148話 西軍出陣
近江――佐和山城。
松尾山城攻めを豊臣秀次や前田利家が続ける中、豊臣秀吉本隊はこの地に留まっていた。
そんな中、秀吉同様にこの城にいた黒田孝高の元に領国である豊前から200ほどの兵を率いて家臣の後藤基次が姿を現した。
後世では、後藤又兵衛の名で広く知られるようになる男だ。
「殿、お待たせしました」
「おお、よくぞ来た」
孝高は笑顔を浮かべて出迎えたものの、内心はそこまで晴れやかではなかった。
「……それで、其方らだけなのか?」
孝高に同行して上方にいた、孝高家臣の栗山利安の言葉に基次は無言で頷く。
これは、引き連れてきた兵の数を見ての発言である。
「そうか。長政は頷かんかったか――」
500ほどの兵しか寄越さなかった子の長政に、さらなる兵の派兵を孝高は要求したが、長政はそれに応えようとはしなかった。
結局、この基次を中心に200ほどの志願した兵のみが命令を無視する形でこの地に参じてきたのだ。
「申し訳ありません」
基次が頭を垂れて謝罪する。
「長政は何か言っておったか?」
「いえ……」
基次が首を横に振る。
家督は正式に譲っていなかったが、黒田家の実質的な当主はもう孝高ではなく長政だった。
豊前の統治は実質、彼が担当しているし、家臣団も増強していった。
だが、これが孝高を優先しがちなこの基次ら一部家臣との軋轢を生んでいた。
これに長政が気がつかなかったかというと、そうではない。
分かった上で、自身よりも父・孝高を優先しがちな家臣達を冷遇していった。
基次らも、そうした主君の気持ちがわからないほど鈍感ではない。
今回、長政に逆らってまで、孝高の元に赴いたのはそういった者達だったのだ。
「若殿は、殿を蔑ろにしております」
実質的な当主といってもいい地位にいる、長政に対しての痛烈な批判だった。
基次もこういった事をはっきりと言ってしまう性格の為、長政との距離が開いてしまうのか、長政が冷遇するからこういった態度になるのか。
おそらくは両方だろう。
「むぅ、しかし――」
孝高も、息子を擁護する言葉を吐き出しかけてやめた。
彼自身、どこか冷めたあの息子を苦手としており距離を測りかねていたのだ。
「――とにかく」
こほん、と場を仕切り直すよう、小さく咳をする。
「やはり、兵が足らんな儂は」
「はい」
基次も頷く。
結局、孝高の元に集った兵はわずか700。
この数では、大した事はできない。
「殿、ここは小早川秀秋様に頼まれてみては――」
秀吉の元養子であり、現在は小早川家の当主である秀秋と黒田家は友好関係にあった。
また、秀秋の側近である平岡頼勝は、孝高の姪を正室にしているのだ。
その秀秋は、1万ほどの兵を引き連れて出陣している。
その中から、いくらか兵を借りてはどうかという提案である。
だが、その提案に孝高は黙って首を横に振った。
「あの御方も、今回が実質的な初陣じゃ。一兵でも多くが必要じゃろう」
「ですが……」
「儂らは儂らで用意した手駒で戦う他ない」
そう言って、孝高はじっと腕を組んで黙った。
……しかし。
考える。
今回、長政の命令よりも孝高の命令を優先した兵はわずかにこれだけ。
ここ数年、頼りになる太閤秀吉の側近として、ほとんど上方に滞在していた為、事実上黒田家を動かしていたのは長政だ。
その数年の間に、名実共に黒田家は長政の色に染まってしまっていたらしい。
……倅の成長を頼もしく思うべきか。
領内で、特に問題らしい問題は発生しておらず、豊前の統治も順調だと報告
が来ている。
その反面、複雑な心境でもある。
……もう儂よりも長政を慕う家臣の方が多い。
長政の成長と共に、自身の老いを感じざるをえなかった。
……決めた。此度の戦いがどうなろうと、儂は今回の戦を最後に隠居する。余生を緩やかに過ごそう。
そう孝高は決意していた。
……。
…………。
………………・
――佐和山城。
秀吉に用意された、寝室。
そこで、秀吉はじっと横たわっていた。
ここ数か月、体調を崩す日が続いていた。
松尾山城攻めを秀次に任せ、自身はこの地で静養していた。
だが、味方ですらこの事を知らない。
松尾山城攻めに秀吉が参加していないのは、余裕の表れ、あるいは秀次に後継者としての地位を固める為だと思っている。
……。
秀吉の傍に、織田信長の姿が見える。
これは夢だ。
秀吉はそう感じた。
織田信忠の姿もある。
以前にも、似たような夢を見た事がある。
だが、その時と違いこの信長も信忠も一言も喋らない。
長年、参謀として秀吉を支え続けた蜂須賀正勝の姿が見えた。
現在も秀吉に仕える黒田孝高と共に「両兵衛」と称された、竹中半兵衛こと竹中重治の姿も見える。
鬼柴田・柴田勝家の姿も見える。
信長の三男・信孝の姿も見える。
……予を、そちらに招こうというのか。
その姿を見ながら秀吉はじっと考える。
今、見えている者は皆、この世を去った者ばかりだ。
すると、これは夢ではなくあの世の光景なのだろうか。
そろそろ、自分も来いと呼んでいるのだろうか。
……まだ、そちらに行くわけにはいかん。
「予は、天下人・豊臣秀吉ぞっ」
カッと目を見開き、叫ぶ。
同時に、信長達の姿が一斉に消える。
「……死ぬものか、死んでたまるかっ」
強く宣言するように、幻影の見えた方を睨みつける。
「――太閤殿下?」
叫び声が聞こえたのか、不安げな様子で小姓が寝室の襖を開く。
「――」
その小姓を軽く見つめる。
特に睨んだつもりはないのだが、予想以上に恐ろしい表情でもしていたらしく小姓の顔には怯えの色が浮かんでいる。
10年前、いや数年前の秀吉ならば何か取り繕うような言葉を口にしたかもしれない。
だが、今の秀吉には肉体的にも精神的にも余裕がなかった。
仏頂面のまま、呟くように言う。
「――甲冑を持て」
「は?」
秀吉の言葉を即座に理解できなかったらしい小姓に、もう一度告げる。
「聞こえなんだか、甲冑を持て」
「は、はいっ」
主君である秀吉の機嫌を損ねるわけにはいかないと、慌てて小姓が立ち去っていった。
「……」
同時に、体がよろける。
が、辛うじて持ちこたえて体勢が崩れるのを防いだ。
「やはり、予はもう長くはないか」
ふと漏れた声に、悲痛な調子も死を迎える恐怖もない。
「だが――」
秀吉は続ける。
「最後に、この戦で家康を叩きのめさねば。家康の首を取れずとも、徳川との格付けをしっかりとしておかねば――今は豊臣優位でも、予の死後に入れ替わってしまう」
その為にも、
「予が戦場に出る。 ――そして、勝つ。これがこの豊臣秀吉最後の戦となろう」
そう強く宣言するように言った。




