134話 古参失脚
大坂城。
この城で、太閤・豊臣秀吉はかつてないほどに無表情だった。
かつて、喜怒哀楽が激しく「人誑し」の異名をとった男とは思えないほどだ。
それはある意味、激怒している状態よりも恐ろしく、彼の周りにいる側近達も話しかけれずにいた。
「……」
秀吉の周りには、忍からは送られてきていた報告書が散らかっている。
それを片付けようともしない。
先ほどから、無表情のまま送られて来た報告書を読み、投げ捨てるかのように近くへと放り、新たな報告書を読み、とそれを繰り返している。
「……」
先ほどからずっとこの調子である。
側近達は、何か口を挟むべきだろうかと悩んでいる様子だ。
だが、側近達が言葉を出すよりも、秀吉の方が早かった。
「……まさか、このような事になっているとはな」
ようやく出てきた言葉がこれである。
顔には、哀愁とも苦笑とも言えないものが浮かんでいる。
「で、殿下……」
「しかし」
側近の言葉を秀吉は遮った。
「最悪の事態に至るまでに見つける事ができて幸いともいえる」
秀吉は、報告書を粗雑に放り投げる。
「では、例の連判状とやらに書かれている者達を処罰されるので?」
調査の結果、乗っ取り計画に参加する武将達の連判状そのものはさすがに手に入らなかったものの、行き来する城や書状のやり取りなどから、連判状に署名してあった武将達に、大よその目安をつける事はできていたのである。
「愚か者」
発言した側近に秀吉は冷たい視線を注ぐ。
「報告にあった武将達は、予の覇業に貢献した者も少なくない。そのような事をすれば、奴らを慕う将達は予に不満を抱き、豊臣は弱体化する。そうなれば、徳川を喜ばせるだけであろう」
「ははっ、浅慮でした」
慌てて側近が頭を下げる。
「では、どうされるので?」
「秀長や長政達に大人しくするよう、書状を送る」
「それだけでよろしいのですか?」
側近達は意外そうに、顔を見合わせた。
もっと苛烈な判断を下すとばかり思っていたらしい。
「それだけでも、あ奴ら理解するはずじゃ。それでも理解できず、予に歯向かう
道を選ぶというのであれば――是非もない」
浅野長政は、計画の露見を知った。
それは、秀吉からの一通の書状だ。
長政を咎めるような内容ではない。
既に、老齢に入った長政を労わり、精力的な活動をやめるようにといった内容だった。
しかも、隠居料として石高を加増するとまであった。
書状には、豊臣秀長、それに連判状に書かれた武将達に同じような内容の書状を送ったとわざわざ付け加えてある。
それで、長政は全てを察した。
……計画がばれたのか。
それが、長年の付き合いである秀吉からの返事だった。
今回、乗っ取り騒動など起きなかった。
少なくとも、対外的にはそういう事にする。
書状には、長政が隠居した後、子の幸長をこれからも優遇するといった内容の文面もある。
……大人しく儂らが隠居すれば、幸長はもちろん、例の連判状に関与した秀長様や秀次様を含む全ての連中も罪には問わない。
暗にそう言っているような気がした。
「……ぬぅ」
思わず唸るような声が出てしまう。
事が露見した以上、長政の計画は完全に失敗した。
これ以上は、豊臣を割る無様な内戦にしかならない。
「ここまで、か」
長政も観念した。
元々、秀吉に対する恨みから出た計画ではなく、秀吉とは違った形とはいえ、豊臣の安泰を考えた末の行動だったのだ。
もはや、これ以上秀吉の野望を妨げる気は長政になかった。
「祐筆を」
長政の指示のもと、祐筆が現れる。
「豊臣秀長様、秀次様。それに、石川数正殿らに書状を送る。文面は……」
計画の中断、それに関して今後の動向に関しての書状が作られる。
「早馬の用意を。早急にこれを届けてこい」
各武将達に、長政の書状が送られ、武将達も大人しく秀吉の命に従う事を決断する事になる。
これで、今回の乗っ取り騒動は一旦の幕が引かれる事になったのである。
「これで、この問題は終いじゃな」
「何とか無事に収まりましたな」
「一時はどうなる事かと思いましたが……」
「これで一旦は片付いたかと」
事件の事後処理がすんだ後、大坂城の一室で秀吉は言った。
その秀吉に、石田三成、増田長盛、それに長束正家らが応じる。
「しかし」
傍らから黒田孝高が口を挟んだ。
「秀長様や、浅野殿までがこのような計画に加担するとは……」
孝高にとって、彼らは羽柴姓を名乗っていた秀吉軍団の中軸ともいえる者達だ。
その彼らの今回の行動に、孝高は信じられない思いを抱いていた。
「まあ、奴らも奴らなりに豊臣の事を考えていたのであろうよ」
秀吉の返事は、どことなくそっけなかった。
本気でどうでも良いと思っているのか、それとも古参の反逆に落ち込んでいるのか――その秀吉の表情から孝高は読み取る事はできなかった。
「それで、秀次様は?」
ここで三成が訊ねた。
秀次付でもある彼としては、秀長や長政の処遇よりも秀次の方が気になるのだろう。
「咎めはない」
はっきりとした口調で秀吉は言った。
「ま、即座に予に知らせんかったのは感心せんが、乗り気で参加したわけではなさそうじゃしの。それに、奴の力は豊臣の世にまだ必要じゃ」
秀吉はそう言うと、傍らの皿に置いてある菓子を口に運んだ。
「……」
だが、やがて不快そうな顔になると、口をもごもごと動かし、何かを口から吐き出す。
何事かと側近らが見守ると、口の中から出てきたのは菓子ではなく歯だった。
「ちっ……。抜けおったわ」
舌打ちしながら秀吉は言うと、既に役目を終えて秀吉の口から抜けた歯をつまみあげ、小姓にそれを預けた。
「それは保管しておけ。役に立たなくなったとはいえ、予を支えた大事なものぞ」
そんな秀吉に、側近らの何とも言えない視線が注がれる。
どう反応するべきか迷っている様子だ。
「やはり、予も歳か……」
嘆息するように秀吉は言う。
「もはや、迷ってはおれんか」
「殿下?」
「孝高、三成、長盛。予は決めたぞ」
何となく、秀吉の次の台詞を側近達は察した。
だが、あえてそれを口にする事は避けた。
そういう出しゃばった行為を秀吉は嫌うのだ。
「近い内に、徳川右府と一戦交える」
「……おおっ」
予想通りの発言だったが、長盛がやや大げさに声を出す。
「いよいよですか」
「うむ。やはり時間をかけるわけにはいかんと分かったしの」
「しかし、殿下」
孝高が訊ねる。
「徳川に何を理由に戦を――? 大義名分は今のところありませんぞ」
「理由など、どうにでも作れば良い」
秀吉は、手首を上下に振った。
「三成、適当な理由を考えておけ」
「はっ」
指示を受けた三成が頷く。
「既に、いつでも大軍を動かせるよう、何年も前から指示は出してある。問題なく兵を動かせよう。それに、兵糧の方も問題ないな」
「はい」
ここで、秀吉は初めて正家に話しかける。
かつて、丹羽家に仕えて織田軍団の兵站を担う立場にいた彼だが、今はその才を見込んだ秀吉によって重宝されていたのだ。
「10万単位の兵が数年は動かせるだけの財を、我らは蓄えてあります」
「うむ」
秀吉は満足そうに頷く。
「では、数か月後――今年の夏の終わり、秋ごろを目安に兵を動かせるようにしておけ。無論、お前達もじゃ」
孝高、三成、長盛らにも視線を動かす。
「ははっ」
豊臣秀長や浅野長政らの計画は頓挫した。
ここで、豊臣秀吉は改めて徳川との決戦に決意を新たにする。
大合戦の時が、近づこうとしていた。




