161話 決関ケ原9
「儂に続けっ」
凄まじい勢いで戦場を駆けているのは、井伊の赤備えを率いる井伊直政だ。
戦端を切り開いて以降、ずっと戦い続けている為全身は赤く血に染まり、泥にまみれている。
直政だけでなく、周りの家臣や兵達も同様だ。
だが、そのような事に気にする様子もなく、未だに先頭に立ち、指揮を執り続けている。
「やれ、やれーっ」
しかし、いかに精強を誇る井伊の赤備えも疲労の色が見え始めている。
開戦直後と比べると、明らかに疲労の色が見える。
「と、殿……」
傍らから家臣の一人が弱々しい声で、直政に声をかける。
「どうしたというのだっ」
返す直政の言葉に疲労の色は感じない。
「兵達にも疲労の色が見えます、ここは」
と言いかけるのを直政が遮った。
「馬鹿者がっ」
憤怒の為か、武具だけでなく顔まで赤く染めて直政は怒鳴り散らした。
「貴様らはそれでも儂の家臣か! 前に出て戦え! それができんというのであれば、代わりに儂が行く!」
直政は自分にも厳しいが、他人にも厳しい。
その苛烈ともいえる性格の為、今の屈強な井伊軍団が出来上がったといえるのだが、この直政を恐れて出奔する者が相次いだのも事実だった。
ここで弱気な発言でもしようものなら、即座に切り捨てられかねない雰囲気だ。
「貴様らのような臆病者などに頼っておれるか! 貴様らはただ、儂が切り捨てた死体の道を進めば良いっ」
吐き捨てるような口調で言うと、直政は馬腹を蹴り、西軍陣営へと突撃をかけてしまった。
「と、殿!」
こうなってしまえば、家臣達も続くほかない。
井伊軍の兵達は疲れ切った体を無理に動かし、直政の後に続いた。
「関白殿下を支援せいっ」
顔を紅潮させ、気合いを入れるように兵を指揮するのは今回が初陣となる小早川秀秋だ。
開戦当初は、豊臣秀吉と共に笹尾山にいたが、ようやく戦場に出る事ができて気分も高揚しているようだった。
小早川軍団は、やや歪な構成になっている。
元々、横槍に近い形で秀秋が小早川家の当主の地位に就いた為、それに反発した小早川隆景時代の旧臣が出奔。
それを補う為、秀吉から人材を補充した。
その為、名前こそ小早川でありながら山口宗永、稲葉正成、平岡頼勝、松野重元ら豊臣色の強い家臣団が中心にいた。
それが指揮系統に微妙な乱れをもたらしていたが、それでも秀秋はよくまとめていた。
「いけ、いけーっ」
秀秋の言葉を受け、兵達が秀次軍団を支援し、東軍の軍勢と戦い始めた。
「殿! 突出しすぎです!」
その秀秋を諫めるように、正成が声を張り上げる。
東軍の中軸であり、家康の子でありながらこの戦いで先頭に立って戦い、討ち死にしたという知らせのあった松平秀康の事が彼の脳裏によぎっていた。
かつては、秀吉の後継者候補だった秀秋もまた、秀康と立場的に似ているものがあった。
「このままでは危険ですぞっ」
「何、戦場で安全なところなどありはせんじゃろ」
だが、そんな正成の忠告など秀秋は聞く気はないようだ。
初陣ではあるが、勇猛果敢な性格であり、しかもこれまでは戦線に加わる事が許されなかった。
そんな中、ようやく参戦の許可を貰えたのだ。
高ぶる心を抑える事ができないのだろう。
だが、それでも総大将が自ら危険地帯に出向くのには問題があった。
……こうなったら、いざという場合は我らが自ら盾になって殿を守るしかない。
そう正成は決意し、戦いを続けた。
「我らも動くぞっ」
桃配山の、徳川家康が叫んだ。
秀吉動く、の知らせを受けた家康は自らも陣頭に立って指揮を執る事を決意したのだ。
「上様」
傍らの本多正純が不安そうな声を出した。
「今が動くべき時じゃ。何も行動を起こさなければ――敗れる」
家康の声には確信に近い響きがあった。
日の本中の有力武将が集ったこの関ケ原でも、家康よりも戦場経験が豊富な武将は少ない。
西軍総大将の豊臣秀吉や、島津義弘、金森長近といった面々ぐらいだろう。
それだけに家康の言葉には重みがあり、説得力もあった。
その家康が決めた言葉であり、彼らは抗う事はできない。
「分かりました」
正純は頷く。
傍らから本多正信が口を挟んだ。
「上様」
「どうした?」
「伊達政宗の陣から狼煙があがっております」
正信の言ったように、伊達政宗の陣のある方に視線を向けると、確かに狼煙があがっていた。
それを見て、家康の顔に小さく笑みが浮かんだ。
「……うまくいったようじゃな」
呟くような小さな声を、家康は出した。
「決着をつける!」
秀吉の声が轟く。
豊臣秀吉自ら、戦場に出てきたのだ。
秀吉の馬印が掲げられており、士気も高まっている。
秀吉を乗せた駕籠が戦場を進む。
この時、毛利輝元の軍勢に前に出るよう使者を送っていた。
同時に、秀吉は松尾山を包囲していた前田利家の元にも伝令を送っている。
――松尾山の包囲は、大谷吉継や丹羽長重に任せて前田勢は即座に参戦せよ。
前田利家は1万5000の兵を引き連れている。
松尾山城にいる東軍勢5000に対しては、残りの北陸勢5000を抑えとして残すだけでも十分だと考えていた。
いくらか危険は伴うが、これまで戦闘に参加してこなかった無傷の前田勢1万5000を参戦させれば一気に勝負を決める事ができる。
秀吉はそう考えていた。
……そうなれば、あの御仁も。
南宮山に陣取る織田信雄の顔が脳裏に浮かぶ。
……予が圧倒的に優位になれば、参戦せざるをえなくなる。
東軍の背後をつける位置にいる織田信雄の軍勢が西軍に加われば、東軍を包囲した形になり、一気に東軍を壊滅させられる。
家康・秀忠親子や東軍の有力大名の首を刎ねる事すら夢物語ではないのだ。
……家康の四男が清州城に残っておるようだが、大した事はできまい。
その勢いで清州城を攻め落とし、東国を一気に平定させる。
そうなれば、豊臣秀吉の天下取りは完成する。
……予の死後の懸念事項は力が大きくなりすぎる毛利輝元と上杉景勝ぐらいじゃが。
毛利輝元も上杉景勝は今でさえ、大大名。
関ケ原本戦の参加した輝元、東国で挙兵し東軍の兵の多くを引きつける役目を果たした景勝。
どちらも、大幅な加増をする必要がある。
……そして。
秀吉の懸念は、再び豊臣秀次へも向けられる。
大勢力となった毛利と上杉が、関白である秀次を担ぐような事態になれば、豊家は揺らぐ。
暴発を防いだとはいえ、古参の家臣達を中心とした乗っ取り騒動は秀吉の記憶にも新しい。
……何か手を打っておくべきかもしれんな。
駕籠の中で秀吉は思考を進めていた。
太閤・秀吉にそんな事を考えられているとも露知らぬ秀次は、必死に井伊直政の猛攻を防いでいた。
「まだ立て直せる! 太閤殿下自らが戦場に立っておられるのだ!」
自ら声を張り上げ、秀次は必死に崩れつつある自分の部隊を立て直そうとしていた。
「関白殿下。これ以上は……」
不破万作が不安そうに声を出す。
「分かっておる! だが我らが崩れれば背後におられる太閤殿下の軍勢も危機に陥りかねんのだっ」
秀次は必死に声を張り上げる。
……まさか、殿下はこのまま儂が討ち死にすれば良いなのだと思っているのではないだろうな。
豊臣秀頼にとって最大の障害になるであろう自分が、松平秀康のようにこのまま戦場で討ち死にすれば、東軍を撃破して天下を平定した秀吉は何の懸念もなく黄泉路に旅立つ事ができる。
……いや、さすがにありえん。
この場で秀次が討ち死になどしようものなら、西軍も大きな痛手を受ける。しかも、繋ぎとしての側面が強いとはいえ秀次は豊臣家の後継者だ。
秀吉はどう考えても、秀頼がまともに政務が行えるようになる年齢に達するよりも先に逝く。
それまで、豊家を動かす事になる自分が失われる事は大きな損失になるはずだ。
「太閤殿下が必ずお助けくださる! 殿下を信じて戦え!」
誰よりも自分に言い聞かせるように、秀次は声を張り上げて家臣達を鼓舞した。




