132話 太閤秀吉
慶長3年。
西暦では、1598年になった。
この年、豊臣秀吉は関白職を辞した。
だが、それは秀吉が権力の座から遠のいた事を意味しない。自身は、隠居すると同時に太閤を名乗るようになり、さらには後釜として甥の豊臣秀次を指名したのだ。
関白・秀次の誕生である。
伏見城にて、板倉勝重から徳川家康はその報告を受け取っていた。
「秀吉が隠居したか」
「しかも、後継者として秀次を指名するとはのう」
この日は、傍らに本多正純と榊原康政。
それに、鳥居元忠を伴っている。
「てっきり、子の拾丸を後継者にする気だとばかり考えておったが……」
「はい。意外でした」
家康の言葉に、勝重は頷く。
「おそらく、秀次を繋ぎのつもりで指名したのじゃろう。関白――いや、太閤と名乗るようになったのか――の体調は思わしくなかったようだしの。余命短かろう」
「先の将軍や、小早川隆景が昨年死んで、そろそろ自分もあの世に招かれると思ったのかもしれませんな」
康政の言うように、前年に足利幕府15代将軍である足利義昭、それに毛利両川の一人である小早川隆景が前年に他界。
後世に戦国時代と伝わるよう、この時代の重要人物がこの世を去ったのだ。
「そうよな」
「しかし、上様。先の公方様が亡くなられた今なら、憚る必要はなくなりましたぞ」
ぎらり、と正純は目を光らせる。
「将軍職か」
「はい。徳川の新たな治世を築くのであれば、幕府という存在が望ましいかと」
「ふむ……」
それは、織田親子が屠られて以降、家康がずっと考え続けてきた事だった。
織田親子の死後、無様にも織田家は衰退していき、家康や秀吉の台頭を許した。その理由とし大きかったのは、織田を頂点とした統治機構がしっかりとした形で築かれる事がなかったというのが大きい。
あるいは、彼らの頭の中にその考えはあったが、それを公表する前に亡くなっ
たのかもしれないが、それはもはや分からない。
いずれにせよ、家康は安泰の世を築く為には多くの人々が従う存在を欲していたのだ。
「しかし、上様は既に右大臣という高位の職に就いておられる。わざわざ将軍職など手に入れずとも良いのでは?」
「いえ、将軍という形は必要です」
元忠の言葉に、正純は反論する。
「何より、諸大名から庶民に至るまで徳川の治世だという事を分かりやすくさせる為にも、幕府という名は大きい」
「すると、上様が将軍。そして徳川幕府か。うむうむ……」
どことなく、元忠は興奮した様子だ。
家康を今川家の人質時代から知る彼としては、自らの主君がここまでたどり着いたという事で感慨深いのだろう。
「まあ待て。そう先走るな」
家康が苦笑気味で元忠を制する。
「まだ、幕府を開くと決まったわけではない」
「ですが、足利幕府は既に滅んだではありませんか」
足利義昭は、かつて京の都を追放されてからも将軍職を解任されたわけではなく、織田領を脱した後、毛利領の鞆にて亡命幕府ともいうべきものを立ち上げていた。
しかし、毛利が織田に従属する道を取ると同時にこの亡命幕府は自然消滅した。織田信孝の決起の際、信孝の養父になるという話が出た事もあったが、信孝が劣勢に立たされるとその話も消えてなくなり、信孝は滅んだ。戦後、その責任を取る形で義昭は将軍職を返上した。義昭に子はいたが、彼らを16代将軍に指名する事もなかった。
この時、本当の意味で足利幕府は滅んだといってもいい。
「だが、だからといって儂がすぐに将軍になるわけにはいかん。現状、朝廷は秀吉贔屓じゃ」
現在、世間や諸大名。それに、調停も徳川よりも豊臣優位と見ていたらしく、何かと豊臣優遇の状態が多かった。
その状態で、徳川家に将軍職を与えてくれるかというとかなり疑問だ。
「そのようですな」
勝重は淡々と応じる。
朝廷との折衝を任されているだけの事はあり、その辺りの空気に彼は敏感だった。
「現状で将軍職を願っても、実現する可能性は乏しいか」
「はい」
勝重が頷く。
「太閤がいる限りは……」
「禿鼠がっ!」
秀吉嫌いの康政が吐き捨てるように言った。
「ま、良いじゃろ」
だが、肝心の主君・家康はさして気にしている様子はない。
「どちらにせよ、幕府を開くのは最後の締めじゃ。秀吉を倒せば、朝廷も認めざるをえんじゃろ。徳川の世をな」
そう言って皆を見渡し、宣言するように言った。
「その時まで、お前達に力を貸してもらう必要がある。頼むぞ」
――大坂城。
この城で、もはや我が家同然のように振る舞うようになった秀吉は、自分用に用意させた寝所で睡眠をとっていた。
……。
『――禿鼠よ――』
『――羽柴筑前――』
……。
『お前ももう歳じゃ』
『予は、お前よりも若く逝った』
……。
…………。
『平民の子から、関白にまでなった』
『もう、良いではないか』
……。
…………。
………………。
……さっきから何なのだ。
……この無礼な声の主は。
……予を誰だと思っておるのじゃ、日輪の子にして太閤・豊臣秀吉ぞ。
秀吉は、先ほどから聞こえてくるこの声に反発する。
だが同時に、この無礼な声の主に聞き覚えがある気がしてきた。
――禿鼠。
かつて、そう秀吉は呼ばれていた。
だが、今となっては面と向かってそう呼べる相手はいない。
敵対する徳川家の者や未だに怨みを持つ秀吉が滅ぼした大名や国衆、旧安土方の者達は影で呼んでいるかもしれないが、さすがに本人の前でそれを口にする事はなかった。
それにだ。
――羽柴筑前。
秀吉は、かつて筑前守の叙位を賜っていた時期がある。
が、太政大臣、そして関白となってからはそう呼ばれる事もない。
……ああ、この御方達か。
何だ、と秀吉は思う。
そうすると、これまで霧がかかっていたかのようにぼやけていた視界が晴れる。
織田信長、信忠親子の顔がはっきりと映った。
『禿鼠よ、もうよかろう。十分この世の快楽を味わったであろう』
『そろそろ、予と共に来い』
親子が揃って口を開く。
「何を、言われるか……」
自分はまだ死ねない。
子の秀頼はまだ幼い。
仮に死ぬとしても、最大の対抗馬である徳川家康に致命傷ともいえる打撃を与える必要がある。
家康を討ち取る事ができなかったとしても、豊臣と徳川の格付けをはっきりとさせる。そうしないと、豊家安泰とは言えない。
……第一、上様達の仇を討ったのは予ではないか。ならば、上様達の手にするはずだった天下を手にしても良かろう。
『……』
『……』
じっと、織田親子は秀吉を見つめてくる。
自分は咎められるような事はしていない。
主家の乗っ取りに関しても、どうこう言われる筋合いはない。
少なくとも秀吉はそう考えていた。
「信長公とて、元はといえば尾張の守護を乗っ取り、室町の公方様を追放した。まさか、某を咎めるような器の狭い事を言う気ではあるますまいっ」
気がつけば、つい強い口調で言っていた。
『そうよな』
『予も、父上もお前を咎める気はない』
「ならば……」
反論しようと秀吉は口を開きかけるが、それよりも早く。
『ならば当然、それはお前にも言える』
『お前が築き上げた豊臣という家、それにお前の息子もまた、徳川に食われても文句は言えまいな』
「なっ――」
何を言われるか、と秀吉は思う。
豊臣は、心血注ぎ、まさに全てを賭けてまで築き続けた豊臣秀吉という男の総決算。
それを――。
「黙られよっ」
強い口調で目の前の亡霊に怒鳴る。
「そのような事――」
そう言いかけたところで、秀吉の意識が薄れていった。
「お目覚めでしょうか」
はっ、と秀吉の意識は覚醒する。
視界には、黒田孝高の姿があった。
「……何があった」
今まで見ていた夢を忘れるように、上体を起こしながら厳かな声で秀吉は訊ね
る。
「織田秀信様がお呼びです。どうやら、大坂城に参られたのに、挨拶がない事に憤っておられる御様子」
「あの御仁か……」
途端に、今見た夢を鮮明に思い出してしまい、秀吉はちっ、と軽く舌打ちする。
「構わん。無視せい」
「よろしいのですか?」
黒田孝高からの問いに、秀吉はこう返した。
「今、下手にあの御仁に頭を下げてしまうと逆にややこしい事になるからの。予が頭を下げるべき相手は、もはやこの世で一人だけぞ」
おそらくは、帝の事を言っているのだろう。
「だがまあ、はっきりと拒絶してはまずいか。病とでも言っておけ」
「はっ」
孝高も、それ以上追及する事なく頷く。
彼から見ても、もはや秀信など主君だと考えていないらしい。
最も、織田家が未だに天下人だと考えているものなど、秀吉に限らずもうほとんどいないだろう。
信長と信忠の幻が、再び浮かぶ。
……信長公、信忠公。申し訳ないが、秀信に天下人としての器はない。天下人となるのは予だ。この豊臣秀吉ぞっ!
秀吉は強く宣誓するよるように念じると、脳裏に浮かんだ信長と信忠の幻影を振り払った。




