151話 決戦直前
豊臣秀吉が本陣としたのは、笹尾山だった。
この地に陣城を築き、軽く仮眠をとっていた。
戦場という事で、太閤であろうが関白であろうが豪奢な寝床は用意できない。
……寝心地が悪いわ。
明け方に目が冷めてしまい、秀吉は軽く苦笑する。
そんな時だった。
「――殿下」
黒田孝高だった。
秀吉は、目をはっきりと開ける。
「うむ――」
意識を完全に覚醒させながら、上体を起こす。
「お休みのところ、申し訳ありませぬ」
「構わん。もう目は覚めておる」
簡素な作りの寝具から、秀吉は起き上がった。
「心配は無用じゃ」
戦場という事もあり、甲冑こそ身につけていないが動きやすい服装のまま眠っていた。
すぐに立ち上がると、秀吉は言った。
「それで、何かあったのか」
「家康本陣に動きあり。岐阜城を発するようです」
「そうか。狙いはやはり、松尾山城の後詰か?」
「おそらくは」
孝高は頷く。
「松尾山を攻略し、濃尾、あるいは三尾国境で戦うという当初予定していた我らの戦略は崩壊しました」
「分かっておる。そんな事を今更言うな」
秀吉はふん、と鼻を鳴らして手首を上下に振った。
ですが――と孝高は続ける。
「松尾山城の後詰と、敵の目標が分かっている以上、我らはそれを前提とした策が取れます」
「うむ」
「委細は軍議にて。さっそく皆を呼びましょうぞ」
そう決めてこの場から孝高は立ち去った。
そんな孝高の後ろ姿を見て、秀吉は内心で小さく舌打ちする。
孝高も有能な武将ではあっても、秀吉との付き合いは播磨時代からだ。美濃や尾張の時代からの付き合いだった者と比べると、秀吉との付き合いがわかっていなかった。
……こんな時、あいつであれば。
既にこの世を去った蜂須賀正勝の事を思い出す。
正勝であれば、今の秀吉の顔色を見れば――ほんの些細な表情の変化であっても――不機嫌だという事に気づけただろう。
それに気づけば、場を和ませる為に軽い冗談の一つでも言っていただろう。
といっても、これは孝高に非があるわけではなかった。
秀吉との付き合いが長くなければ気づく事ができないほどの、小さな表情の変化なのだから。
気づけという方が無理があった。
……まあ、そんな相手などもうおらんか。
かつて、尾張・美濃時代から秀吉の覇業を支えた重臣の多くはこの場にいない。
蜂須賀正勝もいない。
竹中重治もいない。
加藤光泰もいない。
皆、この世を去った。
豊臣秀長――はいるが、この場にはいない。名代として子の秀保を大坂城に送っているが、彼自身もまた失脚以降、病が悪化して瀕死の状態で居城の和歌山城にいた。
浅野長政――もいるが、彼もこの場におらず、自領で隠居していた。
仙石秀久――は大坂城だ。秀長の一件から、彼とも隔たりができている。
目の前の黒田孝高は、播磨攻略時代からの付き合いだ。
上記の6名ほど気を許していない。
福島正則や石田三成達は子飼の将だが、だからこそ弱味を見せるわけにはいかない。
彼らの前では偉大な太閤でいる必要があった。
毛利輝元や上杉景勝のような外様の大名では猶更だ。
その為には――。
「この戦いに勝つ。必ずな」
秀吉を筆頭に、黒田孝高、小早川秀秋、増田長盛、石田三成、茂庭綱元、朽木元綱らが集ってきた。
明朝からの緊急軍議である。
他に将はいない。
というか、集う余裕がなかったのだ。
「敵が近づいてきたのう」
ふふ、と死が迫っているとは思えぬほどに力強い笑みを見せるのは豊臣秀吉だ。
それに対し、孝高が冷静に言った。
「はい。やはり、後詰に来ましたな」
孝高が、物見から受け取った報告から告げる。
「敵勢は、徳川右府のみならず、子の秀忠、秀康。それに、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、酒井家次、石川康長、奥平信昌、菅沼定盈……」
「徳川の主だった者が揃っておるの」
「はい。それに、金森長近、池田輝政、真田信之、森忠政、小笠原秀政、佐竹義宣、それに、伊達政宗」
「政宗じゃと?」
ぴくり、と秀吉の眉が動いた。
「確か、以前の報告では伊達は上杉景勝の抑えを担っていたはずではなかったのか?」
「はい。どういうつもりかは知りませんが、軍勢の一部を留守政景と鈴木元信に任せて政宗は徳川右府に同行しているようです」
「派手好きのあの男らしいわ。わざわざ陸奥から美濃まで恥をかきにくるとはご苦労な事じゃ」
「……」
「綱元よ。お前の元主も物好きよのう」
かつて、政宗に仕えていた綱元に気づき、秀吉は軽い調子で言う。
「はい。伊達政宗とはそういう男です」
淡々とした様子で綱元は言った。
内通容疑をかけ、実質的に追放したかつての主にどのような感情を抱いているのか。
この様子からでは、察する事はできなかった。
「何なら、今からでも配置を替えても良いのだぞ。政宗を見返す良い機会ではないか」
「殿下の御命令とあれば」
綱元はそう言うが、秀吉は首を横に振った。
「戯れよ。今から配置変更などできるはずがなかろう」
「殿下」
脱線しかかった話を戻すよう、孝高が口を挟んだ。
「敵の総勢はおよそ10万前後。我らよりわずかに劣りますが――圧倒できるほどの差ではありません」
「うむ」
秀吉が鷹揚に頷く。
「となれば、ここでは明暗を分けるのは総大将の戦人としての器量。この戦いで徳川右府を破れば、日の本一の戦上手として歴史に名を残せましょうぞ」
「予が日の本一の戦上手、か」
秀吉が満更でもなさそうに頷く。
そして、孝高の言っている事は決して大袈裟ではない。
この戦いは、大きな注目が集まっている。
後世に残るであろう、この戦いを描き残す為、絵師なども同行している。また、南蛮の商人達も新たな自分達の交渉相手になるであろう相手は誰になるのか、注目していた。
そんな戦いで勝てば、秀吉は名実共に天下人になれるだけでなく、歴史に名を残す戦人となる。
もはや、寿命が残りわずかな事を秀吉も確信している。
秀吉の残る関心は、秀頼の事と、自分が後世にどう名を残せるかの二点でしかないのだ。
「悪くない、の」
「ははっ」
孝高も頷く。
「しかし、家康が合戦を避けたらどうする。長陣になれば」
その間に予の寿命が尽きるかもしれん。
言外に秀吉はそういった。
「その心配はないかと」
孝高は首を左右に振る。
「そもそも、徳川が軍をこちらに向けたのは松尾山城の後詰です。戦わずして兵を引くわけにはいきません。下手に弱気なところを見せれば、織田内府様が兵を動かす恐れもありますゆえ」
「信雄か」
上機嫌そうだった秀吉の顔が曇る。
「あの男、未だに予に屈そうとはせん」
ぎり、と歯を嚙み砕かんばかりに強く歯ぎしりをする。
「かつての主家の人間であるのを言い事に、偉そうにしおって」
関白、そして今は太閤と呼ばれる秀吉に強気に出られる人間は少ない。
信雄はその数少ない一人だ。
官位や役職で上回ったところで、かつての主家の人間だという事は変わらないし、つい下手に出てしまう者も多い。
大坂城で暮らしていただけの秀信などと違い、曲りなりにも戦国の世を知る者であり、影響力は強かった。
それだけに、下手に取り潰すわけにもいかない相手だ。
「忌々しい事よ……」
「殿下」
信雄は自身の領国である伊勢から南宮山に布陣したまま、不気味な沈黙を保ったままだった。
「尾張の通過を家康に許したところを考えると、やはり敵方と見るべきかの」
秀吉ははっ、と吐き捨てるように言った。
「はい。我らにとっても痛手でしたな。完全に信雄様を取り込んでいれば、尾張から挟撃する策もとれたというのに」
織田信雄は、こちらには何も言ってこない。
西軍からの使者への返事もはぐらかし続けていた。
「今、それを言っても遅すぎる。こうなった以上、この地で迎え撃つ他あるまい。 ……準備は整っているであろうな」
「御意」
孝高の言葉に、秀吉も力強く言った。
「ならば、万全の態勢で迎え撃てるな。そろそろ行くとするか」
「はい」
「敵勢は松尾山城の後詰をする以上、多少強引にでも動く必要がある」
「ですが、この地で敵勢を迎え撃てるのであれば我らの優位です」
うむ、と頷いて秀吉は絵図の一点を示す。
「その通りじゃ。そして、その為の戦場は――関ヶ原」




