135話 主従関係
豊臣秀長や浅野長政を中心とした計画の露見は、徳川家にも影響を及ぼした。
彼らの計画には、徳川家の幹部達も関与しており、その事を知った豊臣秀吉は情報を徳川側に意図的に流したのだ。
当然、徳川側としても放任する訳にはいかない。
伏見城――。
これまでにないほど不機嫌な様子で、徳川家康は親指の爪を噛んでいた。
「……」
その主君・家康に、傍らに控える本多正純や鳥居元忠は声をかけられずにいた。
特に、元忠は家康が少年だった時代からの付き合いでもあり、家康の感情を読む事には長けていたが、その元忠からしても話のきっかけを作れないほどの不機嫌だった。
「……」
何をするでもなく、座ったまま爪を噛み続けている。
このままでは、爪を噛み切ってしまうのではないかと思えるほど強く噛み続けている。
「上様……」
それでも、何とか話しかけなければいけないと考えた元忠は、絞り出すように声を出す。
「……何じゃ」
「その、秀康様の件ですが。その……」
「家中に動揺が広がっている様子。何か手をうたれた方がよろしいかと」
言いよどんでいた元忠に代わり、正純が続ける。
元忠が何か言いたげに正純を見るが、それを気にする様子はない。
こういう言いづらい事を口に出すのも家臣である自分の役割だと、正純は考えていた。
「そうじゃな」
家康も、正純の言葉に頷く。
爪を噛むのはやめたようだが、決して機嫌は良くない。
傍らで、それに気にする様子はなく家康側室のお梶が、家康の盃に酒を注いでいた。
「伊賀者にも裏を取らせたが、秀康と数正達の間に不審なやり取りがあったのは事実のようじゃ」
「ではやはり、秀康様が……」
「どうすべきか」
秀康は、この件にどの程度関与しているかは、正直言ってあまり関係はない。だが問題は、これほどまで担ぎあげようとする家臣が徳川家中にいた事が問題なのである。
「……徳川の家督は秀忠じゃ」
改めて家康は口にする。
「これは既に決めた事だし、それを今更帰る気はない」
「はい」
正純は頷く。
「故に」
ここで、傍らに置かれた酒の注がれた盃を家康は持ち上げた。
そして、苦々しい顔のままその酒を口に含む。
それから改めて口を開いた。
「秀忠と秀康の上下関係を家中に示す必要がある」
「それでは、秀康様に江戸で頭を下げさせれば良いではありませんか」
そこで、口を挟んだのはこれまで黙って家康達のやり取りを見守って来たお梶だった。
「何?」
「上様は、秀忠様を後継者にと指名されました。となれば、秀康様は秀忠様の家臣に過ぎないではありませんか」
「……む」
その言葉に、家康は思わず反応する。
分かってはいても、これまで誰も指摘しようとしなかった部分を彼女ははっきりと口にしたのだ。
「確かに、それも手だが……」
「秀康様を、秀忠様の前で頭を下げさせるべきだと?」
「はい」
元忠の言葉に、お梶は頷いた。
呼びつけた上で頭を下げさせたとあれば、主従関係が誰の目から見ても明らかなものになる。
完全に秀忠と秀康の序列が決まるといってもいい。
単純ではあるが、分かりやすい方法だ。
「上様は、秀康様を後継者に選ぶことはありませんでしたが、それでも大事に思われている御様子。ならばこそ、はっきりとした形で主従関係を示すべきではありませんか。今のままであれば、また秀康様を担ぐものが出ましょう。そうなれば、秀忠様にとっても秀康様にとっても不幸な結末になるかと。 ……無論、徳川家にとっても」
「……むぅ」
お梶の言葉に、家康は唸るように口元をゆがめた。
「……」
「はい。むしろそうなさるのが、秀康様の為かと」
お梶は空になった酒に、再び酒を注ぎながら言う。
「……」
家康の口から、次の言葉が出てくるまでしばらくの間があった。
「……分かった」
ぽつり、と家康が言った。
「秀康に使者を送れ。江戸の秀忠の元に出向いて、此度の件を釈明しろとな」
――宇都宮城。
家康の命令が、この城の秀康に届けられた。
それを聞き、秀康は唖然とする。
「なぜだ……。なぜ、私は弟に頭を下げに江戸まで行かねばならない……」
問題の連判状には、確かに秀康は署名していた。
しかし、このような重大事とは知らされておらず、思わぬ事態に驚くしかなかった。
「こんな事になるとは思わなかったのだ……」
後悔するように、ぶつぶつと呟く。
「いっその事、私を慕う家臣達をまとめて本当に父上や秀忠に背いてみるべきか……」
「お、おやめくだされっ」
慌てて止めたのは、秀康付の家臣である本多富正だ。
「上様は、そのような事態を恐れたからこそ、このような指示を出されたのです。それを台無しにするような事はおやめくだされっ」
「しかし、このままではあまりにも!」
屈辱感に唇を噛みしめるように、秀康は続ける。
「第一、父上は私を信じていないのか。本気で私が豊臣と手を組み、父上を廃そうとしていると考えているのかっ」
「そのような事はないかと……」
富正の言葉に力はなかった。
「……くそっ」
秀康は乱雑に、立ち上がると、意味もなく室内を歩き回った。
「くそ、くそ……」
苛立ちの混ざった様子で、何度も吐き捨てるように言う。
「何故、父上は私に徳川の家督を譲ってくれなかったのだ。やはり、私を実の子だと信じておらんのか? それとも真田如きに手こずったからか? だからといって、何故あのような冷血漢に家督を譲るのだっ」
「そのような事を……。実の弟君ではありませぬか」
「あちらも、私の事を兄などとは思っていまいよ」
はっ、と秀康は頭に秀忠の秀麗な冷たい顔を思い出して言う。
どうしても秀忠に対して、対抗意識を強く持ってしまう。
幼年期からそうだったわけではない。だが、秀康が徳川の家督を意識するようになってから、距離が自然と開いていった。
……その秀忠を、当主として崇めねばならんのか。
秀康の鬱屈とした思いは、なかなか晴れなかった。
結局、秀康は家康の指示に従う形で江戸城に赴き、秀忠の元を訪れた。
二人の謁見は、弟の秀忠が上座で、兄の秀康が下座について行われ、二人の上下関係をはっきりと家中に示したのだった。




