163話 決関ケ原11
「茂庭綱元の寝返りにより、豊臣秀吉本陣混乱! さらには、井伊直政の猛攻を受け、豊臣秀次の軍勢も崩壊しつつありますっ」
南宮山――織田信雄の陣。
これまでずっと、傍観に徹していた信雄だったが、相次ぐ報告を聞いてすっと目を細めて立ち上がった。
「――そうか」
「信雄様」
傍らの佐久間信栄が口を挟む。
「どうされるのですか?」
「我らもそろそろ動く。我らを監視しておる徳川の部隊に使者を送れ」
「という事は……?」
「徳川右府に加勢する」
信雄が言った。
「すぐに伝えてこい」
「はっ」
信雄の指示を受け、早馬が駆けていく。
「もう少し様子を見てからの方が良かったのでは……?」
傍らから、土方雄久が不安そうに口を挟んだ。
「いや、もう頃合いじゃろう」
信雄は首を左右に振る。
「この情勢で儂が加勢すれば、東軍はほぼ確実に勝ちを拾える。このまま儂が傍観を続ければまだ西軍が立ち直る事ができるかもしれんが、元々儂は東軍の勝利に期待していたのだ。このまま東軍が勝てるなら、それにこした事はない」
「内府様!」
そこに、慌てた様子で信雄のところに駆け込んでくる男がいた。
西軍から、目付としてよこしていた富田一白である。
「おお、ちょうど良いところにきたの」
信雄はそんな一白を見て呑気そうに言った。
「これより、我らは徳川右府に加勢する事となった。よって、そなたも役割もこれで終わりだ。太閤のところに帰られるがよかろう」
「な、なにを仰せか!」
信雄に近寄ろうとした一白だが、それを阻止するように信雄の近習達が立ちふさがった。
「まあ、落ち着け。我らは別にそなたをどうこうする気はない。何なら、護衛の兵もつけた上で太閤のところに送り届けてもよい。 ……その頃には太閤の首が胴体と離れているかもしれんがの」
「では、太閤殿下に背くと?」
「太閤――秀吉に背く、とな」
皮肉げに信雄は顔を歪める。
「まるで、儂が太閤に仕えておるような物言いじゃのう」
「それは……」
信雄の気分を害してしまったかと、一白は何とか取り繕うような言葉を出そうとするが、良い言葉が出てこない。
「用件は終わりか? ならば」
「お待ちくだされ!」
一白は、信雄の言葉を強引に遮った。
「何卒、お考え直しを! 太閤殿下は内府様にご加勢いただけるのであれば、美濃、三河を恩賞にと仰せなのですぞっ」
「ほう。以前の話では確か、美濃一国という話だったが」
秀吉は、信雄が西軍に加勢した場合、恩賞として美濃一国を与えるという条件で一白に交渉を命じていた。
だが、状況次第では三河一国を付け足しても良いと指示を出していた。
何せ、このまま天下を平定してしまえばもはや織田一族などどうにでもなる。
どれだけ恩賞を与えようと、適当な理由をつけて取り上げれば良いと考えられていたのだ。
「さらには、右大臣の地位もと」
「ふん、奮発したものだの」
「何卒!」
さらに畳みかけるように言う一白に、信雄は苦笑した。
確かにこの状況で信雄が西軍として、東軍の背後をつけば勝負はまだわからない。
西軍が態勢を立て直してしまえば、そのまま東軍を一気に壊滅させる事すら不可能ではなくなるのだ。
しかし、信雄は首を横に振る。
「だがな、悪いが儂はもう領地や地位に興味はないのだ。織田一族の人間として、これまで生きてきたが、色々と疲れた。この戦いが終われば隠居しようと思うておる」
思わぬ言葉に、一白は絶句する。
「徳川右府が勝ったとしても、恩賞をねだる気はない。むしろ、領土を一部返上しようと考えておる。あまりに大身すぎては逆に身を亡ぼす気にはなりかねんからのう」
「で、ですが……」
「儂はもう、天下人などというものには拘っておらん。いや、大大名としての地位すら不要じゃ。茶でも楽しみながら、穏やかな余生を送る事ぐらいしか興味がない。 ……戦はもういい」
これまでどこか達観したような静かな口調ではあったが、最後の言葉だけは力がこもっていた。
「そういうわけだ。そなたの話には乗れんのだ。悪いな」
それだけ言うと、話は終わりだと言わんばかりに信雄は近習に一白を立ち去らせるよう、指示を出した。
――織田信雄、東軍に加勢。
この情報は、瞬く間に戦場に広がった。
南宮山という離れた位置に布陣していた為、信雄勢は即座に西軍に攻撃を仕掛ける事ができたわけではない。
しかし、これまで傍観していた数万の兵が東軍に加わったのだ。
東軍の士気は高まり、逆に西軍の士気は一気に下がった。
何せ、茂庭綱元の寝返りでただでさえ混乱状態にあったのだ。
そんな中での信雄参戦である。
徳川秀忠はさらに軍勢を前に押し出し、西軍を圧倒していった。
これまで背後に控えていた毛利輝元の軍勢も参戦し、必死にその勢いを抑えようとしているが、東軍の勢いはそれでも止めきれずにいた。
宇喜多秀家の軍勢もまた、その東軍の勢いに飲み込まれようとしていた。
「殿! これ以上は危険ですっ」
秀家家臣の、明石全登の悲痛な声が響く。
宇喜多軍は、本多忠勝と金森長近の戦経験豊富な二人の武将、それに真田信之と佐竹義宣の軍勢によって壊滅寸前にまで追いやられていた。
秀家も、大陸遠征や丹羽征伐で経験を積んでおり、この状況が圧倒的に不利である事ぐらいは分かる。
「何とからんのかっ」
だが、それでもこの劣勢を何とかしたいという強い思いがあった。
ここで自分達が崩れれば、西軍の壊滅すらありえるからだ。
「無理です! ここは何とか撤退をっ」
「撤退じゃと!」
怒鳴るような秀家の声が戦場に響く。
「ここで儂が撤退すれば、西軍はそのまま敗走する! にも関わらず儂に退けというのかっ」
「ですが、このままでは殿の御命が!」
全登の声が、悲鳴や銃声で搔き消される。
もはや敵勢は、すぐ近くまで迫っているのだ。
「ここは某が時間を稼ぎます! 何卒!」
「しかし……」
「殿の御命が失われては、それこそ宇喜多家は終わりです!」
全登の懇願に近い言葉に、遂には秀家も折れた。
「糞! だがこれは、一時的な離脱にすぎんからなっ」
それだけを言い残すと、秀家はわずかな供回りと共に離脱していった。
宇喜多勢はそのまま大きな被害を受ける事になる。
そして、宇喜多勢を崩壊させた本多忠勝らは、そのまま西軍の一挙壊滅を目指し、さらに軍勢を進めた。




