159話 決関ケ原7
桃配山――家康本陣。
……於義伊め、親よりも先に逝きおって。
幼名で秀康の名を内心で呟き、腕を組みながら行き場のない憤りが家康を支配しているのを感じた。
家康は秀康の事を嫌っていなかった。
むしろ、高く評価していた。
……だが、秀忠は別格だった。
冷たく秀麗な秀忠の顔を、家康は思い出す。
……我が息子ながら、あ奴は恐ろしい才覚の持ち主じゃ。あ奴が徳川の跡を継げば徳川は10年どころか100年、いや200年、あるいはそれ以上の安泰が齎されるかもしれん。
それだけの基盤を築くだけの才能が秀忠にはある。
家康はそう確信していた。
秀康も猪突なところはあるものの、武将としても大名としても非凡なものを持っている。
しかし、せいぜいが大大名止まり。
秀忠のように日の本全体を、支配できるほどのものではない。
……出自の事など関係ない。純粋に秀忠の才覚を高く評価していたのだ。
秀康も、優遇してきたつもりだ。
自分の子というだけで、信濃の攻略の功績があったとはいえ、30万石以上の過剰ともいえる恩賞を与えた。
この戦いに勝った場合は、さらに倍以上の石高を与えても良いとまで考えていた。
それも、徳川の後継者には選ぶ事がなかったとはいえ、秀康の才覚を認めていたからだ。
だが、子にはそれが伝わらなかったようだ。
それが、無謀な突撃に繋がったのかもしれない。
親指の爪を噛む歯に力が入る。
そのまま爪をへし折りかねない勢いだ。
「――上様」
だが、そんな状態の家康にも本多正純が話しかけた。
「何用じゃ」
お気に入りの寵臣とはいえ、不意に話しかけられた事によりわずかに気分が害された。
最も、こういった場面でも臆せずに諫言できる男だからこそ家康も気に入っていたのだが。
正純は淡々と続ける。
「伊達政宗殿から使いの者が」
「何?」
「早急に取り次いでいただきたいとの事です」
伊達政宗は現在、森長可の部隊を全滅させ、豊臣秀次本隊へと攻撃をしかけていた。
その政宗が今の状況で何の為の伝令をよこしたのか、家康にはわからなかった。
「すぐに連れてこい」
「はっ」
正純が答える。
「今、こちらに」
伝令が現れ、政宗からの言葉を読み上げる。
どうやら黒脛巾組の者のようだ。
「我が主からの伝言を」
では、と続ける。
「我が主は秀吉本隊をもう少し前に出していただきたい、と」
「秀吉本隊を? 何の為にじゃ」
「はい。その為に――失礼を」
す、と黒脛巾組の者が家康の近くによる。
傍らの家康の護衛が警戒するが、家康はそれらを手で制した。
「構わん。傍に寄れ」
「はい」
家康の目前にまで来てから、家康にのみ聞こえるような小声で、ぼそぼそと話す。
その言葉を聞き終わると家康の目がかっと、見開かれる。
「それに嘘偽りはないな?」
「はい。それこそが、我が主の策。その為には秀吉本隊を前に出していただきたいと」
「……」
家康は黙考するように、顎に手をあてていたが、
「分かった、何とかして前に出させる。もう一度訪ねておくが、先ほどの話に間違いはないのじゃな?」
「我が主に誓って」
黒脛巾組の男がすっ、と頭を下げる。
「よし、榊原康政の元に使いを出せ!」
一つ頷いた家康の指示を受け、康政のところに使番が発せられた。
戦場で指揮を執り続ける康政のところへ、家康のところからの使番が駆け込んできた。
「馬上より失礼を! 上様より伝言を預かっておりますっ」
「上様からの伝言じゃと?」
康政の眉が怪訝そうにぴくりと動く。
「はい。何とか、秀吉の本隊を前に出して欲しいとの事です!」
「それはまた、何とも大雑把な命令じゃのう」
呆れたように、康政は言う。
……まあ、これだけの指示でも儂がうまくやってくれると信じ下っているからかもしれんがな。
家康と康政の付き合いは長く、それだけ強固な信頼関係が築かれているのだ。
「まあ、何とかしよう。上様にはそう伝えい」
はっ、と使番が走り去っていく。
傍らから見ていた家臣が不安そうに訊ねた。
「しかし、秀吉本隊を前に出すといっても――どのような手で?」
傍らの家臣が訊ねた。
「何、挑発よ。とにかくあの禿鼠を挑発して誘きだすしかあるまい」
「挑発……ですか?」
「あの禿鼠の悪口なんぞ、いくらでもいえるわ」
にやり、と康政の唇の端が愉快そうに吊り上がった。
「思ったより、被害を与えられておらんようじゃのう」
笹尾山の秀吉本陣にて、豊臣秀吉は呟くように言った。
傍らの黒田孝高が答える。
「はい。我らは南蛮の大筒も多く用いておりますが、やはり放ち手の技量に関してはどうしようもありませんからな」
南蛮人から買い取った大砲を西軍は多く用いていたが、それを使いこなせる技量の持ち主は少なかった。
その為、威力を思うように発揮できていない。
「やはり、南蛮人から直接指南を受けない事には難しいのかもしれませんな」
「うむ。だが、あ奴らは布教にはやたらと熱心な癖にそういうものに関して惜しむ」
豊臣政権の主な交易相手だった、スペインに対して秀吉は航海や大筒など武器の類の技術指導を求めていたが、なかなかそれに応諾しようとしなかった。
それに対し、秀吉は強い不満を抱いていたのだ。
「まあ、我らが奴らの航海技術や武器を持てば逆にあ奴ら共の領土を奪いにいくのではと警戒しておるからかもしれんがの」
「やはり、布教をもう少し認めても良いのでは? 我らが布教を厳しく取り締まっているのも南蛮人達が警戒している理由の一つでしょうし……」
かつて発せられた禁教令は、未だに健在だった。
孝高はそれを緩めてはどうかと提案したのだ。
「却下じゃ。あ奴らの技術は欲しいが、それ以上に布教を認める危険の方が大きい」
しかし、秀吉の返事は素気なかった。
「そうですか……」
孝高もそれ以上は食い下がったりはしない。
自分から意見を求めた事に関してはともかく、はっきりと意思を表示した事に関して秀吉は自分で取り下げたりしない。
特に太閤となってからはその傾向が強く、孝高もそれは理解していた。
そんな時。
「太閤殿下!」
慌てた様子で兵が駆け込んできた。
「どうした。騒々しい」
孝高の言葉に、兵は慌てて謝罪する。
「申し訳ありません、ですが……」
「何があった」
孝高に代わって秀吉が訊ねた。
兵も恐る恐る報告する。
「それが、榊原康政の部隊が先ほどからその、挑発行為を行っているようでして……」
「挑発? どんな内容じゃ」
「そ、それが……」
兵が言い淀む。
「構わん。申せ」
秀吉の言葉を受け、兵は康政の言葉を続ける。
――秀吉は、卑しき生まれの子。
――にも拘わらず、分不相応な望みを抱き大恩ある織田家に背き当主である織田秀信を軟禁した。
――その事を脅しとして使い、織田信長の子である織田信雄に対する行為。まさに悪逆の徒というほかない。
兵は秀吉の顔を恐る恐る伺いながら、康政の部隊から投げかけられている言葉を告げていく。
「ほう……」
秀吉の表情に変化はない。
だが、付き合いの長い近習達は今彼が不機嫌である事を察していた。
「榊原康政か……何度か会っているが、予に不躾な視線をぶつけておった男としてよく覚えておるわ」
当時の事を思い出したのか、秀吉の口調に力がこもる。
「家康の狗が」
秀吉は立ち上がり、目がすっと細まる。
「兵を前に出せ。予も前に出る」
「しかし――よろしいのですか?」
傍らの孝高が懸念を示した。
「まだ、我らが動く機ではないかと。もう少し待てば、東軍の勢いも弱まりましょう。動くのはそれからの方が――」
「予の命令に背くと申すか」
「――いえ。殿下のご命令とあれば」
この時期に本陣の兵を動かす事に孝高は不安を感じたが、太閤・秀吉の命とあっては逆らうわけにはいかない。
「秀秋や三成のところにも伝令を送れ。本陣の兵を動かして東軍を叩く」
秀吉の言葉と共に、西軍の総攻撃が決まったのである。




