀吉に露見した後も処罰される事はなかったものの、粛清に怯える事になる。
関ケ原合戦敗戦後は色々と重荷が下ろされ、あらゆる地位を返上し、高野山へとのぼった。
その後は緩やかな余生を過ごしている。
子が何人かいるが、秀次が高野山にのぼった後は皆、出家している。
豊臣秀頼(1593~)
豊臣秀頼の子。
秀吉の死後、秀次も高野山にのぼった為、豊臣家の当主となる。
小早川秀秋(1582~)
北政所の甥であり、親族の少なかった秀吉が養子とした。
秀頼誕生後は、立場を危うく思った北政所と黒田孝高の進言もあり小早川家の養子となり筑前の領土を相続するが、関ケ原合戦の後は宇喜多秀家の旧領である備前に移封。
浅野長政(1547~)
秀吉の家臣。
古くから秀吉に仕え、様々な面から秀吉を支えた。
しかし、豊臣家の末を案じ、徳川家の石川数正らと共に豊臣・徳川両家の乗っ取りを企てるも露見。
隠居に追いやられる事になる。
黒田孝高→如水(1546~)
秀吉の家臣。
蜂須賀正勝や浅野長政と共に秀吉の天下取りに貢献。正勝が病没し、長政が失脚して以降は最寄りの側近として秀吉の傍に置かれる。
関ケ原合戦を自身最後の戦いと定めるも、敗戦。秀吉亡き後の豊臣家に忠誠を誓い続ける気にはならず、九州へと無断で帰国する事になる。
子の長政には苦手意識を持つが、当主としての器量は認めている。関ケ原合戦の敗戦後は隠居し、黒田家の実権も譲った。
隠居後は、満足な戦ができなかった未練から鬱屈な毎日を過ごしていたが、人生の最期を飾る為に大坂方につく事を決断する。
黒田長政(1568~)
黒田家当主。
父から黒田家を受け継ぎ、黒田家の事を常に第一に考えている。
豊臣家が弱体化した後は、新たな主となった徳川家の為に力を尽くす事を決意する。
福島正則(1561~)
秀吉の家臣。
四国征伐後、秀吉子飼いの出世頭となり、諸将からの信頼も厚い。
織田信孝征伐後は、安土方に組した大友義統の旧領である豊前を任される。
以後、元々友好関係にあった加藤清正や黒田長政ら九州の大名達との関係を深め、豊臣政権下において独自の派閥を築く。
関ケ原合戦時は、戦乱が長引くと予想し、戦力の温存を狙ったが、予想外にも早く東軍の勝利という形で終結してしまう。
しかし、九州の諸侯をうまくまとめあげ、本州を統一した東軍と強気の交渉を行い、優位な条件で和睦する事に成功する。
蜂須賀家政(1558~)
秀吉の家臣。
秀吉の覇業を支えた蜂須賀正勝の子。
正勝の後を継ぎ、阿波の領主となるも、秀長と近い立場にあった為、関ヶ原合戦では大坂城に留め置かれた。
秀吉死後は、完全に豊臣家に見切りをつけ幕府を支える事にした。
仙石秀久(1552~)
秀吉の家臣。
織田家の美濃攻略時代からの股肱の臣。
多くの戦場を渡り歩き、一国の大名にまで出世する。
しかし、秀長と親しかった為、関ケ原合戦では家政同様に大坂城に留め置かれた。
讃岐を長らく領していたが、幕府の政策により信濃に移封される。
小西行長(1558~1598)
秀吉の家臣。
大陸出兵時に思わぬ活躍を見せ、名をあげるがこの時から加藤清正との間に軋轢が生まれる。キリシタンでもある事から、日蓮宗の信徒でもある対立の原因の一つとなってしまう。
清正との対立は、その後も続き、最後まで和解する事はなかった。
関ケ原合戦では九州の地に残った清正警戒の為に兵を残しつつも、西軍の一員として本戦に参加するが西軍は敗北。逃走に失敗し、松倉重政に捕縛されるが、命乞いする事もなく斬首された。
領国も東軍に召し上げられ、小西家は事実上消滅したが、行長の家臣や領地にもキリシタンである彼の影響を強く受けており、行長の死後もそれは続く事になる。
徳川家康(1543~)
織田信長の同盟者。
本能寺の変の後も、忠実な織田家の同盟者として織田家の勢力拡大に貢献しつつも、自身の力も拡大していく。
北条征伐後は新たに手にした江戸に目をつけ、広大な城下を築き徳川家の新たな本拠とした。
織田信孝との戦いでは、大坂方の勝利に大きく貢献。秀吉に次ぐ天下の権力者となる。
その後、秀吉と激しく派閥抗争を繰り広げ、最終的には関ケ原の戦いへと発展。この戦いで東軍の総大将として西軍を撃破。秀吉を討ち取る事に成功する。
宿敵である秀吉を討ち取ってからは、江戸に幕府を開くが、2年で隠居し、将軍職を秀忠に譲る。
自身は大御所として、将軍・秀忠と共に天下を治めるが、少しずつ秀忠の方針と溝が出来始める。
大坂の織田家は残す気でいたが、浪人達の暴発により不本意ながら大坂攻めを決断する。
徳川秀忠(1579~)
家康の子。
徳川家の後継者。
冷酷ではあるが、優れた才能を家康に評価され、後継者に指名される。
幕府の安定を何よりも優先して考え、織田や豊臣といった旧勢力を快く思わず、義理堅く織田や豊臣を尊重する家康との間に溝ができる。
幕府の害になりかねない大名達の積極的な改易を目論見、自分の弟達であっても例外ではないが、同腹の弟である松平忠吉や浪人時代から重用している立花宗茂などには甘い面もある。
徳川家光(1604~)
秀忠の子。
順当にいけば、三代将軍となる人物だが病弱の為か、気弱な性格。
徳川忠長(1606~)
秀忠の子。
松平秀康(1574~1598)
家康の子。
徳川家の家督に拘り、秀忠に敵愾心を持つ。
父や家臣達に認められようと奮戦するが、どこか空回り気味。
最終的には手柄への執着から、関ケ原合戦での暴走を招き、無念の最期を迎える事になった。
しかし、本多正信にその死を惜しまれ、子の忠直は加増を受ける事になる。
松平忠輝(1592~)
家康の子。
伊達政宗と関係が深く、政宗の長女である五郎八姫を正室として迎えている。
本多正信(1538~)
家康の家臣。
家康の側近として侍り、様々な形で補佐する。
榊原康政や本多忠勝とは不仲。
家康が秀忠に将軍職を譲ってからは、駿府城に移った家康には同行せずに江戸城に残り、秀忠の補佐を任される事になるが、秀忠からは快く思われていない。
本多正純(1565~)
家康の家臣。
父・正信同様に徳川家の発展に尽くす。
家康からの信頼も厚く、独自の派閥を築いているが、敵対する相手からは蛇蝎のように嫌われている。
父親と同じく、秀忠からは快く思われていない。
榊原康政(1548~1599)
家康の家臣。
家康の覇業に大きく貢献した徳川家の誇る猛将。
一度は出奔しながら主君である家康から信頼の厚い本多正信の事は毛嫌いしているが、それ以上に豊臣秀吉の事を嫌っている。
関ケ原合戦時には凄まじい奮闘を見せるが、その時に負った傷が原因で翌年に亡くなった。
井伊直政(1561~1613)
家康の家臣。
徳川四天王の一人であり、「井伊の赤鬼」の異名を持つ名将。苛烈な性格であり、敵からも家臣達からも恐れられている。
家康の子である松平忠吉には娘が嫁いでおり、その関係もあって忠吉を高く評価している。
関ケ原合戦では重傷を負うも、家康の将軍宣下とほぼ同時期に復帰。
新たな領国となった北近江に統治に専念する事になる。
その後、家督を譲り忠吉と共に大坂織田家との融和を図り、その実現手前にまで来るものの浪人達の謀略により亡きものにされる。
伊達政宗(1567~)
伊達家当主。
東北仕置き後、織田家に従属する。
信忠の死後は、次代の天下人候補として家康に接近。
伊達家の繁栄の為、様々な謀略を巡らせる。
江戸幕府が開かれた後は、家康のみならず秀忠の機嫌も取り、警戒されつつも外様としては最大規模の大名として優遇される。
天下の副将軍を自称し、徳川家に忠誠を誓いつつも、自家の天下取りへの布石も打ち続ける。
片倉景綱(1557~)
政宗の家臣。
幼年期から政宗を様々な面で支える、伊達家の要。
政宗からの信頼も厚い。
伊達成実(1568~)
政宗の家臣。
勇猛果敢な武将であり、他家からの評価も高い。
政宗には忠実に仕えていたがが、極秘裏に行われた鬼庭綱元の偽りの出奔劇などが原因で溝が出来始めている。
鬼庭綱元(1549~)
政宗の家臣。
安土方と内通した疑いをかけられ、出奔。
才を惜しんだ秀吉が登用する。
しかし、実際にその出奔劇は政宗と景綱による狂言であり、豊臣家の情報を密かに伊達家に流していた。
関ケ原合戦で西軍から寝返ると、そのまま伊達家に復帰。
豊臣時代に秀吉の発案により、名を鬼庭から茂庭に改めている。
上杉景勝(1556~)
上杉家当主。
織田家と敵対していたが、滅亡寸前にまで追いやられる。
本能寺の変で信長が没した後は、勢力拡大を目指して信濃へと侵攻。織田・徳川家に対抗する為に北条家と同盟を結ぶが、その裏では織田に下る機会を窺っており、北条を見捨てる形で織田に従属。北条征伐にも貢献し、家名を保つ。
信孝の決起時は大坂方につき、領国を拡大させる。
秀吉と家康の争いでは、親秀吉の立場を取り続ける。庄内の地を巡り、関ケ原合戦の発端となる徳川家と親徳川大名による上杉征伐を引き起こす。
東軍主力が西上している間に、勢力の拡大を目論むも、関ケ原で西軍が破れた事により計画は破綻。
直江兼続(1560~)
上杉家の家臣。
家督相続時から、主君・景勝を支える。
景勝からの信頼も厚く、上杉家の勢力拡大に貢献。
関ケ原合戦では、西軍優位と考えて西軍に属するが、その判断が完全に裏目に出てしまう。
戦後は、上杉家の立て直しに力を尽くす。
毛利輝元(1553~)
毛利家当主。
本能寺の変の際は秀吉の中国大返しにも協力し、親織田、親秀吉の立場を取り始め、第一次山崎の戦いの後、正式に織田家に従属。
四国征伐や九州征伐にも貢献し、四国や九州にも所領を増やす。
信孝決起の際は、大坂方の勝利に貢献。戦後、五大老の一員となる。
家名を守る為、冷酷な部分もあり、秀吉に毛利家乗っ取りを企てられた際には、小早川家を。関ケ原での責を問われた際には安国寺恵瓊を切り捨て、毛利家を守った。




