153話 決関ケ原1
霧が深い。
日が昇り、わずか数時間。
徳川軍先発隊である、井伊直政隊は進軍を開始した。
脳裏には、清州城の留守居として尾張を守っている家康の子である松平忠吉の顔があった。
彼は、秀忠と同腹の家康の子ではあるが、後継者候補からは外れているといっても良かった。
……あの御方を、上様の後継者に。
直政には、そんな思いもある。
忠吉は、直政の娘を娶っている。しかしそれだけが理由ではなく、直政は忠吉の力量を純粋に高く評価していたのだ。
だが、同腹であり、なおかつ年上の秀忠の方が後継者争いでは圧倒的に有利だ。しかも、肝心の家康が秀忠こそを後継者に、と強い想いを抱いている。
次男・秀康も例の乗っ取り騒動で後継者候補から大きく後退したとはいえ、存命者に限れば家康の男子の中で最年長。依然として強力な対抗馬である。
そんな中で、松平忠吉を後継者にするのは相当に難しいだろう。
……だが、やってみせる。この儂ならばできる。
かつての家康の主君である今川義元も、四男でありながら名家・今川家の家督を壮絶な争いの末に掴みとっている。
武田勝頼も四男でありながら、上の兄達が様々な事情から後継者候補から外れ、結果として跡を継ぐ事になった。
四男だろうと、支える家臣達次第では後継者の地位に据えるのは可能だと直政は考えていた。
……しかし、その為には実績がいる。
残念ながら、忠吉はこの天下分け目の戦いで留守居にされた。
もし、西軍に敗れるような事態にあれば万一にも失陥してはならない尾張清州城の守護を任されたのだ。
決して役目は軽いわけではない。
だがそれでも、華となるはずだった本戦からは外された。
……ならば、儂が代わりに大きな武功をあげさせればよい。舅の儂の力が増せば、自然と忠吉様の力も増そう。
直政はそう強く決意していた。
ざ、ざ、ざ……井伊隊の赤備えが前進する足音のみが聞こえてくる。
不気味な静粛に支配された時、
「誰だっ! そこにいるのはっ!」
井伊隊の侍大将が怒鳴った。
既に、井伊隊は先陣を言い渡されている。
もし、その井伊隊よりも先にいるものがいるとすれば、それは抜け駆けか。
あるいは、
「そちらこそ何者だっ! 誉ある先陣は、我ら田中隊と決まったはずだぞっ!」
「!!」
井伊隊の皆の、顔色が変わる。
相手は、味方ではない。
れっきとした敵だったのだ。
それに気づいた、井伊隊が反応する。
さすがは、歴戦の戦いに勝ち抜いた猛者達だ。反応は早い。
「敵だ、目の前にいるのは敵ぞっ」
「撃てっ!」
鉄砲隊から、射撃音が響き渡る。
たちまち、田中隊の先頭から悲鳴が出た。
だが、彼らも吉政が手塩にかけて育てた精鋭部隊。
すぐに立ち直った。
「敵だ、敵がいたぞっ」
「何をしておる、迎え撃て!」
「騒ぐな! 儂らが崩れれば、背後の敵にまで影響を及ぼすぞっ」
「うろたえるなっ!」
田中隊から、即座に迎撃態勢をとる。
井伊隊がそれに対応する。
井伊隊と田中隊の戦闘が始まり――遂に、関ヶ原の戦いが始まったのだ。
「井伊直政様の部隊、田中吉政の軍勢と激突っ!」
家康の本陣にも、即座にその報告が齎された。
「おおうっ!」
家康の顔にも、興奮の色がある。
普段、冷静沈着な家康ではあるが、世界規模でも稀に見る10万もの兵のぶつかりあいの大戦とあって、興奮している様子だった。
世界には、数十万もの兵を集めた戦いは多くある。だが、10万もの兵が野戦でぶつかり合うような戦いはほとんどないのだ。
間違いなく、後世に名を残す歴史的な戦いとなる事だろう。
だが、敗軍の将として名を残す気など家康には毛頭ない。
勝って、天下分け目の戦いの勝者として歴史に名を刻む気でいた。
傍らに控える、男装の女性が家康に話しかける。
家康の側室である、お梶の方だった。
「上様。この戦いは、歴史に残る一戦になりそうですね」
彼女もまた、興奮した様子だ。
普段冷静な彼女もまた、かつてない大戦に高揚しているようだった。
「ふふ、お主もにも戦場の空気が分かるか」
「無論、女子といえどもわたくしも上様に仕える者。心は武士のつもりです」
彼女も戦場にいるというのに、恐怖は全くないらしい様子だった。
「それに、わたくしでなくとも分かります。民ですら、この戦いが天下の趨勢を決める戦いだと噂しておりました」
「うむ」
「まさに、天下分け目の戦いにふさわしいかと――」
「天下分け目、か。勝者として名を刻みたいものよ」
「しかし、我が国はむしろ敗者の方が英雄としては好まれます。上様の崇拝する源頼朝公よりも、弟君の義経公の方が人気があるように」
「だからと言って敗者になる気はないぞ」
ふふ、と家康は上機嫌そうな表情を崩さずに笑う。
「戦いに敗れ、後世で英雄と称えられるよりも、この戦いに勝って、儂の勝利を信じてついてきてくれた家臣共に報いてやりたい。天下人の家臣として、な」
そんな中、さらなる報告が飛び込んでくる。
井伊直政に続かんと、伊達政宗率いる軍勢5000が前に出た。
そこに、堀尾吉晴、中村一氏、森長可らの率いる軍勢6000が激突。
豊臣秀次の軍勢も動く。
その秀次の軍勢に、松平秀康の軍勢がぶつかる。
いよいよ本格的な戦いが始まった。
10万もの兵がぶつかる大戦ともなれば、いかに家康が天才的な軍事的な才能を持とうとも、完全に統括するのは不可能といってもいい。
いちいち、伝令を送り込むにしても限度がある。
それは、西軍総大将である秀吉も同様である。
であれば、各部隊の指揮官たちが、各々の判断で動くほかない。
いよいよ天下分け目の戦いが始まったのである。
――松尾山城にいる金剛軍と、それを抑える為に残した前田利家ら北陸勢、それに織田信雄軍を除いた各軍勢の布陣が完了する。
東軍――。
井伊直政――6000。
伊達政宗――5000。
松平秀康――1万3000。
本多忠勝――4000。
金森長近――3000。
佐竹義宣――2500。
真田信之――3000。
池田輝政――4500。
石川康長――3500。
松倉重信――1000。
が、北から順に布陣している。
その背後に、
榊原康政――7500。
小笠原秀政――1000。
木曽義利――2000。
酒井家次――4000。
奥平信昌――2500。
菅沼定盈――1000。
そして、それらの軍勢を統括するべく徳川秀忠軍1万5000が控える。
また、南宮山の織田信雄警戒の為、
水野勝成――1500。
渡辺守綱――2000。
北条氏勝――3000。
彼らが大垣城へと戻る、中山道を防衛するべく配置された。
大垣城には、引き続き鳥居元忠、稲葉貞通、氏家行広らの軍勢5000が、さらに後詰めを待つ松尾山城には金剛秀国の5000が残る。
そして、本陣となる桃配山に徳川家康の本隊の1万8000。
以上となる。
東軍の合計は、11万5000にもなる大軍勢だ。
ただし、大垣城、松尾山城の軍勢を含めなければ10万4000になるが。
一方の西軍は、
田中吉政――4000。
森長可――2000。
豊臣秀次――1万2000。
堀尾吉晴――3000。
中村一氏――3000。
真田信繁――1000。
宇喜多秀家――1万4000。
長宗我部盛親――3000。
島津義弘――2000。
島清興――1000。
その背後に、
毛利輝元――2万。
宗義智――500。
寺沢広高――500。
長束正家――1000。
小西行長――2000。
そして、笹尾山の秀吉本陣に、
豊臣秀吉――1万5000。
黒田孝高――500。
石田三成――1500。
増田長盛――1500。
茂庭綱元――1000。
朽木元綱――500。
小早川秀秋――1万。
松尾山城の抑えとして、
前田利家――1万5000。
大谷吉継――2000。
丹羽長重――1500。
村上頼勝――1000。
溝口秀勝――1000。
赤座直保――500。
合計――12万とこちらも大軍勢となる。
以上が、正面の東軍と対峙する為に布陣。
井伊直政の部隊が田中吉政の部隊とぶつかったのをきっかけに、戦端は開かれた。
「ここで我らの因縁にも決着をつけてやるぞ、田舎大名っ!」
森長可が叫んだ。
森長可が編入された部隊が対峙するのは、奥州の大大名・伊達政宗。
色々と因縁深い相手だ。
……だが、それも今日で終わりよ。
長可は決めていた。
この戦いでこそ、政宗の首をとる。
……いや、それだけでは腹の虫がおさまらんな。
……信長公に倣って、奴の頭蓋骨を金で色づけして杯にでもしてやるか。
などと、考えながらもしっかりと軍勢を指揮していた。
「前に進めよっ。伊達政宗の首を取るっ」
「ふん。鬼武蔵か。何かと縁があるようだわ」
馬の上から、伊達政宗が言った。
「田舎の若造」などと言われ続けた政宗も、もう三十路。
若いとは言えない年齢になってきている。
しかも、最近では腹のあたりに出っ張り始めた肉が気になりはじめている。
だが、戦となればそのような事を気にするわけにはいかない。
「ま、いい加減鬱陶しい相手だしこの辺で終わりにしてやるとしよう。 ……用意はできておるな」
「はっ」
片倉景綱が答える。
「鬼武蔵め……。見ておれよ」
伊達家で密かに用意した秘密兵器が登場する。
それは、馬上筒を手にした騎馬武者達だった。
その騎馬武者達が、敵陣へと駆け始める。
「鉄砲騎馬隊――実戦で使えるのでしょうか」
景綱の言葉には、不安の色が混じっている。
何度も訓練を繰り返したとはいえ、実戦に投入するのははじめてだ。
「使えるかどうか、はさして問題ではない」
政宗は、冷静な口調で首を横に振った。
「これは、天下分け目の戦いで伊達という存在を知らしめるための戦いでもある。徳川右府殿の勝ちに終わったとしても、それで終わりではない。徳川公儀の中で、儂の名を上げていく必要があるのだ」
ゆえに、と続ける。
「秀吉だけではない。徳川の連中の度胆も抜いてやるとしよう」
「な、なんだあれは……」
森隊の足軽の、恐怖の籠った声がもれた。
――ドドドドッ!
すさまじい勢いで、伊達軍の部隊が突撃してきたのだ。
無論、それだけで恐れ慄いたわけではない。
縦横無尽に戦場を駆ける騎馬武者が、馬上筒を放ってくる。
「ぎええっ!」
悲鳴をあげて、森隊の兵士が倒れる。
元々、この時代の鉄砲は命中率は低い。
しかも、馬上からとなればさらに精度は落ちる。
事実、鉄砲玉を食らって倒れた兵の数は少ない。
だが、鉄砲騎馬隊という未知の部隊を相手にする事により森隊は混乱状態にあった。
森隊の陣形が崩れ始める。
「馬鹿者! 何を狼狽えておるかっ」
長可が叱咤するも、なかなか混乱は治まらなかった。
「撃ち殺せ、踏み潰せっ」
伊達軍の侍大将の声が響く。
勢いをつけて突入してくる、鉄砲騎馬隊の動きを封じるのはほとんど不可能だった。未知の部隊に森隊は周章狼狽し、混乱状態に陥った。
伊達軍の鉄砲騎馬隊が馬上筒をぶっ放す。
火焔の如き勢いに、森隊は悲鳴をあげ、戦場に屍をさらしていく。
鉄砲騎馬隊の規模は小さい。
伊達軍の手に入れた馬上筒の量がそれほど多くなかったというのもあるが、それ以上に騎乗した状態で鉄砲を討つだけの力量を持つ武者がそれほどいなかったのだ。訓練期間もそれほどあったわけではない。
その為、部隊の規模はほんの200人ほどに過ぎなかった。
しかし、その200人は森隊に混乱をもたらすには十分な数字だったようだ。
後続の徒歩兵達も、声を張り上げる。
「敵は鉄砲騎馬隊に恐れ慄いているぞっ。我らも続け!」
伊達の軍勢が、森の部隊に襲い抱える。
「逃げるなっ! 戦場に踏みとどまれっ」
森隊の指揮官達は声を張り上げ、部隊の混乱を鎮めようとするがほとんど効果はない。
こうして、伊達隊と森隊のぶつかりあいは伊達隊が優勢となる。
激突が始まっているのは、井伊隊と田中隊、それに森隊と伊達隊だけではなかった。あちこちで、東軍と西軍の軍勢がぶつかりあう。
天下分け目の戦いはまだ始まったばかりである。




