131話 伏見評議
伏見城。
徳川家康は、この城に各大名や有力家臣を集め、毎日のように宴を開いていた。
無論、単に酒を飲む為だけに呼び寄せているわけではない。
いずれ来るであろう戦いに備え、わずかでも親徳川大名を増やす為の工作である。
今日訪れた客は、島津貴久の孫であり、現在家督を継いでいる島津義弘の子である島津忠恒だ。
それに、島津家の家臣である伊集院忠棟も同行している。
「よくぞ参られた。今日は酒も肴も存分に用意してある。ゆるりとすごされよ」
家康は笑顔で迎え入れる。
右大臣という高位にある家康自ら丁重に出迎えた事もあり、忠恒も機嫌が悪くなさそうだ。
ゆっくりと、盃を口元に運ぶ。
「うむ、さすがは右府殿の用意された酒。美味だ」
「誠に……」
忠恒の言葉に、忠棟も応じる。
続く言葉を待たずに、一気に注がれた酒を飲み干す。
「豪快な飲みっぷりですな。それではもう一杯……」
ただちに、忠恒の近くにいる侍女が酒を注ぐ。
それも忠恒は即座に飲み干す。
元々この忠恒は酒好きだ。
さらには和歌や蹴鞠のような文化にも興味を示す人物でもあり、大陸遠征の際は遠征先に蹴鞠場を作るほどの入れ込みようだ。
だが、決してそれだけの人物ではなく明や朝鮮との闘いでは多くの武功をあげている。特に順天城の戦いでは父・義弘と共に奮戦し、籠城する小西行長と宗義智の救援に見事に成功している。
その時、彼はまだ戦経験がほとんどない少年でありながら並外れた度胸と武勇を示したのだ。
「はは、武勇に優れた忠恒殿とこうして酒を飲み交わせるとは。今日は誠に良い日じゃ」
「いえいえ、某などまだまだ未熟でござるよ」
はは、と忠恒は苦笑気味に言う。
「某はまだ戦経験のろくにない若造」
ここでそこで、と急に目を光らせた。
「そのために、経験を積む機会をいただけませんかな」
「機会とは?」
不敵な笑みが忠恒に浮かぶ。
「琉球征伐でござるよ」
「……」
家康の眉が、かすかにひそめられる。
琉球の切り取り次第という約束は、かつて織田信忠が九州征伐を行った際に島津が降伏する条件の一つだった。
が、大陸遠征が始まり琉球に兵を出す余裕など島津にはなくなった。
信孝の反乱が終わり、全軍が朝鮮から撤退したものの、明との早期講和を目指す豊臣秀吉の方針により、明の冊封国である琉球への手出しは禁じられた。
しかし、いまだに野心を治める事のできない義弘・忠恒親子は懇願を続けてい
たのだ。
「明は陸路でつながっている朝鮮と違い、琉球などさして重視しておりません。援軍を指し出す事もないでしょう。琉球の兵など、我ら島津の敵ではありますまい」
「確かに、島津殿の兵は精強。琉球の兵など問題にならないであろうが……」
家康の歯切れは良くない。
琉球は交易という点で魅力的な地だ。
島津の版図に入るのは悪くない。
だが、時期が悪い。
未だ明や朝鮮とは交渉の最中。
それも、やっと講和の目途がたったところなのだ。
余計な事をしてほしくないという気持ちが大きい。
明や朝鮮との講和交渉を主導しているのは秀吉だが、家康にとっても明・朝鮮との講和は必要なのだ。
「申し訳ないが、今琉球に兵を出されては、必死の思いで明や朝鮮との講和を進めている対馬の宗殿の面子を潰す事になる」
しかし、と家康は続ける。
「明や朝鮮との講和がなり、この家康が公儀を差配できる立場になっていれば、躊躇う事なく、島津殿に琉球征伐の許可を出せるでしょう」
「左様でございますか。では、某はその日を楽しみにしております」
それ以上、琉球征伐に関して話を戻す事なく雑談が続き、やがて忠恒は帰っていった。
忠恒が屋敷を出たのを確認し、隣室へと家康は入る。
そこには榊原康政、本多正純が控えている。
徳川家御用の商人である茶屋清忠、家康側室のお梶(英勝院)もいた。
「島津殿は帰られたようですな」
「うむ。少し飲み過ぎてしまったわ」
正純の言葉に、家康は応じる。
「上様、お水を」
「おお、すまんの」
酔い覚まし用の水の入った器をお梶が差し出す。
家康はそれを軽く口に含んだ。
「あれが島津の跡取りか。お前達はどう思った?」
忠恒は、現在島津家の当主・島津義弘の三男だ。
長男の鶴寿丸は既に亡く、次男の久保は朝鮮での病が原因で既に没している。奇行も目立つ人物ではあるものの、優れた器を持つ人物である事には間違いなく間違いなく、島津の家督を継ぐの忠恒だと思われていた。
「なかなか、難儀な御方かと」
正純が答えた。
「難儀か」
「はい。一見、単純に見えてなかなか理解しかねる思考を持った御仁かと。下手
に御すのは難しいでしょうな」
「なるほどな」
正純の評価に家康は興味深そうに頷く。
「康政はどうだ?」
「油断できない男かと」
康政が応じる。
「結局のところ、何一つ言質を取る事はできませんでした。口では上様に好意的な事を言っておりましたが、いざという時には平気で上様に槍を向けるかと」
「ふむ」
康政の答えに家康は頷く。
「お梶はどうじゃ?」
「私ですか?」
彼女は家康の側室であり、このような場で意見を聞くような相手ではない。
だが、家康は彼女の聡明な部分を気に入っていたし、だからこそこのような場にも呼んでいるのだ。
「そうですね。あの御方、付き添っていた家臣の方とうまくいっていないのではないでしょうか」
「ほう」
そんな彼女の答えに、家康は興味深そうに目を細める。
「伊集院忠棟の事か。何故そう思う」
「何故、と言われても困るのですが強いて言うのであれば、あの御方が島津のお殿様を見る目がひどく冷めておりました。榊原様や本多様が上様を見る目とはまるで違います」
「それが理由か」
「はい」
お梶は頷く。
「それでは理由になっていないではないか」
「いや、そうでもないぞ」
眉を顰める正純に、康政が口を挟む。
「時に直感というものは、なかなか侮れん。時に数刻にも渡る思考よりも、一瞬の直感の方が正しい場合もある」
「……」
康政の言葉に何か言いたげに正純は口を開きかけたが、結局はその口を閉ざした。
父・正信と同様に、この二人の相性は良くないようだった。
そんな険悪になりかえた空気を振り払うように家康は軽く手を叩いて三人の
顔は見渡した。
「それぞれの意見はなかなかに興味深かった。参考にさせてもらうぞ」
「ははっ」
主君の言葉に三人は畏まる。
「さて」
ここで、視線が茶屋清忠に向けられる。
「以前、頼んでいた調査はどうなっておる」
「はい」
徳川家御用商人である彼に、家康はある調査を命じていた。
「徳川様の仰るように、ここ最近、豊臣系列の武将達は大量に武具や兵糧を買い求めております。おかげで、随分と値上がりしておりまして……」
「やはりか」
家康の言葉に、康政が訊ねる。
「あの禿鼠は戦支度を?」
康政が、秀吉を禿鼠と蔑称で呼んだ。
元々彼は、秀吉嫌いの筆頭であり、それは関白になってからも変わっていなかった。
「おそらくな」
「それは良い。あの忌々しい禿鼠を退治する好機。隠居前に良い土産ができそうじゃ」
康政は、翌年には50になる。
人生50年と呼ばれた平均寿命の短いこの時代、隠居するには十分な年齢だ。そろそろ家督を子の忠長に譲ろうと考えたのだ。
「なかなかに頼もしいの。だが、まだ老け込まれては困るぞ」
「無論です。某が隠居生活を楽しむのは、上様が天下人となられた後の事。まあ、さして時間がかからんでしょうが」
「頼もしいの」
家康がふふ、と小さく笑った。
そして、気を引き締めるように続ける。
「秀吉の決戦は近い。お前達の働きに期待しておるぞ」
そう言ってこの場に集まる者達の顔を見渡し、家康は言った。




