144話 東軍西上
徳川秀忠、松平忠吉を中心とした東軍の先陣部隊が、東海道を西に進む。
駿府、掛川、浜松、岡崎と徳川所縁の城を経由し、ついに三尾国境を越えた。
信雄に代わって、尾張を守っているはずの織田秀雄は特に反撃に出てくる様子はない。
まずは、国境沿いにある城へと迫る。
しかし、どこもろくに戦闘をする事なく撤退。
東軍は、無血で城を制圧してしまった。
釈然としない思いを抱えながらも、秀忠と忠吉は占拠したうちの一つである沓掛城に入った。
この城の城主である、川口宗勝は大坂城にいたという事もあるが、あまりにもあっけない陥落である。
「どう思う?」
秀忠は、占拠した沓掛城の一室に、立花宗茂を呼んだ。
外様とはいえ、宗茂は経験豊富な名将だ。文官肌の強い者や戦経験が不足した者が多く集まる、秀忠軍団の中で彼の存在は貴重だ。
無論、家康は経験豊富な自身の子飼いも秀忠に貸し与えていたが、秀忠は自分よりも父に忠誠を誓う家臣達の意見をあまり聞き入れる事はなかった。
「あまりにあっけないですな」
「うむ。それは私も分かっている」
宗茂はじっと、城の周囲を見渡している。
血が全く流れておらず、落城したばかりの城には見えない。
徳川軍の制圧下である事を示す葵の旗が、城内には見える。
それは、最初からそこにあったかのように違和感がなかった。
「まあ、とりあえずは良かったではないですか」
秀忠が座ったのを確認してから、宗茂も腰を下ろした。
小姓を呼び、甲冑を外す。
「織田内府様は、我らと戦う気はないのですかな」
秀忠の側近であり、隣に控えていた土井利勝が口を挟んだ。
「分からん。父上の話によると、徳川につくとも太閤につくとも明言を避けておるようだが……」
じっと、秀忠は顎に指を当てて考えていたが、
「とにかく、内府殿の気が変わるまで待っているわけにはいかん。尾張を制圧
するぞ」
はい、と宗茂は頷いてから、
「今後の戦略として――とりあえずは、大高城跡を。尾張の織田軍が今日同様に戦わずに城を捨てるというのであれば、もっと奥深くまで進んでも良いかもしれませんな」
「大高城跡にか。縁起が悪いの」
秀忠の顔に複雑そうな色が浮かぶ。
沓掛――大高への道は、かつて桶狭間合戦の際に、父・家康が従属していた今川義元が使ったルートであり、この移動の際に故・織田信長によって討ち取られてしまったのだ。
最も、大高城はこの時点で既に廃城となっていたが。
「いっその事、桶狭間に陣取ってみるか」
「お戯れを」
「そういえば、今、清州城を守る秀雄殿は信長公の孫でしたな」
利勝が口を挟んだ。
「そういえばそうでしたな」
「ならば、祖父のように撃ってでるかもしれませんぞ」
「それはそれで面白いかもしれんな」
宗茂と利勝の言葉に、秀忠も小さく笑い返した。
冷血、冷淡と徳川家中で称される事の多い秀忠だったが、気を許している者には寛大なところがあった。
また、宗茂は外様という事もあり、余計な気を遣う必要がないという事もあったのだろう。
利勝も、秀忠の幼年期からよく知る仲であり、信頼の厚い男なのだ。
「ま、冗談はこの辺りにしておいて、尾張の絵図を持ってこい」
小姓が秀忠の指示に従い、尾張の絵図を用意する。
尾張中に点在する支城や、砦、それに街道などが書かれてあり、「沓掛城」と書かれた箇所に、秀忠は印をつけた。
「さて――ここからどう動くか」
両名を見渡し、
「尾張の城――攻略に手間取ると思うか?」
その秀忠の言葉に、宗茂が答える。
「いえ、そのような事はないかと」
尾張の地は、桶狭間合戦が終結した後は、当時松平と名乗っていた徳川と織田との間で何度か交戦が行われた時期もあったが、清州同盟が成立して以降、織田家の天下統一が成るまで、大きな戦に巻き込まれる事はなかった。
織田信孝の反乱の際に戦いの舞台となった事もあるが、濃尾国境に近い北端部での話であり、三尾の国境に影響はほとんどない。
そんな事情もあり、尾張の城はさして増強されていなかったのだ。
「さらには兵も大しておりません」
「では、尾張の各支城に一気に攻め寄せるべきだと?」
「確かに、短期攻略を目指す以上、それも一つの策ではありますが……」
宗茂はそう言ってから首を左右に振った。
「ですが、尾張の奥深くまで誘い込むのが織田内府様の策だった場合、おそらくは兵が分散され、兵站が伸びきったところを叩いてくるでしょう」
宗茂が言った。
「……うむ」
「美濃に西軍が攻め込んでいる以上、あまり時間をかけて攻める事はできないでしょうが、そこまで尾張攻略を焦る必要もない」
ですので、と宗茂は続ける。
「美濃までの道を開くべく、途上の城を一つ一つ開城していくべきかと」
「某も同意です」
利勝も頷いた。
「ふむ。では、ゆるりと。だが確実に行くか」
美濃への経路確保を最優先としつつ、兵站の確保もするべく、余裕を持って進めていく事となり、この日の軍議は終わった。
翌日、徳川軍は動いた。
結局、軍議の最初に出たように大高城跡へと兵を動かした。
その途上、織田軍に襲撃される事なく、何なく大高城跡に到達。さらに軍勢を尾張奥深くへと動かした。
支城を攻略しつつ、兵を進めていく。
しかし、織田勢は徳川の軍勢が迫ると即座に撤退していってしまう。あまりにもあっけない攻城戦――いや、攻城戦ともいえない内容だった。
結局、沓掛城を経って三日後に徳川軍は清州城を囲む事になる。
開城勧告を行うと同時に、城を守る織田秀雄はそれに応じた。
予想外ともいえるあっけない陥落だった。
「どういう事だ? 何故こうもあっさりと……」
占拠した清州城の一室にて、秀忠は秀雄と向き合っていた。
「父上からの指示ですゆえ――」
それだけを言うと、秀雄は小さく頭を下げた。
……そういう事か。
秀忠は、秀雄の態度を見て確信した。
「なるほど、織田内府殿から我らが攻め寄せれば即座に城を明け渡すよう、言われておったのか」
「……」
「大坂に、|織田秀信≪あの御仁≫がいる以上、迂闊に織田が徳川に味方するわけにはいかん。かといって、下手に太閤に味方して我らと敵対する道を選んでしまい、それで我らが勝ってしまえば、織田も破滅。その為に太閤に味方しつつ私達に恩を売る気か」
「……さあ、どうでござろう」
秀雄は苦笑気味に言う。
正解か不正解か、答える気はないという事だろう。
「まあ、良い。ではこの城は好きに使わせてもらうぞ。構わんな」
「はっ」
「安心せい。貴殿らの事は父上にはしっかりと口添えしておく。父上も、かつての朋友である織田家を取り潰すような真似はせんじゃろう」
「ははっ」
秀雄が頷く。
そこには、かつて天下を平定した織田一族の人間であるという傲慢さはどこにもなかった。
ただ、家名の存続のみを望む戦国大名としての姿があった。
そこに、どこか哀れみに似た感情を秀忠は抱くが、次の瞬間には占拠した清州城も織田でもなく、この先の美濃――そして、西軍への衝突へと関心は移っていった。




