15話 関東征伐4
山中城と足柄城は陥落したものの、韮山城の方はしぶとかった。
織田信雄を総大将に、蒲生氏郷、筒井順慶、滝川一益ら3万の大軍で攻めさせたが、それでもおちない。
前述の通り、この地には北条一門の氏規が籠っている。
人数は2000人前後ではあるが、とにかく強く士気も高い。
氏規の巧みな采配の前に、信雄軍は攻め落とせずにいた。
「うーむ」
落したばかりの、山中城にいた信忠の元にもその報告は届く。だが、有効な手を考えつく事ができずにいた。
「韮山・山中両城を落としてから、一気に小田原を包囲しようと思っていたのですが……」
家康の表情も険しい。
家康にとっても、この苦戦は予想外だったのだ。
「やはり厳しいですか、徳川殿」
信忠は丁重な口調で家康に訊ねた。
この時点の徳川家は、事実上織田家の与力大名となっていたがそれでも150万石の大大名。さらに家康は今は亡き父の盟友であり、20年も織田家との盟約を維持し続けた律義者の同盟者なのだ。
紙切れ同然に盟約が破棄され続けたこの時代では極めて稀で、信忠も家康に敬意を払っていた。
「はい。我らの読みが甘かったとしか……」
家康はそれに素直に答える。
戦など、予想通りに行く方が珍しい。
予想通りに行かなかったのであれば、素直にそれを認めるのが第一だ。
箱根の防衛線を一気に突破し、小田原城に王手をかける気でいたが、そう簡単にはいかないようだった。
ならば、次の策を練るまでだ。
「それで、どうすればよいと?」
「韮山城は捨て置きましょう。抑えの軍勢として信雄殿に包囲を任し、我らは小田原城に」
「大丈夫なのか?」
「はい。信雄殿の軍勢を除いても我らは10万を優に超えます。小田原に籠るのは、せいぜいが4万ほど」
「城攻めには十分な数字か」
「はい」
「承知した。信雄には即座にも指示を出しておけい」
近習に信雄へ使者を送るように信忠は指示を出す。
「はっ」
やがて信雄へと使いが発せられ、信忠率いる本隊も駿府城を発した。
信雄の軍勢に韮山城を包囲させたまま、信忠本隊は東へと向かう事になった。
その後、箱根道を呆気なく超える事ができた。
あまりにも早く山中城を攻略してしまったせいか、北条勢の妨害はほとんどない。
その数は10万。
韮山城を包囲中の信雄軍を除いてもこの数である。
一方、九鬼嘉隆を中心とする水軍衆も駿河の徳川水軍――と言ってもこの時期の徳川水軍の規模は小さかったが――と合流。
北条水軍を叩くべく伊豆へと向かった。
伊豆にて、北条水軍はそれを迎撃。
だが、上方と関東の水軍には格段に違いがあった。
南蛮の技術も取り込み、高い戦闘力を持つ織田軍の水軍の前に北条水軍はあっさりと壊滅。
制海権は織田軍のものとなった。
当初、北条の予定していた韮山・山中を軸とした防衛線は既に崩壊したといえる。だが、だからといって容易く下る事はできない。
最悪の場合として考えていた、小田原籠城策を選択するほかなかったのだ。
こうして、小田原城は10万の織田軍によって包囲される事になった。
が、即座に城攻めは行わない。
城を包囲しつつの軍議となった。
その軍議は、信忠本陣を置いた早雲寺で行われた。
「小田原城に籠っているのは3万、多くても4万というところのようです」
小田原城下に潜入させた、伊賀者からの報告である。
家康の言葉に、信忠は頷く。
「北条は5万を超える兵を動員できるとはいえ、そのほとんどは各地に分散しておりますからな。まあ、それくらいでしょうな」
「兄上。お味方は10万。ここは、一挙に」
口を挟んだのは信孝である。
「力攻めにせよと申すか」
「はっ。時間が経てば、各地にいる北条軍が後詰に」
「くるものか」
はっ、と信忠が信孝の言葉を一蹴した。
顔には、嘲るような色さえ浮かんでいる。
「上野にいる軍勢は勝家たちの軍勢に包囲されてるし、北関東の北条勢も佐竹や宇都宮に任せておけば十分よ。小田原の軍勢が、これ以上増える事はあるまい」
「しかし……」
「くどいわ。それに、この小田原城は天下無双の堅城。3倍の兵でも落ちやせんわ」
かつて、武田信玄や上杉謙信がこの城を攻撃したが落ちなかった話は有名だ。
しかも、その当時の小田原城は今ほどの巨城ではない。今の小田原城は信玄や謙信に攻められた当時とは比べ物にならないほどの改修工事が施されているのだ。
「ですが、このまま囲ったたけでは城は落ちませぬぞ」
「分かっておるわ」
ふん、と信忠が鼻をならした。
「信忠様」
ここで、この不仲な兄弟を見ていられなくなった為か口を挟む者がいた。
「某に提案が」
徳川家家臣の榊原康政である。
初陣の時期こそ、忠勝よりも遅かったものの初陣以降は徳川軍団の中軸として武功を重ねた。
忠勝同様に徳川軍の主だった戦の大半に参加しており、今や忠勝や忠次と並んで「徳川三傑」と称されるほどの徳川家の重鎮となっている。
「提案とは何かな、榊原殿」
その康政の意見とあって、信忠も興味を示した。
「このまま、城を囲むだけというのはあまりにも芸がないかと」
「ふむ、するとどうすると?」
「相模や武蔵にある北条の城は小田原城だけではありますまい。小田原城を囲んでいる最中に、別働隊で他の城を」
「攻撃すると申すか」
「左様で。幸い、ほとんどの兵が小田原城に詰めており、留守兵も少ないようですゆえ、楽に陥落するかと」
「ふむ……」
信忠が顎に手をやる。
考えているかのような仕草だ。
「兄上!」
信孝が口を挟んだ。
「10万の兵でも落ちないといったばかりだというのに、兵を割くというのですか!」
「10万でも落ちんというのは、力攻めした場合よ」
ふん、と不快そうに信孝の方を見た。
「こちらから攻めるというのであればともかく、包囲するだけであれば倍の軍勢であれば十分よ」
と今度は康政の方を見た。
「それで、どれほどの兵が必要になると?」
康政は、一瞬だけ家康の方を見るが、家康は「任せる」と短く合図をした。
「1万ほどでよいかと。徳川兵の中から、割かせていただければ」
「1万か……」
信忠は少しだけ考えた後、
「よかろう。榊原殿は1万の兵で別働隊を組織、北条の支城攻略を任せる」
「御意」
康政は頷いた。
「信孝、貴様にも2万の兵を与える。お前も別方面から北条の支城を攻めい」
「は? 私も、ですか……?」
「そうじゃ。何か不満があるのか?」
「いえ、何も……」
信孝が押し黙った。
「徳川殿、徳川殿の家臣達には海路沿いに北条の支城を攻めていただきたい」
「玉縄城、江戸城などですか?」
「その通りじゃ。必要であれば、水軍を支援に回してもいい」
北条の水軍は壊滅しており、もはや完全に制海権は織田軍のものとなっており、海路からの北条の妨害は皆無に等しい状況だったのだ。
「承知いたしました」
家康も頷く。
こうして、別働隊が組織され、それぞれ北条の支城の攻略に向かう。
織田信孝を総大将とする2万の軍勢は、小田原城から北上。八王子城や忍城、鉢形城といった城を目指す。
一方、榊原康政、本多忠勝、本多正信、鳥居元忠、平岩親吉らが徳川軍別働隊1万を率いる事になり徳川家康、石川数正、酒井忠次、井伊直政らは小田原城の包囲軍に残る。
残りの7万は小田原城の包囲を続けていく事になった。