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乖離戦国伝  作者: 藍上男
第4部 天下を継ぐ者
134/251

133話 関白秀次

 紀伊国――和歌山城。


 この城を豊臣秀次は訪れていた。

 相手はこの城の主である豊臣秀長である。


「このような形で迎えてすまんな」


 秀長は、布団の上にいた。

 掛け布団を膝に乗せ、小姓の力を借りて上体を起こすのがやっといった様子だ。


 それほどまでに、秀長の病は重かった。

 もはや、いつ黄泉路へと旅立ってもおかしくない。

 いや、医師には数年前から余命わずかと宣告されたような状態だったのだ。それにも関わらず、今日まで生きてきたのは奇跡といってもいい。


「いえ、お気になさらず」


 そういった事情を秀次も知っているだけに、無理強いはしない。

 それでなくとも、秀長は秀吉を支え続けた重鎮であり、今なお強い影響力を持つ男だ。


「それで――」


 病のためか、長い療養生活の為か、すっかりやつれてしまった顔で秀長は訊ねた。


「今日は何用かな?」


「例の連判状の件です」


「……」


 秀長の顔に変化はない。

 ただじっと、秀次の次の言葉を待った。


「例の連判状――あれに署名されているのは」


「ああ」


 秀長は、否定する事なく頷いた。


「間違いなく、儂の署名じゃ。儂の意思でしたものじゃ」


「……」


 その言葉に驚いたように秀次は目を見開く。


「何故、そのような真似を……」


「全ては豊臣の為じゃ、儂らが築いてきた豊臣の為じゃ」


 秀長の体は弱々しいままだが、言葉は強い決意が込められている。

 目も死んでいない。

 力のある目でじっ、と秀次を見つめる。


「……良いか。戦など所詮は博打。確実に勝てる戦などありえんのじゃ」


 ごほ、と一度咳込みながら秀長は続ける。


「力で勝っておっても、その地を統治しきれなかったり、予期せぬ事態で台無しにされたりする事もある。儂はそれを朝鮮での戦で思い知った」


 織田信孝が反旗を翻し、朝鮮在留軍の総指揮を執った秀長の口調には苦いものが混じる。

 当時の記憶が脳裏に蘇っているのかもしれない。


「徳川と手打ちできるなら、それに越した事はない。それに、世間は豊臣優位と見ておるが儂はそうは思わん」


「何故ですか?」


「兄者の体じゃ」


「太閤殿下の……?」


「強がっておるが、既に体中がボロボロじゃ。最近では、馬に乗る事すらできなくなったと聞く。もはや、長くは持つまい」


「そのような事は……」


「隠さなくとも良い。それは、誰もが感じ取っている事じゃろう」


 否定しようとする秀次に、秀長は告げる。


「そして、儂もじゃ。正直、今日まで生きながらえて来た事が奇跡といえる。だが、奇跡は長く続かん」


 どこか昔を見るような、遠くを見るような目だ。


「一方、徳川家康はといえば、まだまだ壮健。後10年以上は生きるじゃろう。儂らが死んだ豊臣家と、徳川家康が残った徳川家。そうなれば、どちらが優位かは明白」


「……」


 そうはならない。

 拾丸への繋ぎであれ、後継者に指名された自分が豊臣をまとめあげて徳川家に対抗する。


 そう言えるだけの自信が秀次にはなかった。


「松平秀康殿は、父親への反発もあってか、徳川の血を引きながらも豊臣贔屓。彼を徳川の後継者に祭り上げる事ができれば、豊臣との協調も不可能ではない」


「やはり、あの連判状にあった秀康殿の署名も本物なのですか?」


「そうじゃ。徳川家との取り次ぎをやっておる浅野長政が秀康殿に書かせた」


「では、秀康殿はこの件を?」


「了承済みだ。自身が徳川家の家督につけるのであれば、協力を惜しまないとな」


「……」


 思った以上に手が回されている事に、秀次は唖然とする。

 もはや、自分が何を口を出しても無駄――そう悟りつつあった。


「……殿下は。太閤殿下はどうされるのですか?」


 辛うじて、それだけが口から出てくる。


「兄者は――」


 秀長はそう言ってから、ごほり、と咳込みながら続ける。


「これを機に隠居していただく事になる」


「隠居なら既にしているではありませんか」


「名目上はな。だが、実質的には太閤として関白以上の権力を振るっておるようではないか」


「それは……」


 秀次は黙り込む。

 秀次が関白になってからも、秀吉は本来関白が担当すべき業務の多くを担っていた。

 それは、関白である秀次自身がよく理解していた。


「兄者には、今度こそ本当の意味で、隠居していただく」


 秀長は静かな声色のまま言った。


「豊臣家の頭としての権限は、関白に完全に移譲させる」


「……」


 そうなれば、自分が本当の意味で豊臣家の当主だ。

 秀次にとって、歓喜などより、困惑の方がはるかに強かった。


 ……儂が、豊臣家の当主?


 ……戦乱の世の傑物・豊臣秀吉の代わり?


 すっ、と背筋が冷たくなる。

 秀次は予想以上に大きなものが自分に渡される事を全身で感じ取り、恐怖すら感じていた。


「で、ですが」


 秀次が、辛うじて反論の言葉を口にしようと唇を動かす。


「大恩のある、叔父上を……太閤殿下を廃そうという気にはとても……」


「安心せい」


 秀長が、秀次を落ち着かせるように言った。


「確かに儂は豊臣家も大事だが、兄者も大事なのじゃ。隠居したいてだいた後は静かに余生を送っていただくだけじゃ。害するような事は断じてせん」


 そう言う秀長に、もう秀次は何も反論できず、大人しく和歌山城を去るしかできなかった。






 大坂城――。


 この日、豊臣秀吉は幾つもの報告書を前に、じっと押し黙っていた。

 傍らには黒田孝高、増田長盛、石田三成らの姿がある。


 秀吉の元には、各地に散らばった忍から送られて来た報告書がある。

 それを不機嫌そうに眺めていた。


「……」


 側近達が、不安そうにしている中、黒田孝高が口を開いた。


「殿下」


 豊臣秀長が病に倒れ、蜂須賀正勝が没し、浅野長政が遠ざけられるようになった今、この場にいる者達の中では実績・信頼共に最も高い存在となった。


「その報告は誠なのでしょうか」


「まだ疑惑の段階じゃ」


「しかし、信じられまぬ」


 秀吉は、敵対する大名家だけではなく、秀長や秀次といった一門の中にも間諜を忍び込ませていたのだ。


 ――その間諜達の暗躍により、豊臣秀長や浅野長政らを中心とした乗っ取り計画は露見した。


 無論、秀長達も秘密の保持には警戒はしていたが、秀吉の間諜はその上をいった。


「まさか、秀長様や浅野殿が、秀次様を旗頭にして、殿下に反旗を翻そうなどとは……」


 しかし、決定的な証拠はこの時点ではなかった。

 その為、秀吉の側近達も、半信半疑といった様子なのである。


「三成」


「はっ」


 秀吉の視線が三成へと向けられる。


「お前は、秀次付として秀次の元に送らせておる。 ……何か聞いておらんのか。それか秀次に不穏な動きはなかったのか?」


「いえ、某は特に。ですが」


「ですが?」


「秀次様は、ここ最近何やら思案に暮れておられる御様子。それが、浅野長政様が以前に城を訪れた時期からです」


「その時に、話を持ち掛けられたというのか」


「そこまでは。しかし、関連性はあるかと」


「……うむ」


「ですが」


 孝高が口を挟む。


「それだけで、計画に加担したというのは早計では?」


 秀次を擁護するような口調だ。

 しかし、三成がそれに反論する。


「もし、計画に加担する気がないのであれば、秀長様や浅野殿の計画を殿下に伝えれば良いではありませんか。それをしないというのは」


「待たれい」


 孝高が、三成の言葉を遮るように言う。


「そもそも、どうして浅野殿が訪れたのがそのような計画の協力を取り付ける為だと決めつける。浅野殿と秀次様の悩みはまるで関係ない事かもしれないではないか」


「決めつけてなどおりません。ただ、状況的にそれが自然かと」


「二人とも、もう良い」


 秀吉の目がすっと細まる。

 かすかにではあるが、苛立っている様子だ。

 そんな主君の前でこれ以上争うべきではないと考えたのか、二人は黙り込んだ。


「長盛」


「はっ」


 す、と長盛が前に出る。


「秀次らの叛意が真実か否か調べる必要がある。全てはそれからだ」


 秀吉の言葉に長盛は頷く。


「はっ」


「秀長や秀次。それに長政らの居城の人の出入りを洗え。密書のやり取りをしているようなら、それを奪え」


「承りました」


 長盛が頷く。


「では下がれ」


「はっ」


「お前達もだ」


 長盛に次いで、孝高や三成、それに他の側近達にも退室を促す。


「予はしばらく一人で考える」


 主君の命令となれば、否とはいえない。

 孝高や三成も、退室していった。

 広い広間に、秀吉一人がぽつんと残された。


 ……秀長や秀次が。間違いであれば良いが。


 じっと、広い室内で秀吉は目を瞑り考え込む。


 ……だが、誠であるというのならば、手を打つ必要がある。


 ……そう、それが秀長や秀次であってもじゃ。


 ……予を廃そうという考えなど、起こされては困る。


 かっ、と秀吉の目が見開かれる。


「全ては豊臣の為。予の築いてきた豊臣の為じゃ」


 そして出てきた言葉は、皮肉にも秀長と全く同じようであり、微妙に異なる言葉だった。


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