164話 決関ケ原12
茂庭綱元の裏切りに加え、織田信雄の東軍参戦により豊臣秀吉本陣は混乱状態に陥っていた。
そこにつけ入るべく、東軍勢は勢いをまし、西軍を攻め立てた。
それでも、まだ西軍の方が人数は多い。
まだ立て直しは可能だと思われていたが、西軍首脳がさらに仰天する事態が起きていた。
「……何?」
その報告を受け取った秀吉が、眉をぴくりと動かす。
「もう一度申せ」
声こそ小さいが、威圧感のある言葉だ。
「ま、前田利家様の軍勢が……」
報告に来た兵が、怯えた様子で口を動かす。
「戦線から離脱、致しました。他の北陸勢も同様ですっ」
「……」
「な、何故じゃっ」
怒りの為か、無言になってしまった秀吉に代わり、秀吉を警護していた速水守久が代わりに訊ねた。
「わ、わかりませぬ」
「分からんじゃと!」
兵に詰め寄ろうとした守久を、秀吉が抑える。
「良い」
「し、しかし。殿下……」
「単純な話じゃ。利家や北陸勢は予を見限ったのよ。かつて、柴田勝家を見放した時と同様にな」
半刻ほど前。
「我らにも戦線に加われ、か。だが応じる事はできんな」
松尾山城の抑えとして残されていた、前田軍本陣にて前田利家・利長親子が話しあっていた。
「茂庭綱元の寝返りに加え、信雄様の東軍参戦、さらには宇喜多勢も壊滅した」
「父上……」
「……どうやら、太閤も――藤吉郎もこれまでじゃ」
その言葉の主は、前田家当主・前田利家である。
老人となってからは、温厚な人柄となっていた彼だが、今の言葉はひどく冷たいものだった。
「……そのような事はないかと。」
息子である利長が、何とか反論しようと試みるが、その子を父・利家は冷たい眼差しで見つめるだけだ。
「利長、冷静に見よ。今の戦局で優位なのはどちらじゃ?」
「……」
利長も決して暗愚ではない。
茂庭綱元の寝返りや織田信雄の東軍参戦で浮足立つ西軍と、逆に勢いにのる東軍。
どちらが優位かは理解できた。
「しかし、我らはこれまで親豊臣の立場を……」
「そうよな。しかし、それは全て儂が――前田利家がやってきた事」
ゆえに、と利家は続ける。
「儂を拘束せい」
「なっ――!」
衝撃的な発言に、利長は固まる。
「何をしておる、時間がないのだぞ」
冷たく言う利家に、利長は慌てた様子で言う。
「し、しかし、殿下を見限るとしても何も父上を拘束する必要は……」
「いや、殿下とのつながりの太すぎる儂がそのまま前田軍を指揮して寝返っては、前田家の外聞が悪すぎる。ここは、徳川殿とつながりのあるお前が儂に反旗を翻して指揮権を奪った形にした方が良いのよ」
「父上……」
利長は驚いた様子で目を見開いた。
「し、しかし。本当によろしいのですか、父上は殿下と親交が……」
「利長よ」
利家が、前田家当主としての目でじっと利長を見据えた。
「儂は誰じゃ?」
「は?」
「殿下の、いや豊臣――羽柴秀吉の親友か? 前田家の当主か?」
「それは……」
利長は言い淀む。
が、間を挟みながらもしっかりと回答した。
「前田家の当主、です」
「その通り」
利家が毅然とした表情で答える。
「そして、お前は誰だ?」
「……」
黙り込んだ利長に、利家は采配を差し出した。
「これから、前田家の家督を継ぐ男じゃ。北陸一の大大名としてのな。ならば、取るべき道は決まっておるのではないか?」
「……そう、ですな」
がっくりと肩を落とし、利長は采配を受け取った。
「ですが、丹羽殿達は?」
松尾山城の抑えには、前田家の他に、丹羽長重、村上頼勝、溝口秀勝、赤座直保、大谷吉継らがいる。彼らは北陸の大名だが、前田家に仕えているわけではない。
「既に話は通してある。このような事態になった時、共に撤退すると大谷吉継を除く全員が既に了承しておる」
「いつの間に……」
父の手回しのよさに、利長は思わず感心した。
「では、これで……」
「うむ。心おぎなく戦場を去れるであろう」
「――我が前田家は、これより撤退するっ」
「いったいどうなっておる!」
あまりの状況に理解できず、思わず叫ぶように怒鳴り散らしたのは大谷吉継だった。
無理もない。
秀吉からの命令を受け、秀吉本隊の支援に行くものと思っていた前田勢や他の北陸勢が、戦場から去るように突然離脱してしまったのだ。
吉継の元には、その事に関して何の連絡も来ていない。
「わ、わかりませぬが、これは」
家臣の湯浅隆貞が恐る恐る口を開いた。
「前田勢はその、殿下を……」
「見限ったというのか」
吉継は唖然としていた。
起きてしまった現実が信じられないといった様子だ。
「し、信じられん……」
だが、これはまぎれもない現実だった。
周りの部隊が撤退し、大谷勢だけがぽつんと残された状況で、待っていたと言わんばかりにこれまで守りに徹していた松尾山の金剛勢5000がこちらに攻撃を仕掛けてきた。
大谷勢も奮戦するが、大谷軍は2000。
2万の兵で松尾山城を囲んでいた時とは対照的に、劣勢に立たされてしまった。
「丹羽殿や村上殿も殿下を見限ったのか……」
崩壊しつつある軍勢の指揮を執りながらも、吉継は未だに彼らの無断撤退が信じられなかった。
だが、丹羽長重は元々理不尽な理由で秀吉に征伐され、領土を大幅に削減された。
秀吉に大きな恨みを抱いていた。
村上頼勝と溝口秀勝は、元々長重に仕えていおり、時勢を読んで秀吉に組したに過ぎない。
秀吉に対する忠誠心は、そこまで高くなかった。
吉継もそれは理解している。
だが、最大の兵力を引き連れており、しかも秀吉とは昵懇の仲だったにも関わらずあっさりと見限った前田利家に対しては、吉継の憎しみは集中した。
「おのれ、前田利家! この人面獣心があぁぁっっ!!」
吉継の言葉もむなしく、大谷勢は蹂躙され、吉継も討ち取られてしまったのである。




