174話 西国平定4
――大坂城。
この城を奪還した徳川家康の元に、相次いで諸大名が訪れてきている。
関ケ原の戦いでは、中立を保っていた堀秀治や、一度は秀吉に組しながらも戦線から離脱した前田利長らも大坂城に参集した。
利長は、関ケ原での事を詫び、改めて徳川家に忠誠を誓う事、父を責任を取る形で隠居した事、さらには母親(芳春院)を江戸に人質として差し出す事などを告げた。
「前田家も、随分と低姿勢だったの」
家康が、傍らの本多正信に言った。
秀忠への目付として、西国遠征軍に同行した子の正純と違い、彼は大坂に残り家康を補佐していた。
「はい、それでもまだ油断はできませんが。関ケ原の戦いが始まる直前まで、間違いなく西軍に組する気でいましたからな」
「まあ、中立でも良いと言ったのは儂じゃからな」
家康は関ケ原合戦が始まる直前、味方に引き込めそうな大名達には片っ端から、東軍に付けば加増、中立でも所領を安堵する事を条件にした内容の書状を送っていた。
前田家の離反は、その効果の表れともいえる。
「それにしても、その割には芳春院様も随分と図太いというか。この状況であのような要求をしてくるとは……」
苦虫を嚙み潰したような表情で正信は言う。
人質として家康の元に送られた芳春院であったが、ある要求をしてきた。
それは、現在は家康の元に身柄を預けられている宇喜多秀家の助命懇願だった。
宇喜多秀家の室である豪姫は、芳春院の娘でもあり、その縁からの要求である。
「まあ、元々儂も命まで取る気はないがの」
そう言って、家康は髭をさする。
例外的だった小西行長を除けば西軍大名の命まで取る気はない。
無論、今後は徳川公儀に歯向かえないよう力を削ぐ気ではいたが。
「宇喜多秀家は流罪。領国の一部は、忠家に与えるものとする。前田も所領安堵。ただし当面は要警戒という事でよかろう」
「甘すぎませぬか? 宇喜多も前田も太閤と昵懇の家。対応を間違えるとつけあ
がるだけかと」
辛辣な物言いではあったが、家康は咎める様子はなく寛大に頷く。
「まあ、そうかもしれんがな。宇喜多も前田も大国。無理に潰そうとすれば、それは必ずや歪みとなろう。それに、主家を失えば浪人が大量に出る事になるのだぞ」
「それはそうですが……」
正信は言い淀む。
「それよりも、そろそろ九州の方を片付ける必要がある」
九州は思いもよらぬ結束を見せ、一つにまとまってしまった。
今のままでは、無理に攻め寄せたところで大きな犠牲を払う事になるだろう。
「殿」
ここで襖が開かれ、一人の男が入って来た。
顔色はあまりよくない。
徳川三傑の一人、井伊直政である。
関ケ原の合戦で重傷を負って以降、今は療養していたはずだ。
「是非とも某に九州との取次を。お役に立ってみせます」
「気持ちは有り難いが……」
明らかに、彼の体は回復しきっていない。
一時は生死の境を彷徨うほどひどい状態だったというから、今の状態でもだいぶ回復しているのだろう。
それでも危うい事には間違いない。
「何卒」
井伊直政は、戦場だけでなく外交面でも優れた才を見せる男だ。
彼は、来年で40になる。
まさに武将としての全盛期を迎えようとしているのだ。
「直政、ここは大人しく休んでおれ」
だからこそ、無理をさせるわけにはいかなかった。
彼を失う事は徳川家にとって大きすぎる損失なのだ。
「上様……」
直政は悲しげな顔を浮かべる。
「おい」
軽く手を鳴らすと、家康の小姓らが現れた。
「部屋まで送ってやれ。くれぐれも、大事にな」
小姓らに案内されるように、直政を連れていく。
「さて」
直政が退室した後、改めて正信と向き合った。
「上様、某が九州まで赴きましょう」
「む」
意外な発言に、家康は少し驚く。
「正信自らが赴く必要はなかろう」
「いえ、お任せくだされ」
正信の言葉に、家康は暫く考え込むように手を顎に当てていたが、
「まあ、良かろう。正信に任せれば、早々に九州勢を説得できよう」
「有り難きお言葉」
「儂も奴らの領土全てを没収する気はない。だが、あまりにも舐められては今後の為にならん」
「はい」
「徳川家の、いや勝者としての面子を保つ形で和議を結べ」
「はっ」
了承しました、と正信は退室していく。
そして、準備を整い九州の地へと赴いていった。
一方、家康は正信を送り出した後にある一室を訪れていた。
療養中の榊原康政の部屋である。
「これは、上様」
掛布団を払いのけて起き上がろうとしたようだが、その力すら既になくなっているのかわずかに布団が動いただけだった。
「そのままでよい」
家康としても、康政が危篤状態である事は分かっている。
無理をさせる気はない。
「みっともない姿をお見せしてしまいしたな」
苦笑しているようだが、既に頬もやつれ、顔色も悪い。
ろくに食事も摂れていないのか、体も痩せ細ってきている。
とても、『徳川三傑』と謳われた一人とは思えない状態だ。
「西国征伐はほぼ完了した。毛利も宇喜多も既に我らに下ったし、四国の長宗我部領も平定できた。九州の大名はまだ従っておらんが、それも時間の問題じゃろう」
「そうですか。もはや懸念材料はありませんな」
「うむ。後一歩で、儂らの築いた徳川家の天下統一の偉業がなる」
「三河時代から、これまで長い道のりでしたな」
顔色は悪いままだが、康政の顔は穏やかだった。
主君である家康を前にしても、過激な言動を見せる康政とは思えないほど穏やかな表情だ。
既に死期を悟って様子だが、恐怖の色はない。全てを受け入れているかのようだった。
「できるのであれば、上様が、晴れて天下人になられる姿を見てからと思っていたのですが、それよりも先に酒井殿や平岩殿のところに行く事になりそうです」
「康政……」
「ああ、あの憎たらしい禿鼠も既におるでしょうな」
ふふ、と小さく笑う。
既に豊臣秀吉は亡く、自身も死の淵にあるというのにこんな言葉が出てくる辺り、彼の秀吉嫌いは筋金入りのようだ。
「上様が来るまでは、まだ当分時間があるでしょうから、それまでは禿鼠でも追いかけまわして時間を潰すとしますかな」
「儂の方が年上なのじゃがな」
「何、上様に直ぐに来られては困りますぞ。上様はまだまだ生きてやらねばならない事があるでしょう。だから、もう――」
ここで、言葉が途切れた。
話している時は多少は良くなったと思った顔色が、再び悪くなってきた。
近くに控えていた医師が口を挟む。
「上様、そろそろ……」
「うむ。邪魔をしてか」
「とんでもありません。こちらこそ、このような事になってしまい申し訳ありませぬ。一人でも人手が必要な時期だというのに……」
「そのような事は気にするな」
養生せよ、と言い残して家康は退室していった。
そして、これが康政と交わした最後の会話となった。
この数日後、康政は黄泉路へと旅立つ事になる。
これでまた、戦国の世を生き抜いた男がまた一人逝ったのである。




