165話 決関ケ原13
前田勢が撤退した為、豊臣秀吉本陣は敵に囲まれる形となった。
前からは、宇喜多勢を壊滅させて豊臣秀次勢も壊滅寸前まで追いやり、勢いに乗った徳川秀忠を中心とした伊達政宗や池田輝政らの軍勢が迫る。
さらにはその背後からは、総攻撃をかけるべく徳川家康の本隊も動く。
一方、大谷勢を壊滅させた金剛勢もまた、秀吉を包囲すべく軍勢を動かしていた。
もはや、完全に秀吉の命運は尽きていた。
悲鳴や怒声、鉄砲の音などが聞こえているがどこか他人事のように秀吉は感じていた。
「……」
秀吉の顔に、恐怖の色はない。
ただ無表情で駕籠から出たまま、腕を組んでいた。
「殿下、ここは……」
しかし、このまま何の指示もないからといって突っ立ているだけというわけにはいかない。
敵はすぐ近くに迫っているのだ。
いつまで経っても、動こうとしない秀吉に焦れた速水守久が、急かすように撤退を進める。
「……」
秀吉の顔は、恐ろしいほどに無表情だった。
公家風に白く塗られた顔だけに、逆に何ともいえない不気味さがあった。
「どうか駕籠に。とにかくこの場から離脱するべきかと」
「うむ……」
秀吉がようやく頷いた事にほっとした守久は、即座に秀吉専用の豪奢な駕籠に秀吉を乗り込ませる。
「ゆけ」
守久が短く命じる。
その指示を受け、何とか戦場から離脱するべく秀吉に乗った駕籠が動き出す。
それを見送ってから、守久は敵を食い止めるべくこの場に残った。
一方、駕籠は凄まじい勢いで戦場を駆ける。
担い手たちだけでなく、周りの護衛達も必死だ。
何せ、戦場でこのような派手な駕籠であれば貴人が乗っていると相手に知らせるようなものだ。
案の定、すぐに敵に見つかり囲まれた。
味方ではない。辺り一帯に見える指物が、東軍である事を示していた。
護衛も必死に抵抗するが、一人、また一人と討ち取られていく。
秀吉の乗った豪奢な駕籠が置かれ、駕籠の担い手たちも戦おうとするが、むなしく討ち取られていく。
護衛の数が、目視で数えられるほどに減ってしまった頃、秀吉はゆっくりと駕籠から姿を現した。
「殿下……」
中から現れた秀吉を見て、護衛や担い手たちは驚いた様子で目を見開く。
「よい、これまでよく仕えてくれた。奴らが欲しいのは予の命じゃ。お前達の命まで無理に取ろうとすまい」
駕籠の担い手たちを見渡し、秀吉が告げた。
「この場から立ち去っても恨んだりはせん。好きにせよ」
担い手達は、互いの顔を見やる。
だが、やがて一人、二人とこの場から立ち去った。
が、半分ほどはこの場に残った。
「お前達も行って良いのじゃぞ?」
「いえ、自分達は最期まで殿下と」
「そうか」
秀吉は、それ以上言う事なくどっしりと腰を下ろした。
かつて、信長や家康同様に秀吉も逃げ上手と言われた男だ。天下人になる条件は、最期まで武人らしく戦う事ではない事を知っていた。
どんなに無様であっても、惨めであっても逃げ延びる事だ。かつて、浅井長政の離反にあって金ヶ崎の時に無様に逃げ出した織田信長のように。武田軍に大敗し、三方ヶ原の戦場から逃れ、その時の敗北を忘れぬために肖像画を描かせた時の徳川家康のように。
どれほど、屈辱的であっても生き延びさえすれば好機はいずれ訪れる。ゆえに、ここは逃げ延びる事が正解のはずだ。
だが、秀吉はそれを選ばなかった。
朝廷より、豊臣姓を与えられ、関白にまでなり、天下人を目指す男から、事実上の天下人へとなったからか。
それとも、歳のせいか。歳が気力まで奪ってしまったせいか。
あるいは、長年の武人としての勘がすでにこの戦場から逃げ出す事はできないと悟ってしまったせいか。
それは、秀吉にも分からなかった。
だが、こここそが自分の人生の終焉の地になるだろう事は何となくわかった。
……ふん。来たか。
やがて、敵勢が近づいてくる。
ひときわ派手な甲冑の武者が先頭だ。
太閤の首を獲るという大役は、端武者達がするべきではないと考えている為か、抜け駆けしようとする兵はいない。
武者が、秀吉に対峙するように立つと、口を開いた。
「某は、立花宗茂。太閤殿下とお見受けする」
「おう、西国無双か。大陸での戦いでは世話になったの」
秀吉の顔に、これから黄泉路へと旅立とうとする悲壮感はない。
ただ、旧友を懐かしむかのような顔だ。
その余裕を見せた表情に、宗茂は一瞬、気圧されそうになるも即座に切り替えた。
「その御命を頂戴いたす」
「致し方ないの。だが、少しは抵抗させてもらうぞ」
秀吉は、じっと宗茂を見据える。
公家風のその姿からは、考えられないほど、武士としての気迫が見える。
何せ、宗茂が生まれた頃には既に織田信長の元で戦場を駆けていた人物でもあるのだ。
「予は、豊臣秀吉じゃ」
改めて宣言するように、秀吉が言った。
「存じ上げております」
「家督は秀次に譲ったが、豊臣家の当主でもあるつもりじゃ」
「無論、それも」
「そして、豊臣家は公家であると同時に武家でもある。そして、予は――儂はその当主じゃ。簡単にはいかんぞ」
ゆっくりと、秀吉が脇差から刀を抜く。
そして、その切っ先を宗茂に突きつけた。
「……予の首、容易くくれてやるわけにはいかんぞ」
秀吉の視線が、宗茂と交差する。
直後、秀吉が動いた。
だが、そこは猛将として知られる宗茂である。
即座に反応した。
どれだけの誇りと気迫はあれど、既に老いた秀吉が相手では力の差は歴然だった。
宗茂の目には、秀吉の動きがやたらとゆっくりと見える。
「太閤殿下、御覚悟っ」
ずぶり、と宗茂の槍が秀吉に食い込んだ。
激痛を感じているはずだが、自然と秀吉の顔には笑みが浮かんでいた。
「ふ、ふ、ふ……」
ごぶり、と秀吉は吐血する。
「我が身の事も、夢の、また、夢……なかなか良い夢であった」
そう言い残したのが、最後だった。
公家風に、お歯黒の塗られた歯に赤いものが飛び散る。
がくり、と秀吉の体が項垂れる。
豊臣秀吉。
庶民の子から、信長と信忠に仕え、その繁栄の歴史は常に織田家と共にあった。だが、信長・信忠親子の死後は自身が天下を差配する事を夢見、自身が天下人になる夢を歩み出した男。
そして、その夢はすでに目の前。
手を伸ばせば、すぐにでも掴めるところにまで引き寄せていた。
だが、それは後わずかというところで届く事はなくなった。
意識を闇に吸われつつも、秀吉の顔に自然と笑みが浮かんでいた。自分は戦い抜いた。天下人一歩手前まで歩き続けたのだ。だが、その結果は報われる事はなかった。
まあ、それもいいだろう。何せ、多くの者たちは夢を目の前に引き寄せる事すらできずに逝くのだから。
目の前にまで引き寄せた自分は十分に幸運なのだろう。
ならば、これは最上に最も近い結末。その死を受け入れるべきだろう。
どさり、と秀吉の体が完全に崩れた。
そして、そのまま秀吉は黄泉路へと旅立ったのだ。
「豊臣秀吉、討ち取ったり――っ!」
宗茂の声が、関ヶ原の戦場に響き渡った。
この瞬間、西軍の総大将である豊臣秀吉は討ち取られた。
同時に、西軍の敗北、そして東軍の勝利が確定したのである。




