162話 決関ケ原10
豊臣秀次が井伊直政の猛攻を受け、東軍が西軍を押しつつあるという報告を受け取っても、豊臣秀吉の顔にはまだ余裕の色があった。
「まだ立ち直れる」
西軍には、これまで戦闘に加わっていなかった北陸勢も残っている。一方の東軍は徳川家康の本隊も含めてほぼ全軍が戦闘に参加している。
南宮山の織田信雄の抑えとして、北条氏勝や水野勝成が残っているが、信雄の本意が分からない以上、彼らは動かせまい。
実質、東軍は今戦場にいる駒で戦うほかない。
ならば、十分に反撃は可能だ。
秀吉がそう考えた矢先。
「で、殿下!」
慌てた様子で伝令が駆け込んできた。
「どうしたというのだ、騒々しい」
嫌な予感を感じつつも、動じていない、といわんばかりに余裕の色を表情に出して訊ねた。
「そ、それが……」
ごほごほ、と伝令は咳込む。
「落ち着いて話せ。何があった」
「か、返り忠――寝返りですっ」
「何!?」
秀吉の目が大きく見開かれる。
「誰じゃ! 誰が予を裏切った!」
「茂庭綱元ですっ! 我が陣営に槍を向け、攻撃を仕掛けてきておりますっ」
「何じゃと?」
ぴたり、と秀吉の動きが止まる。
「綱元じゃと、何故綱元が……」
公家風の秀吉の表情が、瞬く間に驚愕に染まっていく
伝令の言葉の示すように茂庭綱元の部隊が、秀吉本陣に向けて動いたのである。
瞬く間に突撃を始める。
綱元の部隊は、2000ほど。
10万規模の大軍のぶつかり合いのこの戦いでは、決して多いといえる数字ではない。
が、この秀吉本隊の背後をつける機会を狙っての寝返りだ。
豊臣本隊の混乱は言うまでもない。
秀吉本隊は大混乱状態に陥ってしまった。
「いかん、兵を鎮めよ! 慌ててはならんっ」
秀吉の慌てた声が戦場に響いた。
「綱元が寝返ったぞっ! この機に一気に押し出せっ」
伊達軍の本陣で、喜悦の表情を浮かべた男がいた。
伊達家当主・伊達政宗である。
彼は、元より綱元の寝返りを知っていた。
というより、彼の腹心である片倉景綱の発案だったのだ。
「やりましたな。殿」
「全ては、主の策通りよ」
ふふ、と政宗が上機嫌で笑った。
かつて、織田信忠が討たれ、織田信孝が決起した事により織田家は真っ二つに割れた。その際に、天下人としての織田家の終焉と、日の本が乱れるであろう事を、景綱は予見した。
そして、主君・政宗に天下を奪う機会が訪れた事も悟った。
だが、政宗は中央から離れた奥羽の地に存在する大名だ。悪い言い方をしてしまえば、田舎大名に過ぎない。
伊達家は古くから続く名家だが、将軍すら追放された今の時世ではそんなものはほとんど役に立たない。
そして、今の時点で伊達家単体で天下取りに名乗りをあげたところでほとんどの大名が着いてこない事も分かっていた。
当面は、誰かを天下人として崇めてその地位を高める事に決めたのである。
その天下人とする相手を、徳川家康と定めた。
何としてでも、家康に取り入る必要がある。
徳川家康に天下を取らせるとすれば、最大の敵は豊臣秀吉という事になる。その秀吉討滅に貢献すれば、自然と伊達家の地位は高まる。
その秀吉に、毒を食らせる事にした。
その毒が、茂庭綱元だったのである。
豊臣・徳川両家の争いが長期に渡ると考えた景綱は、実に遠大な計画を立てた。天正大乱から、綱元との不仲を伊達家中を含む周囲に強調し始めた。
偽りの出奔劇に備えた、伏線を張ったのである。
やがて、諸大名の間に政宗・綱元主従の間の不和の噂が囁かれるようになる。
黒幅巾組の調査で、噂が十分に広まった事を確信した政宗は、遂に成実を出奔させる。
その事を知った諸大名はそれを惜しんだ。
綱元の勇名は、既に各地に轟いている。
政宗がそれを手放すというのであれば……と、仕官の大名達は進めた。当然、かなりの禄高を与えるという者もいたが、綱元はなかなか首を縦に振らなかった。
だが、この拒否の仕方は心の底から武士を嫌がっての拒絶ではないと考えた秀吉は小大名級の石高を提示する。
この条件で、遂に綱元は首を縦に振った。
そして、秀吉の期待に見事に応える。丹羽討伐でも綱元は活躍し、秀吉の信頼はさらに高まり、4万石ほどにまで石高は加増された。
1万石で動員できる兵は、およそ250人から300人といったところ。
つまり、成実は1000人から1200人ほどの人数を差配する力を与えられた事になる。
しかも、今回の関ヶ原合戦では「殿下の役に立つため」と軍役以上の兵を動員していた。
忠義からの言葉とあり、秀吉もそれを咎めなかった。
結果として、2000ほどの敵兵が、秀吉の間近に現れる事になったのである。
「この状況下での綱元殿の寝返りは、秀吉に与えた衝撃も大きいでしょうな」
「そうよのう」
ふふ、と政宗も笑う。
綱元の裏切りにより戦場の流れは完全に変わってしまった。
一進一退、いやわずかではあるが西軍優位で進んでいた戦場は東軍優位へと傾き始める。
それでも、前線の武将達は必至に陣営を立て直そうと声を張り上げる。
「馬鹿者っ! 浮足立つな! 戦え、戦えーっ」
「綱元風情の部隊など、すぐに潰せる!」
「貴様ら、それでも儂の鍛えた家来か!」
だが、その動揺は大きかった。
そこを、当然の東軍もつく。
「敵は総崩れじゃ! 攻めよ!」
「既に秀吉は退却を始めたぞ!」
「何を言う、既に秀吉は討ち取られておるのだぞ!」
虚言も交えた、東軍の言葉に自然と西軍もざわついてるの分かる。
東軍はこの機に総攻撃をかけようとしていた。
「……」
そんな中、傍らに控えていた伊達成実の内心は主君の政宗とは対照的に複雑だった。
綱元出奔のからくりなど、彼はまるで聞かされていなかった。この戦いがはじまる直前になって初めて知らされたのだ。
……全ては、あの時から――。
天正大乱の時、寺池城を攻めていた時の軍議を思い出す。
あの時、政宗暗殺の疑惑がかかった綱元を政宗は糾弾した。
だが、あれは今思えば芝居だったのだろう。
成実を含めた伊達家の重臣達ですら騙す為の。
実際に、それはうまくいった。
成実すら、騙されたのだ。
秀吉も騙され、綱元を受け入れた。
だが、秀吉の信頼を築く裏で密に情報を政宗の元に送り届けていたのだ。
……殿は、そこまでして。
成実の内心に、苦いものが込み上げてくる。
成実も、幼年期から伊達家に仕える重臣だ。
にも関わらず、彼にはこの偽りの出奔劇に関して何一つ聞かされていなかったのである。
全ては、政宗・景綱主従のみで一方的に決められ、実行に移されていた。
……確かに、裏切らせる前提の出奔などいい気はせんが。
決して綺麗とはいえないやり方だ。
しかし成実も戦国の世を生きる男であり、そういったやり方も必要だという事は理解していた。
それに、事が事だ。秘密にする必要があったのは分かる。
それでも、自分は伊達家を支え続ける重臣だという自負がある。いや、あった。
にも関わらず。
……殿は、儂の事を信じていないのか。
そんな不信感が成実の心に宿っていた。
だが、成実の内心など、政宗はまるで気にしていないようだった。
ただひたすらに、満悦状態である。
「秀吉も迂闊な男よのう。鬼を庭で飼ったりするからこうなるのよ」
そう冗談めいた口調で言って、政宗は唇を歪めて笑った。




