137話 豊臣決起
徳川家康――上杉征伐を決断。
その情報は、当然ながら豊臣秀吉の元へと届いた。
「家康め、遂に動きおったか」
その情報を聞き、ふふふと秀吉は薄く笑った。
今なお、若い肉体を持つ家康とは対照的に、髪の毛には白いものが多く見えるようになり、皺も増えている。
体も健全ではなくなり、体力も落ちている。
だが、気力までは衰えていない。
目にはなお、強い光が宿っていた。
「そうなるよう動かしたのは殿下だというのに、お人が悪い」
苦笑混じりに答えるのは、側近である黒田孝高だ。
大坂城の一室での事である。
「ま、そういうな」
苦笑気味に言うと、秀吉はさて、と続ける。
「家康の動きをどう読む?」
「はい。家康が上杉征伐を決断しました。江戸の秀忠だけではなく、自らも出兵する気のようです」
しかし、と孝高は続ける。
「我らが上方で決起すれば、家康自身の上杉領への遠征はなくなり、我らを迎え撃つべく西上せざるをえなくなるでしょう」
「家康が、上杉征伐を続行した場合は?」
「愚策ですな。そのような策を家康が取るとは思えませぬ」
孝高は首を横に振った。
「その場合は、何の遠慮も必要ありません。全軍を動かし、徳川領へと攻め入れば良いでしょう。東海筋の大名にも動員令をかけているようですので、残された兵は少ないはず。10万を超える兵があれば、容易に平定できるかと」
「うむ」
秀吉は頷く。
「ただ、家康が西上するにせよ、どの程度の数になるかが問題となります。江戸の秀忠も加わるか、それとも秀忠は上杉の抑えに残すか」
「上杉もかなりの兵を擁する。下手に数を割くと、留守中に関東を奪われかねんしのう」
「はい、上杉殿は野心豊かな御仁。今は最上領に兵が向けられておりますが、隙があれば、関東へと野心を向けるでしょう。かの地は、関東管領だった先代の時から欲していた土地ですゆえ」
「そうよのう」
「とはいえ、蒲生、最上、伊達といった親徳川の大名が東国には数多く存在します。松平秀康辺りを残し、秀忠の兵を上方に向けてもまだ余裕はあるかと」
「それでは、秀忠ら関東勢も家康と共に来るという読みか」
「はい」
孝高は答える。
「すると、徳川軍も10万近い大軍勢となるでしょう」
「厳しい戦いになるな」
秀吉の顔に、苦渋の色が浮かぶ。
「予はもう時間が残されておらんのだ。予の命がある内に、何とかせねばならん」
「……」
秀吉の言葉は、強気ではある。
しかし、どこか焦りの色も感じられた。
……やはり、殿下も歳を召されたか。
そんな秀吉を孝高はじっと見つめる。
……長年、忠臣として殿下を支えた浅野殿や、秀長様の造反がそれほどに応えて御出でなのか。
そんな内心の思いを孝高は口にすることなく、
「殿下」
「む、何じゃ?」
「家康討滅の為に軍勢を動員するとして、秀長様達は――」
「分かっておる」
孝高が次の言葉を吐き出す前に、秀吉は続けた。
「あ奴や、それに近い者達は大坂城や姫路城の留守居を任せる」
「……まあ、そうせざるをえないでしょうな。そうなると。連れていく事になるのは」
「九州から、小早川秀秋、福島正則、加藤清正、小西行長、それに――」
「某の倅もですな」
孝高が付け加えるように言う。
大坂城下で秀吉の側近として活動する事の多くなった孝高は、黒田家の家督を事実上長政に譲っており、領国である豊前の統治を任せてあった。それだけでなく、今回の戦での黒田軍の指揮も任せる気でいた。
「うむ。それ以外の小大名共にも当然、動員令を出す。島津や鍋島にもじゃ」
力強い口調である。
「毛利輝元や、宇喜多秀家にも兵を出させる。さらには、四国の長宗我部盛親、それに仙石秀久や蜂須賀家政にも」
「しかし――」
孝高は秀吉の言葉を遮った。
「毛利殿や宇喜多殿はともかく、吉川殿や長宗我部殿らは浅野殿の計画に加担した疑いがありますぞ」
「此度の戦に奴らの力は必須じゃ」
その言葉で、秀吉は孝高を黙らせた。
「それに、奴らの計画の中軸だった秀長達は留守居として残すのじゃ。奴らのみでどうこうする気はなかろう」
「それでは秀次様も――」
「無論、あ奴にも家康との決戦に参加させる。何せ、予の跡継ぎである関白なのだからのう」
当然、と言わんばかりに秀吉は言った。
「紙の上ではともかく、戦場で奴が予に槍を向けるなどありえんよ」
なおも言い募ろうとした孝高に、秀吉はそう付け加えた。
「……太閤殿下がそこまで仰られるのでしたら」
孝高もそれ以上、反論する事なく頷いた。
「そうすると、連れていくのは――」
改めて、各大名と計算できる兵力をさらさらと書く。
「およそ、14万ほどになるでしょうか」
「まあ、そんなものじゃろうな」
「しかし、島津殿は伊集院の平定に思いのほか時間がかかっているようです。長引いてしまえば――」
「そうなると厄介ではあるな。色々と餌をやってでも、兵を無理に出させる必要がある」
そう言って秀吉は、顎髭をなでた。
「伊集院征伐に手を貸すのは当然として、前から島津から要請のあった、琉球征伐の許可。さらには大幅な加増も考えてやるか」
「確かに、島津の強兵は味方にすれば頼りになりますからな」
「うむ。それで――」
ここで、秀吉は軽く手を鳴らした。
小姓達が現れ、いくつもの絵図を置いていく。
「肝心の決戦の舞台はどこになると思う?」
「そうですな」
孝高は、腕を組みしばし考えていたが、
「織田信雄様次第になる可能性が高いですな」
「あの御仁次第か――」
織田信雄。
この時、彼は100万石を超える石高を持ち、内大臣という高位にあった。
さらに、ほとんど名目だけの存在になったとはいえ、織田秀信の後見としての立場もあった。
「信雄様は、親徳川。とはいえ、今回の規模の大戦となれば、容易に判断は下せないかと」
「うむ」
「尾張を領する信雄様がこちらにつけば、親徳川大名の点在する美濃であってもこちらの陣営に引き込めるのではないかと。そうなれば、三尾国境で決戦という事になるでしょう。ですが、逆に信雄様が徳川方についた場合、大和も敵地となりますゆえ、迂闊に大軍を東に向ける事も難しくなります」
信雄は、尾張・伊勢・伊賀・大和を領している。
彼が敵対した場合、秀次の領国である近江や京の都のある山城も危うくなるのだ。
「最悪でも、中立にさせる必要があるな」
「はい。それに、弱体化したとはいえ彼は織田家の事実上の当主。織田家に徳川の味方をされると何かと不利になります」
「――うむ」
その後、美濃、尾張、三河の絵図を見ながら戦場になりそうな地について話あった。
そして、一刻ほどの時が経過する。
「今日のところはこの辺りにしておくか」
そう言うと秀吉はすっ、と立ち上がった。
「お帰りになるので――?」
「うむ。その前に、秀信や信雄の家臣共にもあっておこうと思ってな。少しでも、取り込みやすくするためにの」
二人のこの日の会話は、これで終わった。
そして、合戦に至るまでの準備は整えられていき――その時が近づきつつあった。




