146話 水軍親子
軍勢を西に進めていた徳川家康率いる東軍本隊は、岡崎城へと到達しようとしていた。
順調に続いていた行軍だが、ここで不測の事態が発生していた。
三河の港に、志摩の九鬼水軍が来襲したのだ。
その報告を受けた家康は、この日、行軍を中止。
九鬼水軍の動向を見極める為、岡崎城に留まった。
岡崎城の一室にて、小姓から被害状況の詳細が書かれた報告書を家康は受け取っていた。
「それで犠牲は……」
襲撃した九鬼水軍は、港にある船や物資を略奪、あるいは炎上させて撤退していったらしい。
人的にも、物的にも相当な被害が出ている事が分かる。
家康は、黙々とそれを読み続けている。
「我が方の水軍は何をしておった!」
家康に代わって激怒したのは、本多忠勝である。
顔を赤に染め、報告に来ただけの小姓は縮こまっている。
本来、怒りをぶつけるべき相手は襲撃をかけた九鬼水軍である。
だが、それ以上に本来はそれを防がなければならなかった徳川水軍に対して忠勝は激怒していた。
「忠勝、落ち着かんか」
「しかし、上様……」
「相手は九鬼水軍じゃぞ。残念じゃが、我らの水軍とは練度が違う。装備も違う。大陸での戦いでも用いた大筒も使ってきたそうじゃしのう」
何年も前から徳川水軍は、大幅に増強されていた。
だが、大陸出兵や織田信孝との闘いでは物資の輸送をした程度であり、海戦には参加していない。
戦闘経験という点では、九鬼水軍と大きな違いがあった。
「それに、思ったよりも被害は少ない」
家康の言葉に嘘はなかった。
事実、港まで攻め入られたにも関わらず、九鬼水軍はそれで満足したかのように、船や物資の一部を破壊した後、引きあげている。兵にも民にも犠牲者はほとんど出ていなかった。
「そのようですな」
傍らに侍っている正信も報告書に目を通してから答えた。
「まるで、三河に攻め入ったという事実だけが欲しいかのようですな」
「案外、当たっておるかもしれんぞ」
家康は、報告に来た小姓とは別の小姓に指示を出す。
指示を受けた小姓から、一通の書状が差し出された。
「これを見よ。九鬼嘉隆の倅の九鬼守隆からの書状じゃ」
「何ですと?」
忠勝は驚いたように目を見開く。
「三河を襲った詫び言でも寄越したのですか?」
「ある意味正解じゃ。父親の事を詫びると同時に、儂に組すると言ってきておる」
家康は書状を置き、それを正信も目を通した。
「なるほど。 ……確かに」
「森家でも、長可は家督を弟の忠政に譲った上で太閤のところに走ったという。九鬼親子も同じ事をする気じゃろ」
「すると、親父の方は西軍に着くと?」
忠勝の言葉に家康は頷く。
「うむ。そうなるの」
「つまり、上様が勝っても太閤が勝っても良いよう、保険を掛けたという事ですか」
「小賢しい真似を……」
忠勝が不快そうにちっ、と舌打ちする。
「まあ、そう言うな」
その忠勝を窘めるように家康は言った。
「九鬼も生き残りに必死なだけじゃ。そう攻めるな」
「すると、上様は我らが勝っても九鬼を取り潰さないと?」
「うむ。まあ、明らかに西軍に組した親父の方は戦後に何らかの処分が必要になるじゃろうが、儂に味方すると言ってきておる倅の方は所領を安堵してやるつもりじゃ」
「ですが、ただ我らに味方するだけ、と言っているだけの男の所領を安堵してやる必要はありますまい」
正信が目を光らせた。
「そうよな」
「そこで、守隆には一働きしてもらいましょう」
「ふむ」
家康が興味を示した。
「具体的にはどう働かせるつもりじゃ?」
「はい。それは……」
正信が説明し始める。
説明を終えた後、家康も頷き、
「分かった。守隆に書状を送る。儂に組すると言っておる以上、否とは言うまい」
「ところで」
ここで正信が話題を転じた。
「飛騨の金森の方はどうなっておりますか?」
飛騨を領する、旧織田家の数少ない生き残りである金森長近は、秀吉とも家康とも半端に距離が近い微妙な位置にいる。
それだけに、その動向が注目されていた。
「うむ、その事なら先ほど報告があったばかりじゃ」
そう言って、家康は金森長近から送られてきた書状を取り出す。
「吉報じゃ」
ふふ、と家康は笑う。
書状に目を通した正信も笑みを浮かべた。
「そのようですな」
「金森殿は我らに着くのか?」
傍らから忠勝が訊ねた。
「その通りじゃ。長近、それに養子の可重共々、兵を出すといっておる」
「ほう……」
正信も感心したように笑みを浮かべた。
「やりましたな、上様」
「うむ。金森長近の名はやはり大きいからの」
戦国の世に名を刻んだ武士達も多くが戦場で、あるいは畳の上でこの世を去っている。
そんな中、長近は今なお生き残っている数少ない男だ。
しかも家康よりも年上で、しかも信長の父である信秀の代から戦場に立っているような存在はもはやほとんどいない。
「北陸の前田利家・利長親子は豊臣方として出陣しておるらしい――こちらはうまくいかなんだ」
「上様は前田にも誘いの手を?」
「うむ。最近、太閤と疎遠気味だったらしいようだし、もしかしたら、と思うたのだがの」
家康には、伊賀者という強力な諜報組織がある。
伊賀者がもたらす情報は、各大名の兵や武具の数などといったものだけでなく、大名や武将達の対人関係にまで及んでいた。
かつて、昵懇の間柄だった秀吉と利家に溝が出来つつあるという情報をつかんでいたのである。
「まあ、前田殿は以前の大乱でも柴田勝家を裏切っておりますからな。今後も交渉を続ける価値はあるでしょうな」
「お主が言うと説得力があるのう」
忠勝が皮肉そうに言った。
正信は、三河一向一揆の際、家康を見限り一揆側に組している。
しかも、家康が三河を再平定してからも、すぐには戻らずに出奔してしまっていたのだ。
そういった事情からの発言だったが、正信の表情に変化はない。
忠勝の挑発などには、乗らないと言わんばかりの平然とした様子だ。忠勝もつまらなそうにふん、と鼻を鳴らす。
「――とにかく」
悪くなった場の空気を引き締めるように、家康が口を開く。
「九鬼守隆と金森長近の軍勢が我らに加わった。どちらも頼りになる味方じゃ。お前達の働きにも期待しておるぞ。明日はまた軍勢を動かす。兵達にはしっかりと英気を養うよう伝えい」
この日の評議はこれで終わった。
翌日、家康は尾張へと本隊を動かした。
同時に、尾張にいた秀忠の部隊も木曽川を超え、岐阜に入った。
目指すは、後詰めを待つ松尾山城、それに大垣城である。
東西激突の時が近づきつつあった。




